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1丁目住人のブログ

一人一人が楽しく生きるためのブログ。

ベンチャーキャピタリストとランチをした。

日本オワッテルという感覚と、日本を活性化するのはベンチャーしかない、という思いから志したそうだ。

とても熱い人で、有能そうな方だった。

だが、この二つ、実は僕も昔は持っていたが、今ではちょっと違うと思っている。

まず、日本終わっているという件に関して、日本はいわゆる「和」という域内で完成されたコミュニティを作ってきた。アングロサクソンが自らの利得を増殖させるために無理やり作り上げたボーダレス競争という社会原理と、国民のマジョリティの気質が合致せず、長い不況に喘いでいるように僕には思う。

英語を話して世界を舞台に生きたい人にはいいが、その他の満たされて日々慎ましく平和な人たちには関係のない話だ。

現状に満足していない人たちの中には、足るを知らない強欲さ、も含まれるわけであり、すべての人が人のために役立とうというプラスサムの精神ばかりとは限らない。ホリエモンや村上ファンドはその点で東京地検に目を付けられて御用となった。

その先にある、人々の豊かさがなければ、方法としての起業だって、不可避な潮流であるグローバル化だって、姿勢としてのアグレッシブさだって、何の意味もないことになる。

日本は日本独自の進化系の姿を模索すべきであって、世界的に利殖を増やそうという荒いものの考え方に多くの人がアグリーできないわけで(日本がグローバル化に出遅れた理由もそこだと思っている)、いわゆる、アングロサクソンサイドからの日本の評価をもはや僕は持ちたくないのだ。

そこには自己(アングロサクソン)にとって都合が良いスタンスが含まれており、日本の元々持っていたアイデンティティを否定して壊してしまう内容が含まれる。

そういった意味で日本は窮地であることは間違いないが、要は他諸国と比べる評価項目が納得がいかない、ということなのだ。日本は他の国にない素晴らしいものを持っているが、自らの立ち位置を見失っているという見方に僕は一票入れている。

その二、日本を変えるのはベンチャーしかいない、つまり、マクロ経済を形成している家計、企業、政府、の中の企業の中の大企業を否定している主張であるが、大企業という極めて安定した大規模組織の恩恵は計り知れない。大企業不在のベンチャー大国イスラエルの不安定さが雄弁と物語っている。

いかなる大企業も昔はベンチャーであったのであり、大企業でも新規事業はできるし、その事業ノウハウ、ネットワーク、資本力から成功確率だってずっと高い。

そんな中でわざわざベンチャーをやる第一義的な意味というのは、大企業ではGOがかからない事業プランを進めて、大企業には取りにくいリスクを取れるからであり、ベンチャーが日本を救うという構図は実は少し違っていて、いつの時代もクリエイティビティ(イノベーションでもいいかもしれない)が世の中を変えてきた。

自分がベンチャーやるかやらないかというのは方法論の話で、個人がどうクリエイティブに豊かに生きるか、という方法を僕はずっと考えている。

以上が、自分との考えが異なる根拠であるが、これも正しいとは限らず、あくまで仮説の話だ。

とにかくお話をして、頭の中が耕されたので、今回の機会には感謝しなければいけない。

【結論】

その人を突き動かす信念とは、実はすべてが思い込みで、正しい、正しくない、ということは関係ないのかもしれない。

何に熱くなれるか。

人様のエンジン(信念)の悪口を言うつもりは毛頭なく、資格もないのだが、結局は、信念というものは、その人の希望が含まれた思い込みなのであって、確かめようもないことがほとんどであり、どのような論証も反論ができうるものであるということなのだ。

すべてがきっちりと考えつくされ(それでも覆される可能性はあるが)、その信念が正しいかどうか検証するのにたくさん時間をかけても、実はそれは時間の無駄なのではないかという感想を得た。

信念とはその人の持っている魂の俳句なようなもので、その人の魂レベルがあらわになってしまう、レントゲン写真のような面を持つ。

大事なことは、大筋でアグリーなものを素早くやっていき、しっかりと事実と照らし合わせてゆくことだ。そうやって信念を磨いてゆく。やってみて考えるという同時技をやらないとわからないことだらけだ。

少し思慮深すぎて分かりにくくなってしまいがちな僕にとっては、遠回りしないためにも、そういうシンプルなスタンスをとるべきだと思った次第である。


日本発食ベンチャー。これだ。
まだ内容は書けないが、今日はかなり面白い具体案がでた。
色々準備することもあるので、5年スパンの計画でやってみたい。

今週末も、外資戦略コンサル会社出身の若手のベンチャーキャピタリストに会う。
若くて情熱のある人と会うと、力を分けてもらえる。
中には、荒っぽい人もいるが、人を害さない限り、まあいい。

いつの時代も、新旧を一新し、作り替えることで物事は新たな秩序へと落ち着き、
新代謝が促され、良い方に向かう。それは、古きを否定したり、単に捨てることではない。
実態に合わなくなった形を捨てて、中身を移りかえることだ。

世代間紛争や権力争いなんてのは時間のムダそのものだと思っており、
焦点とすべきは、生まれ変わることを皆が是認して、小さな円の中で争わず、
調和を持って、各々が生まれ変わるということなんじゃないか。

---閑話休題---

それにしてもここ最近、円安が進行している。
以前なら、円安で自動車産業などの輸出企業が恩恵を受けていたが、
リーマンショック後の現在は、各社国内生産を縮小したため、
あまり円安の恩恵を受けない構造となってしまった。

