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「俳句」、「世界俳句」、「漢語/漢字俳句」 吳昭新(瞈望、オーボー真悟)、Chiau-Shin NGO


‧ 11)「芸術派俳句」:


前衛運動の一派は「芸術のための芸術」をそのスローガンとし、言語と表現の美を追求したため、前衛運動の「芸術派」と呼ばれました。彼らは1952年高柳重信(1923-1983)、富沢赤黄男らを擁して俳誌「薔薇」を創刊し、三橋鷹女、赤尾兜子(1925-1981)、鷲巣繁男らを傘下におさめました。「薔薇」はその後「俳句評論」(1958)へと発展し、高屋窓秋、永田耕衣(1901-1997)、三重敏雄、加藤郁乎(1929-)、橋閒石(1903-1992)、中村苑子(1913-2001)、三谷昭等が加入した。高柳重信は所謂の「多行形式」をも試みました、即ち一行の俳句形式を四行表記式に改め言語間の響きあいを更に明確にさせようと図ったのです。

‧ 12)「連作俳句」:


現在では「連作俳句」と言うのは一つの表題の下に多数の俳句があると言う意味だけに過ぎず、一句の俳句だけで詩の内容を完全に表せない場合に使われる方法であります。俳句歴史上では水原秋桜子らが創始したもので、独立した複数の作品間に関連または連続性があることを示しています、しかし正式の定義に関しては季語の問題などがまだ残っており、歴史上、有名な例句はかの日野草城の「都ホテル」での新婚初夜の俳句があるが、まだ多くの論議を残しています。


  ‧ 13)「大衆化俳句」:


80年代の後半に至って、日本国内の俳句熱は最頂点に至り、そしてずっと今まで続いています。元来俳句は老人の暇つぶしだと言われてきましたが、ここ二、三十年らい、だんだんと若い年齢層にうつり、子供俳句までも出てきて社会の文化活動の中でも最も重要な役割を演じています、所謂のカルチャーセンターにも俳句教室があり、毎年各団体間、各地域間でのコンテストアクティビティや賞金までも出て、即ち大衆化しいて、甚だしきは商業活動にも俳句コンテストがあり、例を挙げるならば茶の販売業や航空サービスらの大規模な、国際性な行事など、参加人数も数万を越えることさえあり、もう何年も続けられている。最も目ざましいのは毎年行われている高校生の「俳句甲子園」は野球甲子園を真似たもので、若い俳人を多く養成して送り出しました、いま主立って舞台の上で活動している俳句界の若者たちの多くが「俳句甲子園」の出身者であり、故にその作品も多くが「有季定型」の伝統俳句の道ではあるが、その中で「無季」や「自由律」俳句の道を模索している人達もいます。俳句の前途は広く無限であるべきである。正式な統計数字はないが現今の三大俳句協会に属している会員だけでも優に二万人はあると言われています、そして各結社に属する俳誌だけでも八百余りあると言う、推して俳句吟詠者は数百万人いや千万人を下らないとも言われています。兎も角も俳句は既に日本の国民文化活動になっているのは事実であります。

‧ 14)「国際化俳句」:


百年余り前、十九世紀の終り頃、即ち明治時代の初期に、すでに外国人によって俳句は西洋に紹介されていました:W.G. Aston (1841-1911)、Lafcadio Hearn (1850-1904)、B.H. Chamberlain (1850-1935)、Paul Louis Couchoud (1879-1950)らである。しかし系統的に紹介されたのは、二十世紀の前半になってからである:Harold Henderson (1889-1974)、R.H. Blyth (1898-1954)。しかし国外で本格的に流行したのは二次大戦以後のことである。外国で流行している俳句は、必ずしも十七音の定型や季語は厳守されておらず、三行詩の短詩型で流行しました。当然ながら日本国内の伝統俳句の擁護者はこの様な短詩を俳句と承認しようとはしませんでした、しかし外国ではそんなことにはかまわず、音訳の「HAIKU」と名づけ、各々の言葉で吟詠し世界潮流として大いに流行り、また各国でその母語での俳句団体がそれぞれ成立しています。


