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1丁目住人のブログ

一人一人が楽しく生きるためのブログ。

仕事後、写真家、内科の開業医と方と一緒に新年会を行った。

数十年医者をやっている方が、患者さんをみるときに、「患者さんの霊性も見て処方する」と言っていたのがとても印象的だ。そんなお医者さんも世の中にいるのだ。その人は、ある地方都市で地元の人に愛される、女性のお医者さんである。

僕はおもう。これからの世の中、アフリカ諸国のクーデターやアラブの春に代表されるように、形だけの形骸化した権威を持っていた人たちは、その形を崩され、あっという間に凋落してゆく。その一方で、名もなき市民がパワーを持ち、台頭してゆくのだ。

情報を持つもの・持たざるものの差が顕著で、情報の非均衡が基礎をなしていた世界から、情報格差がなくなり、情報の完全対称の世界となるにつれ、その流れは止められない。トーマスフリードマンが書いた、「フラット化する世界」の続きは、企業単位だけではなく、個人単位で起こっている。欺くもの、欺かれるものの差が取り除かれ、引き続き、新しい秩序へと向かう途中で、一時的に混乱が各所で生ずるだろう。

では、これから主役となる、力を持つ名もなき市民とは誰か?

それは僕が思うに、形や権威を必要とない、本質を理解している人である。言い換えると、ひっかかりやすいトラップ(=機能不全の常識や先入観や偏見)に縛られない自由な発想と、同時に強い正義感と倫理観を持ち、グローバルに考え、ローカルに活動している人たちだ。そういう本質主義の人たちは、テレビをはじめとするマスメディアが牛耳る世の中では、注目されるわずかな一部の人たちをのぞき、発信力をほとんど持たなかった。

これからの一時的に混沌とする世の中では、そういった人たちに注目せざるを得なくなるだろう。なぜならば、これからの世の中の秩序が再構築され、新たな感性が求められる世界においては、付け焼き刃ではなく、昔から型にはまっていない人たちの感性や見識はことさら重要だからである。

ただ物わかりが良くて吸収力が抜群といった前近代タイプのエリートたちにとってはとても苦しい世の中だ。そういう人たちはリーダーとしての資質がないということになる。むしろ僕は、ニートや鬱病などの、世の中に適合するのが困難な人たちにこそ、次の時代の感性が宿っていると思っている。

中にはもちろん、世間的な肩書きや看板もあって、独自の感性を生かしてやっている人もいる。しかしながら、そういった人たちはそれこそ旗を振るリーダーとなればいいのであって、多くの人はそうではないのだ。

そういった社会不適合者の意見をもっと取り入れない限り、社会全体の幸福度は上がらない。この手の話になるとすぐ政治の話に行き着いてしまう哀れな人がたくさんいる。この国には、まだまだ常に政治にそのソリューションを求めるというか、すがる人がたくさんいるのだ。しかし、僕らが出来る範囲で各自でやろうとしない限り、また新たな代わりとなる、”少しはマシな”権威をこさえるだけで、個々人の生きる力(=名目ではない実質的な生産性)は上がらず、このままずるずる悪い方へいくだろう。

光は灯されるものではなく、灯すものだ。そういう思いを持ち、純粋に楽しさを求めながら、日々悪戦苦闘してがんばってやっている人を応援したいし、それを応援する資格として、自分がまず誰よりもそうでありたいとおもう。次の時代の「豊かさ」を自分たちで作って実践してゆくこと。「朝生」とかで本当に必要なディスカッションは、政治や金融などの仕組み論の話ではなく、日々の中での個人のレベルアップの話である。
ぜったいに何とかしなくてはならないことが何本か重なってきた。
家族の病気のこと、仕事のこと、試験のこと。
すべて僕が主体的に考えて動かないと何にもならないものばかり。
まあ、ぜんぶやってやるさと、意気込む。

気合いを入れてぜんぶやってやったときの爽快な無敵感を僕は、知っている。
つまり、ジャンキーのように味をしめてしまった訳だ。

こどものときは、部活とか受験とか、意味もなく、競争相手がいるものばかりやらされて、
それなりに勝利を掴んできたものの、そんな気の入れ方では対処できない
ものごとが、年齢を重ねるにつれて多くなってくる。そして、しまいにはそれしかなくなる。
つまり、やってもやらなくても、すべては自分次第だという境地に達するわけで、
周囲も周囲で、そのうち何にも言わなくなる。

