世の中は非常に多義的である。
幸せ一つとってみても、世界の人が思い描くものは千差万別だ。
しかしながら、そうとは薄々わかりながらも、世の中を多義的に運用するのは難しい。
こと資本主義という巨大なシステムを見ても、依然として一義的である。
一つのパワフルでスタンダードなモノの見方を手に入れると、
あたかもその見方ですべての世の中を語れるかのような錯覚に陥る。
パワフルでスタンダードなものほど、
そのものの影響力から外れていた人達が一度入り込むと
カルチャーギャップに衝撃を受けるがゆえに、洗脳されやすくなる。
多面的な見方を失うと、それが錯覚だとまず知ることができない。
パワフルでスタンダードなものが、ますますパワフルでスタンダードとなったとき、
その軸に居る人といない人との間で優劣が生じる。
優劣が生じると、優れたものの意見に耳を傾け、劣ったものの意見には耳を傾けなくなる。
それが実はついこの間のリーマンショックで終わった、アメリカ主導の資本主義であったのでは
ないだろうか。不幸の芽は、3.11の時から始まっていたはずだ。
多面性は現場に落ちている。ほんとうに落ちている。誰も隠したりしていないのだ。
ただ、それをわざわざ見に行ったりする人は少ないのだ。特に偉いと言われている忙しい人達は。
インド視察や中国視察なんていうパッケージツアーのような表面的なものではなくて、
現場というのはそんな旅行者気分では味わえないところにある。
僕は現実・現場主義人間として、これからもフットワーク軽く生きていくことをここに誓いたい。
歴史が度々証明したように、世の中を一元的かつ多義的に運用するのは非常に困難だろう。
なので、自分や有志の信念に基づいて一義を立ち上げ、それを運用する。それを繰り返す。
今のぼくにとってそれは、大きな仕組みやお金を動かすよりも、ボーダーレスな高級な仕事にただ
就くよりも、そのことのほうがずっとクリエイティブで、とってもエキサイティングなのである。
世界はただただ凄いスピードでボーダレスになってゆくのだから、その流れを受け入れながらも、
流されず、勢いを合気道のようにうまく使いながら、物事を楽しく実現してゆくこと。
その実現力を鍛え上げるのが、この5年の僕の最優先順位事項だろう。勝負はこれからだ。