会社に退職願を提出した。
これで正式にタイムリミットが決まったわけである。新たな始まりに向けてひとつの終わりを迎えながら、おれのテンションは高い。未だかつてない速さで展開しつつある思考を、行動が追い立てる。進学を決めてから研究室訪問まで二週間、それからたったの二ヶ月で退職が決まった。
前へ、絶対に前へ。そう呟き続けてきた。
もうすぐ完成する論考は、批評家の先輩を介してとある出版社に持ちこまれる予定だ。それから、この土日で二つの思想集団に出入りして、自分にとっては雲の上のような存在の評論家たちと議論してきた。というか、半ばケンカしてきた。だから、出入りじゃなくて討ち入りである。
不安要素はいくらでもある。
まず金は足りない。時間も足りない。そして学力が足りない。現実的に考えれば、何もかもがまるで足りてない。でも、だからなんだ。現実という壁は無我夢中の疾走によって轢き殺されるためにある。その表面をなでまわして意味深に嘆息するためではない。
それでも時折、臆病風に吹かれてニヒリズムが顔をだす。即座に叩き伏せる。前へ、前へ、前へ、決して詩ではなく、この身体が動かなくなるまで、絶対に前へ。どれだけの批判や嘲笑や罵倒を浴びせられたとしても、絶対に前へ。誰がどうであろうとも、何がどうなろうとも、絶対に前へ。
誰もゴーサインなんて出してくれやしないのだ、この自分以外は。誰も救いの手なんか差し伸べてくれるわけがない。欲しかったら奪い取るしかない。しかし、なるほど、一年半のあいだ営業マンとして見てきたとおり、今からプレイヤーとして入ってゆくこの世界には未来がない。ポストも、市場も、権威も、何もかもが失われていく一方だ。だったら、その失われていく世界を自分たちの手で再び作っていくしかないだろう。そのためにも、まずは党派を、狂気的なまでに怒れる党派を組織しなければならない。おれの研究は戦後日本における最高最悪のイデオローグについての研究であり、本質的には感情のハッキングをその主題とする。
おれがかつてなく前のめりであることは以上の通り。そうして前のめっていく過程で、おれは自己に対する方法を編み出した。
自分自身であろうとすればするほど、これまでの自分が裏切られてしまうという自同律の逆説を利用することで、膠着した自分の現実を変えてゆくこと。すなわち、マゾッホ的情熱とサド的理性の楕円幻想、あるいは存在の永久革命―――これが靴底をすり減らす日々の中から叩きだしたおれの方法だ。
ところで、大江健三郎『われらの時代』を読んでいて、失礼ながらも笑ってしまった。
この小説にはどこかへと出発することのできない「アンラッキー・ヤングメン」ばかりが登場するのである。
本質的におれは未来を悲観して文学的に打ちひしがれるような青年ではないらしいと思った。「時代がどうだ、周りがなんだ」と威勢よくラップする般若を聴いて育ったせいだろう。それにもかかわらず、おれはこれから文学の門を叩くのだ。たぶんここにもいつの日かおれを裏切るであろう存在の逆説が潜んでいる。しかし、今は前に進むことが最優先だ。放っておこう。
さぁ、やり残しがないように準備を進めよう。出発の日は近い。