團十郎さんの死、親友の肺の手術、一流の人たちとの仕事、映画ライフオブパイ、写真家の手伝い、チベットの友人からのレター、元同僚との酒を交えた馬鹿騒ぎ、中国の旧正月・・・
この10日間くらいの間に味わったこれらのことが、間接的に何かを浮き彫りにさせようとしているようで、頭の中をぐるぐる沈着せずに、浮遊している。
この人生で何を成し遂げようか?
己の持てるものを何に捧げるのか?
何か啓示めいたものを受け取ったわけではないが、自分に与えられたものは有限であるということを実感せざるを得ない。
どこで何をしていていようが、世界のどの人に対しても胸の張った生き方ができるのか。
ただのレジャーでバックパッカーをやっていたわけではない。その時にはわからなくても、生き方を創っていく上での必須養分であったのだ。そんな理由が定かではない若気の行動は誰にでもあるはずだ。
清潔な水も入手が厳しいアフリカ難民のことを身近に感じつつ酒が飲めるか?
インドのレイプの危険と隣り合わせて生きている若い女性の存在を知りつつ、週末合コンができるのか。
神の存在を信じている敬虔なイスラム教徒がごまんといることを知りながら、無関心でいられたり宗教をバカにできるのか。
まあ、無視しようとすれば無視できる事実であるし、そのことを、その不都合な事実を見ようとしない人たちに押し付けると嫌悪されるのも最もなのだが、その不公平で断絶のある隠れた繋がりを自分の中で繋ぎ合わせて解釈し、心に携えることで節操が生まれる。
アホなことや甘えたことをやっていても、限度を超えて流されないし、逆にそんなことをできることを感謝してアホなことをするようになる笑
日本にいようが、世界のどこにいようが、そういう一体感を持ち、生きてゆきたい。僕にとっては、この一体感なようなものを磨いていくことが、志なのかもしれない。
ただの真面目な硬直した志では門は開けないだろう。柔かな開けた心で、バランスよく、物事に向き合いたいものだ。
この二つには、ある共通点があると思っている。ちなみに両方とも僕が好きなものである。
フレッシュネスバーガーは、ご存じハンバーガー屋さんで、オーガニックのコーヒーや、バーガーチェーンで唯一、豆と豆腐のベジバーガーを置いている店なのである。
AVATARも周知の通り、初の本格3D映画であり、同時に観ればわかるが、とてもスピリチュアルな映画である。
好きというより、上手いなぁと思う点がある。
簡単に述べると、フレッシュネスバーガーについては、驚くべきことに、喫煙席の方が禁煙席よりも多いのだ。複数の店舗を回って調べたが、中にはフロア丸ごと喫煙フロアとなっている。
AVATARについては、かなりスピリチュアルな内容にも拘らず、なんと惑星の原住民と現代人との壮絶な殺戮合戦が繰り広げられることになる。
これは、一見コンセプトと矛盾しているように思えるが、人間の心理をついた、秀逸な戦略であると思わざるを得ない。
フレッシュネスについては、きっとタバコを吸うような人の中で、喫煙の健康被害が広く認識され、この禁煙エリアが拡大する昨今において、タバコは止められないものの、自身の健康に気を使う人の相応の絶対数いるはずなのだ。そういった人間の葛藤につけこみ、うまくお客さんをつけている。
AVATARについては、味気ない非暴力のスピリチュアルな映画では迫力に欠けるため、その味付けとして、真逆のベクトルとも言える、刺激の強い戦争要素を入れている。このポートフォリオでもって、伝統的なハリウッド映画の顧客とスピリチュアル好きな顧客の両者を良いバランスで獲得することに成功している。
これらは、人間の心理を巧みについており、うまいなぁと唸ってしまう。
本物しか世に出さないというポリシーで、世の中の人の心理や境遇を無視して、客を突き放して何かを作ることはできるけども、それはそれで人をバカにしていることにもなりうるということだ。よく高円寺の大衆居酒屋とかで自分たちの作品や商品が売れなくて、世の中に対して愚痴っている大人たちとかがそれだ笑
AKBのような、本格的な音楽を志向する人からは眉唾もののアイドルについても、ヒットするということは、そこに顧客の心理や境遇を代弁している要素が多分にあるといつことなので、この資本市場で生業をするものとしては、リアリティとして、正面から受け止めて、そこから正しく学ばなくてはならない。