キングカズだって、何のために46歳になっても現役でやっているのだろう?
ライバルに勝つためでもなく、お金でもなく、周囲の評価のようにも見えない。
それこそ彼のみぞ知る、「自分次第の境地」である。

自分に勝つという表現を使う人がいるけれど、
僕は、自分にすら勝たなくて良いのではないかと思っている。
裸の己と向き合って、希望と欲を峻別し、”生き方”について対話をしてゆく。あまり勝利にこだわると、まっすぐ素直に生きることからぶれてしまう。自分に正直にさえ生きていれば、強さは自ずと生まれる。これこそ、塩梅、つまりセンスの問題でしょうと。

おれはこんなにすごいのだ、有能なのだ、がんばっているのだ、と言っている人ほど、自分自身と対話できていない。他人に理解されたい=自分からの絶対的理解が欠けている、という構図である。

しかしながら、ここが大事なところで、人は他者からの理解を欲しい存在である。人は社会的な動物であり、ほぼすべての人にとって、おのれの存在意義を、他人を使って浮き彫りにするしかないのである。だから、まず他人の存在を無条件に認めることが必要なのだ。

存在の理解という大きな根本があるから、手厳しく批判もできるし、ふざけることもできるし、一緒に深く楽しめて、馴れ合いや軽薄な付き合いなどの、”時間の浪費”にならなくて済む。

たまにある、「人生楽しんだもの勝ち」とか、「とにかく笑って生きよう」というのも、人間や動物の一生のバランスからすると、ほんの一側面でしかないのだし、僕が考える生きる本質からはほど遠いわけなので、そんな”やっつけ格言”に踊らされてはならない。

・・・と、まだまだクネクネ書けそうだったが、あまり気難しい人間だと思われたくはないので、この辺にしておこう。あくまでのん気でしなやかに、他者とポジティブな最大公約数を見つけ、調和し、時に空気を読み、バカになって基本的にふざける・・ これからもそんな大人でいたいとおもう。今年で30歳だし。

このような弁証法?のような問答を日頃行い、脱線をしつつも、本質まで辿り着かんと紆余曲折するのだが僕の習性である。きっと、これは死ぬまでなおらないんだろうな・・・ みなさま、これからもよろしくお付き合いのほど。(見ず知らずの人がほとんどだとおもいますが)
実はフードアナリストという資格を持っている。一日の受講で取った4級なのだが笑 元々暇つぶしで取ったものだが、僕がやりたい分野には必要ないとすぐわかり、それ以降その資格にお金と時間を費やすのをやめてしまった。何せ、1級まで取れば証券アナリストよりもコストがかかるのだから。

日本にはおいしい食材と、それを料理する料理人がたくさんいる。日本は世界一、"おいしい国"であるとミシュランなとの格付け会社からも認められている。

僕は、この日本の資源である食文化こそ、アメリカの映画や音楽などのエンターテイメント産業のように、大ブレイクする可能性を秘めていると思っている。

料理こそ、世界で一世風靡した日本のもの作り文化が形を変えて残っているものだろう。料理は革新性よりも習熟性が求められ、日本人が得意とするところだ。食資源だってあるし、包丁や炊飯器のようなツールも揃っている。

きっと、日本としてみたときに、この食文化を個人で身につけられることができるレベルまで落とし込まないといけなくて、そうすれば、留学目的の外国人をたくさん誘致でき、付随して観光業も盛り上がり、内需も活気付くだろう。

食文化に関しては、このネットワークの時代、もはや、本場に行く必要はないのかもしれない。これを実現する枠組みが必要だ。とにかく、若くてやる気のみなぎった若者を国に置いておかないと、少子高齢化で衰退する一方だ。

今年、少しこのことを考えてみようと思う。
将来の目標として、何人か、ベンチマークというものを考えている。
その一人が、京都でDari Kというチョコレート屋さんをやっている吉野慶一さんである。

吉野さん

ここはもともと前職で京都出張のときに通っていた二条駅近くのお店なのだが、僕はここのチョコが、今まで食べたどこのチョコよりもうまいと思っていて、海外の高級ブランド品なんかと比べても全く負けることがない。なので、チョコが好きで大事な人には、このチョコを取り寄せて差し上げている。1個300円くらいとヒジョーに高価なのだが、一度食べるとその濃厚さとさわやかな甘さに病み付きになるので、満足感がハンパではなく、今のところ評判も非常に良い。

