ガソリンも心配、どこまで辿りつけるのか情報も不足の中で
矢も楯もたまらず家内と釜石へ赴きました。
私も50年ちょいの人生で初めて見舞われたような大きな天災
でしたが、誰の身にもふりかかる可能性は否定できません。
なるべく私情を交えず詳細に行動を報告いたします。
皆様の今後の対応策の参考になれば幸いです。
時刻や場所もなるべく詳細に記述いたしますので、グーグルマップ等で
検索していただき、状況や位置関係を把握していただければ。
写真をアップするにあたり、不快な思いをなさる地元関係者の方も
いらっしゃるかもしれませんが、惨状を認識していただくための具体的な
資料としての判断です。
ご理解いただき、どうぞお赦しください。
3月14日
なるべく早くスタートするつもりで06:30よりガソリンスタンドの
オープンを待つも、09:00に開店、それから30分後にやっと二千円分だけ
の割り当て給油。
直後の車が割り込みだったので、「恥を知れ!」と睨みつける。
約10:00三本柳の自宅を出発。
国道396を南下し遠野方面へ。 新仙人道路は橋脚の破損で通行止め、
まず第一目的地が鵜住居の家内の実家のため、遠野から笛吹峠を抜ける
ルートを選択。 カーブ、狭路、急勾配と、あまり楽しい道ではない。
12:00少し前、栗林を下り鵜住居町の入り口にたどり着くものの、潮位が
著しく低下し津波の恐れがあるという事で足止めを食う。
辺りを見回せば道端にゴミや建材が散乱し、ここまで波が到達した模様。
今大津波が来たらと思うとちょっと恐怖感が芽生える。
30分ほどの足止めの後津波警報は解除、この5日に開通したばかりの
釜石山田道路に誘導され、釜石方面へ。
恋の峠で路肩に駐車し、法面を降りて第16地割の家内の実家へ徒歩で向かう。
道路から見える光景の凄まじさに言葉を失う。
線路も曲がり落ち、倒壊した家屋も波が洗い去り、原形をとどめているのは
仰向けになったり逆立ちしている車だけ。

この時点ではまだ家内の両親の安否は分かっていない。
普段とかわらず振る舞っているが胸中を察するとかける言葉もみつからない。
現地のデイサービスセンターに避難した方々から情報をいただき、釜石市街へ。
何十年ぶりかに水海から旧道を通り、避難所となっている釜石小学校へ着いたのは
もう14:00近く。
名簿が有ったので家内と手分けして探すこと5分、義父母の名前を発見!
今は閉校している旧一中体育館に収容、との記載。
とたんに家内の表情が晴れるのを見て取る。 まずは安否が分かって一安心。
道路を降りて大渡橋の街側たもとに着くと、また信じられない光景が。
海側の市街は大通り、裏通りとも瓦礫と流された車に埋もれ、ここで車を降りて
次の避難所は歩いて行くしか手段は無い。


大通りは途中少しブルドーザーやショベルカーで車が通れるほどの道幅は
確保されているものの、それも所々で、旧一中まで最後は瓦礫を乗り越え、
市役所裏のお寺さんの山道を迂回し、やっとの思いで到達。
時刻は15:30近く、1キロほどの道に一時間余りかかった計算になる。
小柄な家内は身が軽く、サバイバル訓練のような障害も易々乗り越えるが。
体育館には200人以上の方々が収容。 ざっと見て歩くがそれらしい顔は
見当たらず、係の方にハンドマイクで呼び出ししていただくも、空振り。
「その方面の方は甲子中学校へお移りになった」との情報を得て、また移動。
今度は近道を教えられ多少ラクに移動。
釜石も多くの港町と同じく山側は勾配のある住宅地になっているが、一つ通りが
違うだけで下は流された車や建材が溢れかえり、上は普段通りのたたずまい、
ある意味理不尽な光景である。
雛には稀な美味しい老舗の中華料理屋さん・・・崔君頑張れ!

警察署、消防署とも津波に飲まれたため、緊急車両もこの有様、しかし
阪神大震災の経験を持つ、大阪、泉佐野、吹田、堺といった消防車や救急車、
兵庫県警のパトカーも沢山救援に駆けつけていただき、感動しました。

しかも韓国を皮切りに近隣国からの救援隊に駆けつけていただき、距離や
国境を越えて救いの手をさしのべてくださる方々に、心より感謝と敬意を
表します。
高速道路などではすれ違うだけでちょっと怖い自衛隊の方々もなんと
頼もしく感じられる事か。

釜石は暖かかったものの春特有の風が強く、壊れた建物の近くを歩くと
建材やガラスが降って来そうで怖い。
途中叔母の入院する病院で容態を確認し、車に辿りついたのは17:30近く。
これからは車での移動、友人の無事を確かめ、病院二軒を回り最後の避難所、
甲子中学校。 ここにいるはず。
玄関先の名簿を見ると、名前は確かにあるものの、その横に「3月14日移動」
と親戚の名前と電話番号が添えられたメッセージ。 その手があったか!
市内方面に5分ほど引き返し、やっとほぼ一日がかりで義父母の元気な姿を。
家内も心から安心したようで、顔が輝いてます。
義母の口から語られる震災、避難、津波、収容までのストーリーは、経験者
でしか知りえない予想外のアクシデントと奇跡に溢れたものでした。
ハンディキャップを持つ義父と介護する義母を優先的に誘導し
暖かい手を差し伸べてくださった市や医療関係の担当者の方々、
心からの感謝と、一日も早い復興をお祈りいたします。
再会を祝し名残を惜しみつつ親戚宅を離れたのが20:00近く、
その日復旧した旧仙人道路を久々に走り遠野に出ると、溜まっていた
メールや着信が一気に入り、仕事の仲間や友人からの連絡が、妙に
懐かしく感じられました。
ありがとうございます。 みんな、頑張ろう!