上記のような資本主義での商売といった一例以外でも、子育てや教育についても同じようなことが言えるかもしれないが、志なり夢なり希望なり、何か大きく目指すものがあるとして、それを伝えたり、誘導したり、議論したり、そのプロセスにおいて、大切なのは、人間との対話なのかもしれない。
フレッシュネスバーガーは、ご存じハンバーガー屋さんで、オーガニックのコーヒーや、バーガーチェーンで唯一、豆と豆腐のベジバーガーを置いている店なのである。
AVATARも周知の通り、初の本格3D映画であり、同時に観ればわかるが、とてもスピリチュアルな映画である。
好きというより、上手いなぁと思う点がある。
簡単に述べると、フレッシュネスバーガーについては、驚くべきことに、喫煙席の方が禁煙席よりも多いのだ。複数の店舗を回って調べたが、中にはフロア丸ごと喫煙フロアとなっている。
AVATARについては、かなりスピリチュアルな内容にも拘らず、なんと惑星の原住民と現代人との壮絶な殺戮合戦が繰り広げられることになる。
これは、一見コンセプトと矛盾しているように思えるが、人間の心理をついた、秀逸な戦略であると思わざるを得ない。
フレッシュネスについては、きっとタバコを吸うような人の中で、喫煙の健康被害が広く認識され、この禁煙エリアが拡大する昨今において、タバコは止められないものの、自身の健康に気を使う人の相応の絶対数いるはずなのだ。そういった人間の葛藤につけこみ、うまくお客さんをつけている。
AVATARについては、味気ない非暴力のスピリチュアルな映画では迫力に欠けるため、その味付けとして、真逆のベクトルとも言える、刺激の強い戦争要素を入れている。このポートフォリオでもって、伝統的なハリウッド映画の顧客とスピリチュアル好きな顧客の両者を良いバランスで獲得することに成功している。
これらは、人間の心理を巧みについており、うまいなぁと唸ってしまう。
本物しか世に出さないというポリシーで、世の中の人の心理や境遇を無視して、客を突き放して何かを作ることはできるけども、それはそれで人をバカにしていることにもなりうるということだ。よく高円寺の大衆居酒屋とかで自分たちの作品や商品が売れなくて、世の中に対して愚痴っている大人たちとかがそれだ笑
AKBのような、本格的な音楽を志向する人からは眉唾もののアイドルについても、ヒットするということは、そこに顧客の心理や境遇を代弁している要素が多分にあるといつことなので、この資本市場で生業をするものとしては、リアリティとして、正面から受け止めて、そこから正しく学ばなくてはならない。
上記のような資本主義での商売といった一例以外でも、子育てや教育についても同じようなことが言えるかもしれないが、志なり夢なり希望なり、何か大きく目指すものがあるとして、それを伝えたり、誘導したり、議論したり、そのプロセスにおいて、大切なのは、人間との対話なのかもしれない。
ここ半年くらい、毎日自転車で5キロ、週2回水泳で1キロずつ、週2回4キロのランニングを継続している。食事の量も増えた結果、体重が8キロほど増え、首の太さと胸囲と太もも周囲が変わり、昔のスーツはほとんど捨てた笑。身体が徐々に引き締まってきたのを実感する。
そうなのである。究極には、トライアスロンをやるつもりなのである。
まだまだ練習での距離が足りないが、なにせ10年近くもハードな運動からは遠ざかってきた訳なので、慎重に身体をほぐしてゆかなくてはならない。
トライアスロンの他に、マラソンやトレイルランもやらなくてはいけない。
今まで色んなスポーツをやってきたが、きっと僕には、こういったストイックな個人種目が合っているのを、改めて感じる。仕事やプライベートにもハリが生まれ、頭スッキリとなり、相乗効果も出ている。やはり、身体、脳、魂はつながっていることを実感せざるを得ない。
1年半前は酒、肉類(乳製品は除く)を断つ状態も3ヶ月経験したが、今は鳥と豚などの肉も自然な頻度でとっている。色んなコンディションを身体が味わうことで、身体が求めている食物がおぼろげながらわかってくるものだ。
この年齢になると、10代の頃のようにステーキや焼き肉を食べられなくなるとの声を聞くが、そのほとんどは、代謝が下がっているからであり、その状態では身体が肉のような消化に大きなエネルギーを要する食物を欲さないからだと思われる。老化という漠然とした概念ではなく、代謝のイシューである。チベット人やエスキモー達は肉が主食で長生きしているのだから、結局、生活で必要な運動量の裏付けがあれば、肉は取ってもいいのだ。