特徴は、世界第三位のカカオの産出国であるインドネシア、スラウェシ島産のカカオを使っており、直接店舗で店長の吉野さん自らが焙煎してペースト化しているという点。カカオ産出国はコートジボワールやガーナが有名だが、日本の一番近くでは実はインドネシアなのであるが誰もしらない。なぜならインドネシアからの輸入は1%にも満たないからなのだ。

インドネシアのカカオは品質は他国に劣らないものの、そのほとんどが収穫後の工程=発酵工程を経ずに出荷しているため、他国の輸入品に負けていたのである。そこに目をつけた吉野氏は、海外での外資金融アナリストを辞め、起業したのである。現在では、国内外色んな方面から高い評価を受けるに至っている。

まず等身大の自分の好きなビジネスをやっていて好感が持てる。全部自分で考えてまずやってみる。日本を含めた先進国のニーズと後進国のリソースと成長ベクトルをうまく繋げて、国際的なビジネスにしている。スモールサイズからはじめて、地道に着実に大きくしていっている。
そして、金融アナリストから脱サラというバックグラウンドも非常に似ているのだ。

Dari K

チョコ好きの皆さんは、もうすぐバレンタインなので、ぜひ、ご一考を。
【引用】
池田信夫:---日本の最大の問題は、偏差値の高い人が役所とか銀行とか大学とか、非生産的な仕事をしていることです。それは、そういう大組織で仕事をするしかなかったという20世紀型の社会で、本当は個人ベースで自由にやったほうが生産性も高いし精神衛生にもいいんだけど、日本社会のしくみが20世紀型にできているので、途中で抜けられない。---

これは全くその通りであり、企業勤めする若い野心家たちは、肝に銘じなければいけない話である。

学生の頃はアクティブで優秀だったのに、社会にでて、斜陽産業の伝統的な大企業に入り、劣化してしまう人がいる。本人に自覚がありうずうずしている人ももちろんいて、その方がむしろストレスもりもりで精神衛生は良くないかもしれないが、僕からすると健全で、大多数が本人が思っている以上に、自分が非常に保守的な社会人となっていることに気づかないのである。長い間、同一の環境にいるということは、それほど、その人の野性味(=死に向かいながら瞬間瞬間の覚悟を決めて生きること)を奪う。飼いならされるとはそのことだ。新人社会人として離陸したのに、いつのまにか実質着陸したような安定フライトに無意識のまま引きづり込まれてしまう。上記の僕の勝手に定義する、この”野性味”が失われないのであれば、ブラック企業に勤めることだってまんざらではない。

結局、振り返ると、ぼくが昔からベンチャーベンチャーなんて言って、世界の色んな起業家にたくさん会って、色んな環境で働いてみて、結局そういう道に進んだのもそういう大人になりたくなかったからなのであるし、6、7年前にあった社会のベンチャー熱がとっくにさめ、マザーズなどの新興市場の新規IPO数も両手で数えるばかりの昨今では、ベンチャーと発言するのもさぶい感もあるし、「いや正式にはスタートアップだよ」なんて言われかねないのだが、やはり僕は、30歳を目前にして、青臭いベンチャー人生を送りたいのだと思う。

いわゆる、金持ち、時間持ちになりたい、とかではなく、社会の真に求めているものを提供できるスキームを作る。我欲をエンジンにしてしまうと、今の冷えきった日本や先進国社会では誰もサポートしてくれないだろうし、巧く隠せたりお化粧したところで、お客様や世の中が求めているものを提供するという点でぶれて失敗するのがオチだろう。ここは大事なポイントで、自分の魂のレベルが理想に反映されてしまう。(これは別の機会にまた見解をまとめてみるとしよう)

生産的な仕事をするということ。それは、文字通り、ただ生産をすることではない。自分が置かれた立場において、消費する以上に生産をするということだ。お金の面だけではなく、すべてにおいて。

「人間は立場で生きる」

これは、司馬遼太郎の小説、「峠・上」の中で、“越後の竜”といわれた長岡藩筆頭家老、河井継之助が言うせりふである。彼は非常に武・政治・行政とあらゆる能力があり、一国のリーダーにもなれる腕前の持ち主だったが、彼は生涯、生まれた長岡藩にこだわり、長岡藩をスイスのような永世中立国にしよう企てて、薩長に目をつけられて自滅した、とても愉快なお人である。この小説を21歳のときに読んでから、このせりふが忘れられない。

それぞれの立場において、自分の魂の生きたい方向に、生産的に進む。まあこうやって結論すると、いたって変哲もないのだが、日々色々あるなかで、胸に秘めなくてはいけないことは、それだけな気もする。