トヨタなどは株価が上昇しているが、さらに国内縮小が進めば、
さらに円安に弱い体質へとなるだろう。
その場合、円ドル間の水準が上方シフトしてしまう。

日産ゴーン氏は1ドル150円水準になれば、
国内生産よりも中国生産の方が高くなるとのざっくり試算を発表しているが、
裾野の広い自動車産業がこのままの動きを加速すれば、
円安をストップする材料が減少し、悪性のインフレを招きかねない。

海外の証券や通貨に投資しても良いが、少しでも自給自足できるようにしてゆくのが、
一番の防衛策になるかもしれない。
自分はどういうことをしたくてこの世に生まれてきたのか。

普通は生まれる前の記憶を思い起こすことはできないが、魂は知っていると僕は思う。

どんなことを夢想した時に、心が踊るのか。何をできたときに、深い歓びを得るのか。喜怒哀楽のような反応的な感情を飛び越えて、自我の深層のところに、その人の生き方を形作るものがあると信じる。

それが、僕の中での魂のレベルの話ということになる。

魂は楽をしているときには磨かれない。苦労をしたり、ピンチに置かれた時に、人の魂は磨かれるようだ。そういう時に、人はたくさん、真剣に自分自身と対話するからではないか。

若い時には苦労は買ってでもしろ、という言葉があり、僕はその考え方が好きで、結構ストイックに回り道をしてきたつもりなのだが、それでも、自分の魂を掴むこと(=自分のやりたいことを見つけること)は至難の技であった。

それに、人は生命的にタフなようで、すぐ忘れるし、少し時間が経つと、いくら上昇気流のように志が上に引き上げられたとしても、いずれ着地するかのように内的安定を取り戻すようである。多くの人はこのことを、「人は弱いもの」という言い方をするが、少しずれている気がする。

視界がひらけることと、山を登ることでは違っていて、それはまるで意志と実現とで違うように、しゃくとり虫のように、進んで行くのだ。

自分を諦めてはいけない。

大志を胸に、着実に楽しくやっていくこと。

気合いを入れて頑張る時代は過ぎ去った。個人が静寂の中で自分自身を捉え、ぶれない自分と世の中とのつながり方の信念を持って、ガヤガヤの現代社会で生きてゆく。

セルフセンターな自意識ではなくて、自分をあたかも消すかのような、空の自意識。

これが21世紀の生き方であるとぼくは思っていて、日々実践しようとしている。

このタイミングで、この形で生を受けた奇跡に感謝して、清らかな楽しさや歓びを求めて、日々精進である。
http://diamond.jp/articles/-/16029

日本では起業家が少なく、新興企業も育たない中、イスラエルは起業志向の人が多過ぎて大企業が育たず、日本とは真逆に地域が不安定化してるってのは面白い。

アメリカ、イギリス、シンガポールなどに、訳もわからずキャッチアップなどせずに、国全体を主体とした場合、日本は日本の実態にあわせてモデルチェンジするしかないのだ。20年に一度、式年遷宮をする日本の伊勢神宮がそういった意味で、イノベーションの雛形である。

世界を知り、その結果日本を相対的に深く知ることができれば、モデルチェンジの設計図はできてくる。

まあ実態っていっても、戦後から日本はずっと、キャッチアップ体質に染まりすぎちゃった感じではある。だからゆえ、こんなに苦しんでいるのだ。

まず順番として、世界を知ること。そして、日本を俯瞰すること。そうすると再構築するための土台が出来上がる。

新しいというのは過去の焼き直しである、という考え方には賛成しないが、実態が大きく変化している今、それに応じた手当というのも、以前よりレンジは広がっているということだろう。それゆえ、発想の幅の広さが大事である。

形とか慣習に盲目的に従っていると痛い目に遭う。

とこに変化が噴出するのか、またそれに応じた手当は何か?

僕のやってゆきたい社会起業というのは、そういった文脈上で生まれるものなのではないか。

思いつきのつぶやきのため、文章構成や論理構成についての不備についてはご容赦を。
僕の尊敬する2人の先輩同士が犬猿の仲だということが明らかになった。僕の中では結構笑える話だ。

どちらにつくか、という低い波動の話には帰着せず、問題に執着せず、バランスの取れた第三番目のモデルを構築ことをしたい。

真っ向対立するものごとのメカニズムを読み解き、新たな地平を切りひらく。

対立を構成しているそれぞれの要素のレベルが高いほど、それらをうまく再構築できたときの報酬はでかい。

対立軸を見つけることは、実はビジネスオポチュニティを掴む上で、重要な切り口になるのかもしれない。

その時によく行き着く、折衷説である「間を取る」ということが、あたかも悪い、能がない、無難である、といった風潮が植え付けられているふしがある。

たしかに、物理的、空間的な中間なんてものは何ら解決策ではない無価値なものということは事実だ。

僕は、こと当事者同士の信念や志などの主観が絡む件においては、間をとってバランスをとることが肝要であると考えている。なぜならば、どちらが良い悪いということが、生涯結論できないイシューだからである。

その場合、遠目にある間をとって、ものごとを落ち着かせる。妥協点に落ち着くのではなく、両者を否定せず、両者が良いと思える、新たな価値観を例示する、こういったことが重要であると考える。

把握するのではなく、当事者と同じように味わって、相手を欠点を見つけ出して否定して論破するのではなく、肯定して共感を生み出す方法。

すると、今までなかった、ゆとり=余地が当事者間に生まれるのだ。その新たにできた空間に争う理由を失い、今まで問題であったものが問題でなくなる。

本当にこれは、うまくいくと魔法のようになる。いつの日か、このことを体型だててまとめることができれば・・