しかしながら、日本や先進国では近年、脳が捉える欲望を味覚を通じて刺激するグルメ(←他に言い方が思いつかない)が横行し、それまで対応していた運動量とカロリーの関係が乖離し、舌が肥え、豊かさをはき違えてしまった現代人たちは、運動量に対応していないカロリーや栄養素の取り過ぎで消化器官がオーバーヒートし、生活習慣病が激増した。僕は栄養学の素人ではあるけれども、感覚的にはその筋道は間違っていないと思う。
この乖離現象については、80年代からインターネットをはじめとするバーチャルな世界が生み出され、リアリティを感じ取る力の衰えという補足説明もできるかもしれない。つまり、「脳への刺激を増幅する」という点での文明の進歩というベクトルがあったため、生まれたときから身に付いていた感性や感覚と言った点では退化したのではないかという説である。これは途上国に行くと、地元民たちの野性のカンの鋭さと日本人のカンの鈍さの差異がよくが分かるが、それが証左である。
最後に、日頃の便の調子というものを、もっと現代人は気にしたほうがいいと思っている。当たり前のように聞こえるかもしれないが、ほとんどの人は、身体に何を入れるかのことだけを考えて、何が出てくるかのことを考えていない。
便に対する知識があれば、もっと身体との対話のバリエーションが増え、もっと様々な病気も予防できると考えている。食べ物という”テスト”に対しての消化器官の”成績表”のようなものなのだから。この点も、今年はもう少し掘り下げてみようとおもう。(実はそのことで友人と去年は勉強会までしている)
そうなのである。究極には、トライアスロンをやるつもりなのである。
まだまだ練習での距離が足りないが、なにせ10年近くもハードな運動からは遠ざかってきた訳なので、慎重に身体をほぐしてゆかなくてはならない。
トライアスロンの他に、マラソンやトレイルランもやらなくてはいけない。
今まで色んなスポーツをやってきたが、きっと僕には、こういったストイックな個人種目が合っているのを、改めて感じる。仕事やプライベートにもハリが生まれ、頭スッキリとなり、相乗効果も出ている。やはり、身体、脳、魂はつながっていることを実感せざるを得ない。
1年半前は酒、肉類(乳製品は除く)を断つ状態も3ヶ月経験したが、今は鳥と豚などの肉も自然な頻度でとっている。色んなコンディションを身体が味わうことで、身体が求めている食物がおぼろげながらわかってくるものだ。
この年齢になると、10代の頃のようにステーキや焼き肉を食べられなくなるとの声を聞くが、そのほとんどは、代謝が下がっているからであり、その状態では身体が肉のような消化に大きなエネルギーを要する食物を欲さないからだと思われる。老化という漠然とした概念ではなく、代謝のイシューである。チベット人やエスキモー達は肉が主食で長生きしているのだから、結局、生活で必要な運動量の裏付けがあれば、肉は取ってもいいのだ。
しかしながら、日本や先進国では近年、脳が捉える欲望を味覚を通じて刺激するグルメ(←他に言い方が思いつかない)が横行し、それまで対応していた運動量とカロリーの関係が乖離し、舌が肥え、豊かさをはき違えてしまった現代人たちは、運動量に対応していないカロリーや栄養素の取り過ぎで消化器官がオーバーヒートし、生活習慣病が激増した。僕は栄養学の素人ではあるけれども、感覚的にはその筋道は間違っていないと思う。
この乖離現象については、80年代からインターネットをはじめとするバーチャルな世界が生み出され、リアリティを感じ取る力の衰えという補足説明もできるかもしれない。つまり、「脳への刺激を増幅する」という点での文明の進歩というベクトルがあったため、生まれたときから身に付いていた感性や感覚と言った点では退化したのではないかという説である。これは途上国に行くと、地元民たちの野性のカンの鋭さと日本人のカンの鈍さの差異がよくが分かるが、それが証左である。
最後に、日頃の便の調子というものを、もっと現代人は気にしたほうがいいと思っている。当たり前のように聞こえるかもしれないが、ほとんどの人は、身体に何を入れるかのことだけを考えて、何が出てくるかのことを考えていない。
