母の人生

母が亡くなった。

癌で余命宣告されて半年も経たなかった。

悲しいのか淋しいのかわからない。


ただ、いつも思っていたことは、可哀想な人、それだけだ。


もっているものに満足せず、周りと比べて、嘆き、解決策よりも、ガマンすればいいと、現状維持を選び、他人を羨む。そんな人だった。

自分しか見えていない、私は、母の中にいたのだろうか。母は私を愛していない。私はずっと愛して欲しいと、ずっとずっとずっと子どものまま、成長してしまった。不完全な人間だ。

穴が空いたまま成長したから、物やお金や成功しても、満足できない、いつも孤独しか感じない、淋しい人間だ。


そんな私からみても、可哀想な人だった母の人生を、遺しておきたいと思って、筆を執った。

飽きっぽいのと、恥ずかしさからすぐに消してしまうかもしれないが、ここに、ほんの暇遺しておく。


私の幼少期の記憶では、3歳の頃の記憶が1番幸せだったからか、鮮明に憶えている。

近くで遊んだタコ公園、自転車の後ろに乗って行った保育園、好きだった八百屋の肉まん、夏に無人販売で買ったかぶと虫の幼虫、保育園の庭のザクロの味、台所の砂糖の瓶に連なったアリの行列、くだらない記憶だが穏やかな日々だったことを憶えている。


4歳で、一軒家に引越すことになった。

ここからは、あのきらきらしていた輝きがなくなった気がする。私は、子どもでいることができなくなった、子どもとしての無邪気な日々の終わりだったのかもしれない。

引っ越しの日、照明がまだついていない、暗い部屋で母と妹たちと私だけで、夜を迎えて、暗くて怖い、不安な気持ちをよく憶えている。

この暗さ、不安はこの後の生活を予兆していたようにも思える。


母は若かった。この頃25歳、父も若く27歳。若くして結婚して、3人も子どもを産み育て、家を建てた。バブルの時代で、働けば働くほどお金が稼げる、良い時代だった。

父は、酒、タバコ、ギャンブル、女、なんでもやった。極めつけは、暴力だ。肉体的にも、精神的にも酷い暴力を奮った。俺が稼いでるんだ、誰の金で生活しているんだが口癖だった。車も、家も、グランドピアノもあっても、私はちっとも幸せじゃなかった。だって、母は服も何一つ自由に買えない、私たちは、欲しいものも口に出せない、同じ家の中にいても、貧乏だったのだ。母は父の暴力に対して対抗する、気が強い性格だったので、毎日、毎日、怒声と殴り合いの音が聞こえて、二階で息を殺して寝たふりをしていた。お前たちはちっとも助けにこない、お前たちがいなければ離婚できるのにと毎日のように聞かされた。なんだかチクッとしたけれど助けにいけない自分を責めた。


母はよく働いた。一本何円にもならないシャーペンの芯を入れる内職をずっと早朝から日中もして、わずかな小金を稼ぎ、毎日、掃除機をかけ、雑巾がけをして、子どもがいる家とは思えないように片付けていた。料理も4品は最低でも食卓に上がっていた。それでも、毎日何かしらの、些細なことで喧嘩になるのだ。

おかずが冷めている、子どもがこぼした、ご飯を米粒残したとか、本当に些細なくだらないことで、キレるので落ちついて食事が出来ない、早く食べなくてはと早食いのクセがついた。


そんな父だけでなく、やはりそのように育てた祖父母や伯母、伯父も酷く、おさな心に渡る世間は鬼ばかりを観て、これのどこが鬼なのか?とずいぶん世間は甘いなと思った。


私の話が多くなってしまったが、まだまだ記しておきたいことが、たくさんある。

ブログではない気がするが、少しずつ、いろんな出来事を、追悼していきたい。