説教題 「今を生きる」


聖句 新約聖書 ガラテヤ人への手紙 第1章10節

今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい。


今回は、N先生の説教でした。
N先生といえば、元証券マンで政治経済のことにも通じていて、読書家であり努力を惜しまない方であり、信仰的でもあり、何でも出来るアクティブな方というイメージがあったのですが、瞑想に対しての証をしてくださり、とても近しい気持ちになりました。

N先生の証を通して、私も瞑想で神様の私に対する思いを知りたい!感じることが出来るかも!と率直に感じました。


N先生は瞑想をする中、「神様、私は必要ですか?」という問いかけをしていったそうです。
はじめは、瞑想中のその問いかけに「お前は必要ない」という自分の邪心の声をたくさん感じたそうです。

しかし、その雑念や「思いの列車」に乗らずに、神様への「私は必要ですか?」という問いかけをひたすら続けていったのです。

そうすると10分を過ぎたあたりから神様の悲しみの心情が胸に入ってきて、涙が止まらなかったそうです・・・。

12分間の瞑想だったので、瞑想が終わったあとも涙が流れ続けていたと・・・。


N先生が、その悲しみの心情が何故与えられたのか祈って整理してみたところ、

慕わしい子供に「私は必要ですか?」と聞かれる親なる神様の悲しみ。

親にとって子供は、何が出来る出来ないに関わらず慕わしく無条件に愛したい存在・・・。


とわかったのだということです。



N先生がお子様の話を証の中でされていたので、私も自分の小さい頃のことを思い出しました。

わたしは、幼稚園位まで母親にべったりくっついていた子でした。
母から離れるのは、とても寂しかったのを憶えています。

ある日の昼間、幼稚園の帰りだったか、母と車に乗って、どなたかの一軒家に用事があり、行きました。
着いた瞬間、わたしは着いたことに気が付かず眠りこけてそのまま車に置き去りにされたのですが、(ほんの5分くらいの時間だったらしいです。)
ふと私は起きて、誰も居ない車中、見た事のない風景にものすごい孤独感を感じてしまって、とりあえず車を出てみてわんわん大声で泣いたのを憶えています。
泣き声に気が付いた母は、すぐに来てくれました。

その時の、母を求める気持ち、寂しくて寂しくて居ても立ってもいられない気持ち。


神様と私とは親子である。と神様が愛を注いでくださっていることを気が付いたら、

私も神様にこうして幼子のように求めるのだなぁと感じた記憶でした。


神様が与えてくださる愛は、理屈じゃない。無条件の愛というものは理屈じゃないんだなと思わされます。


神様、今日もたくさんの感動をありがとうございます。




読んでくださった皆様。最後まで読んでくださり、ありがとうございます!


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