便に対する知識があれば、もっと身体との対話のバリエーションが増え、もっと様々な病気も予防できると考えている。食べ物という”テスト”に対しての消化器官の”成績表”のようなものなのだから。この点も、今年はもう少し掘り下げてみようとおもう。(実はそのことで友人と去年は勉強会までしている)
またしても霊能力者と出会った。笑
以下が、言われたことである。
・メンタルがかなり強い
・背後に、中国の高級官僚の守護霊がついており、物質的繁栄をサポートしている
・今年の5月に守護霊がさらなる高級霊へと変わる。それは人間を超えたレベルである
・今やっている金融の仕事は2-3年 これからやるビジネスのための筋肉として必要
・食の分野で大成し、(レストラン経営とかではなく、安全、健康、といった分野)世の中に一筋の変革と光明をもたらす
・今年から、ミッションが具体化するので、自ずともっと物事を計画立ててやっていくことになる
これらの8割がた、上海の霊能力者の方に言われたことと一緒であった。
驚きである。
そして今年の5月、中国の青海省に友人に会いに行く予定があり、そこに古代チベット仏教の三大聖山である、アムネマチンがあるのだ。そこで大きな啓示を受けると言われた・・
さらに、何とクモの糸を撮影している同世代のフォトグラファーの方にもお会いした。とても美しく幻想的な写真を撮る方で、色んな分野に造形も深い。笑 とてもよい刺激になった。
なんだかよく分からないが、そんな出会いの実り多き土日であった。
以下が、言われたことである。
・メンタルがかなり強い
・背後に、中国の高級官僚の守護霊がついており、物質的繁栄をサポートしている
・今年の5月に守護霊がさらなる高級霊へと変わる。それは人間を超えたレベルである
・今やっている金融の仕事は2-3年 これからやるビジネスのための筋肉として必要
・食の分野で大成し、(レストラン経営とかではなく、安全、健康、といった分野)世の中に一筋の変革と光明をもたらす
・今年から、ミッションが具体化するので、自ずともっと物事を計画立ててやっていくことになる
これらの8割がた、上海の霊能力者の方に言われたことと一緒であった。
驚きである。
そして今年の5月、中国の青海省に友人に会いに行く予定があり、そこに古代チベット仏教の三大聖山である、アムネマチンがあるのだ。そこで大きな啓示を受けると言われた・・
さらに、何とクモの糸を撮影している同世代のフォトグラファーの方にもお会いした。とても美しく幻想的な写真を撮る方で、色んな分野に造形も深い。笑 とてもよい刺激になった。
なんだかよく分からないが、そんな出会いの実り多き土日であった。
人間というものは足下がゆらぐごとに、根をもっと深くはろうとしたり、もっと中身をつけなくては、と思って行動するものだ。
不安定や恐怖や絶望などのネガティブな状態を挽回しようと、頭ではなく、身体も含めた全体として初めて、取り組めるのである。
「食べる・寝る・歯を磨く」といった、日頃反復しないと生きていけないことだって、食べなかったり、寝なかったり、歯を磨かなかったりすると、ネガティブな状態になるわけで、そうならないために、頭だけではなく、身体で理解して、日々反復しているわけだ。
当然、居心地が良いものについては問題意識を感じないので、人はそれに対してとりわけ行動はしなくなる。優先順位が埋没する。
つまり、行動の動機とその行動の優先順位は、そういった必要性に応じて形成される。換言すると、何か行動するためには、この必要性を、体感として知っている必要がある。
これは、人間の成長や進化には、根本として”体感としての経験”が必要だと言うロジックである。まあ、それはそれで良いだろう。
社会問題になっているニートについていえば、彼らは早く親元を離れないといけない。彼らからすると、親元から離れる必要性はないだろうが、ほとんどの親はいずれ先に死ぬし、不自然にプロテクトされている分、頼れなくなった時点でドカンと大きな絶望が訪れることになる。ネットのようなパラレルな世界が生み出されたと錯覚してしまったがゆえの病気だ。日本の農業に対する保護主義のようなものだ。
今回僕が言及したいことはこのポイントであり、よく衰弱しきってしまった産業に対しては、競争原理をもたらすことがソリューションとして一番先に言われることだ。しかし、活性をもたらすために必要なことは果たして競争なのだろうか?
このロジックから言うと、人に行動の動機(=ここの文脈においては活力)を与えるためには、競争という方法よりも、まず体感的経験なのである。必要な経験は、競合相手との競争ではないはずなのである。無理矢理動かされるような納得感のない、ネガティブな心情でしか動いていないと(注:上記でネガティブな状態を挽回するような行動は肯定されているが、ここでは、ネガティブな気持ちで行動することを指摘している)、次第に行動自体を避けるようになる。行動することが嫌になる。もっと悲しい事態は、奴隷のように、行動の動機などを考えることを放棄してしまうことだ。
まとめると、ネガティブな状態を払拭するには、ネガティブな感情を持ってはいけないわけで、そこには何かしら無理な部分があるということだ。しかしながら、そこが最も難しい部分だ。
モチベーションという概念に通ずるかもしれないが、今の多くの人たちに足りないのは、その人を自然に動かす、良性の体感的経験であると思う。美しいものをみる、味う、楽しいものをやるといった中で喜びを得る。金をちらつかせたり、目の前に人参をぶら下げるなどといった人の欲望に紐づけた低級かつ不自然なものではなく、自然で崇高なもの。また、モチベーションマネジメントのようなテクニックの話ではなく、もっと生活の基盤、価値観の基盤となるようなものだ。
僕が追い求めたいのは、そういった人間の瑞々しい感受性から湧いて生じた動機と行動とを直接つなげたエンジンでまず自分が生きることと、そのような良い循環を生み出す仕組みの雛形を、一部分でもいいので、具体例として出来る範囲でつくっていくことだ、と再確認した金曜日夕方であった。
このブログも、僕の内側を固めて外側化する、その試行錯誤の大事なパートを担っている。まず実質をコトコト煮込んで作っていく。実質が出来あがれば、自ずと形が伴い、その形から必然的に影が生まれる。
不安定や恐怖や絶望などのネガティブな状態を挽回しようと、頭ではなく、身体も含めた全体として初めて、取り組めるのである。
「食べる・寝る・歯を磨く」といった、日頃反復しないと生きていけないことだって、食べなかったり、寝なかったり、歯を磨かなかったりすると、ネガティブな状態になるわけで、そうならないために、頭だけではなく、身体で理解して、日々反復しているわけだ。
当然、居心地が良いものについては問題意識を感じないので、人はそれに対してとりわけ行動はしなくなる。優先順位が埋没する。
つまり、行動の動機とその行動の優先順位は、そういった必要性に応じて形成される。換言すると、何か行動するためには、この必要性を、体感として知っている必要がある。
これは、人間の成長や進化には、根本として”体感としての経験”が必要だと言うロジックである。まあ、それはそれで良いだろう。
社会問題になっているニートについていえば、彼らは早く親元を離れないといけない。彼らからすると、親元から離れる必要性はないだろうが、ほとんどの親はいずれ先に死ぬし、不自然にプロテクトされている分、頼れなくなった時点でドカンと大きな絶望が訪れることになる。ネットのようなパラレルな世界が生み出されたと錯覚してしまったがゆえの病気だ。日本の農業に対する保護主義のようなものだ。
今回僕が言及したいことはこのポイントであり、よく衰弱しきってしまった産業に対しては、競争原理をもたらすことがソリューションとして一番先に言われることだ。しかし、活性をもたらすために必要なことは果たして競争なのだろうか?
このロジックから言うと、人に行動の動機(=ここの文脈においては活力)を与えるためには、競争という方法よりも、まず体感的経験なのである。必要な経験は、競合相手との競争ではないはずなのである。無理矢理動かされるような納得感のない、ネガティブな心情でしか動いていないと(注:上記でネガティブな状態を挽回するような行動は肯定されているが、ここでは、ネガティブな気持ちで行動することを指摘している)、次第に行動自体を避けるようになる。行動することが嫌になる。もっと悲しい事態は、奴隷のように、行動の動機などを考えることを放棄してしまうことだ。
まとめると、ネガティブな状態を払拭するには、ネガティブな感情を持ってはいけないわけで、そこには何かしら無理な部分があるということだ。しかしながら、そこが最も難しい部分だ。
モチベーションという概念に通ずるかもしれないが、今の多くの人たちに足りないのは、その人を自然に動かす、良性の体感的経験であると思う。美しいものをみる、味う、楽しいものをやるといった中で喜びを得る。金をちらつかせたり、目の前に人参をぶら下げるなどといった人の欲望に紐づけた低級かつ不自然なものではなく、自然で崇高なもの。また、モチベーションマネジメントのようなテクニックの話ではなく、もっと生活の基盤、価値観の基盤となるようなものだ。
僕が追い求めたいのは、そういった人間の瑞々しい感受性から湧いて生じた動機と行動とを直接つなげたエンジンでまず自分が生きることと、そのような良い循環を生み出す仕組みの雛形を、一部分でもいいので、具体例として出来る範囲でつくっていくことだ、と再確認した金曜日夕方であった。
このブログも、僕の内側を固めて外側化する、その試行錯誤の大事なパートを担っている。まず実質をコトコト煮込んで作っていく。実質が出来あがれば、自ずと形が伴い、その形から必然的に影が生まれる。