‧ 15)「世界俳句」:


俳句がすでに国際化した以上、各国でおのおの自国の言葉で詠まれて、明らかに世界の俳句になったのであるから当然「世界俳句」と言われるべきで、少しもおかしい所がありません、ではどんな制約か規制というか、そう云うものがあってしかるべきである。皆さん方は伝統俳句の約束については既にはっきりしていらしゃいます、即ち「五七五定型」、「季語」、「切れ」とすらすらっと口から滑り出す三つの約束のほかに、「客観写生」、「花鳥諷詠」、「自然を詠む」、「自然詠みから延伸した人事関係」などなどがある。では「伝統俳句」の始の二字を抹消し「俳句」だけ残った場合はどうなるか、そのままの制約で良いのかというと私の答えは「否」です。というのは一つの名詞または語彙の意味を定義する場合、われわれは先ず包括する範囲はどうであるか、「過去」、「現在」、「未来」また「狭義の」、「広義の」であるかと。上述の三つの制約と言うのは、ある一人の人がその語彙を創始した初期において、その時間点できめられたものである。ご承知の如く、一つの事項、規制が決められた後、時間の経過によって改変、変遷があるもので、恒久不変と言う事はありえません、改変するのが正常です、で当然あるべき改変は「俳句」の「広義の」含意であります。上述の三つの制約は伝統俳句の制約であり、「俳句」の定義は伝統俳句に続いた「俳句」の定義、形式など、さまざまな変化、変遷のすべて、「無季」、「自由律」、「三行詩」など、「俳句」の基本条件なる「最短」、「詩情」、「余韻」、「読者に鑑賞の自由を与える余白がある」を満たせるならば当然すべて「俳句」の定義に帰納すべきであります。

(五)文語、口語:

早期の伝統俳句は文語で詠まれ、そしてまた長い間文語のみの詠みが認められました、のみならず、日本語の仮名づかいも戦後文部省により統一規制されて、古い古式の仮名づかいや戦前の仮名づかいは廃止されましたが、俳句界では戦後初期、文語及び旧仮名遣いがつづいて一時期使われました。その後だんだんと口語の使用も承認され、現代日本語にあらわれた外来語のカタカナつづり、はては日本造語のカタカナ語と新仮名遣いに変遷してゆきました。この項目は前項、非伝統俳句の項目で提出されるべきでしたが、しかし伝統俳句の非伝統形態、形式であるゆえ、別に一項目を立ち上げたゆえである。これまた例え伝統俳句であっても時代の潮流の変遷に従って変らざるを得ないというその証拠の一つであり、世界の全てが変りつつあり,文化思想も変りつつあり、永遠に習慣伝統を墨守することが出来ないことを証明しているのです。



【俳句の本質と世界俳句】:

一先ず考えて見ましょう。「俳句」は詩の一種であり、世界にある多くの詩の形式の一種であります。それならば何故多くの詩形のなかで「俳句」のみが全人類の人気をよんで全世界のあらゆる言語に行き渡ったのか、とどのつまりはその短小と簡単容易に詠めるということに帰するのではないでしょうか。


容易に詠めると言うと、実際上小学生でも詠んでいるのです、ただ内容にに浅いと深い、簡単と深奥の差があるのみではないでしょうか。形式上多くの繁雑な規制がなく、小学生でも最も簡単な語彙や語句を使って日常生活で見たまたは出会ったことを詠めばよく、大人ならばそれぞれの人生経験および個人の天性の感性敏度によって、それぞれ深奥度の違う俳句を詠むまたは鑑賞できるのではないでしょうか。


中国を例にとって見ましょう。中国では五四新文化運動の後、白話文運動により難解な古詩は白話詩と自由律詩に席を譲らざるをえず、白話詩と自由律詩は全国民の人気を得て長い間国中を席捲し、文学界に君臨しましたが、幾十年もたつと終に口語自由律詩詩人の飛躍式感性と連想力は却って一般の人達の理解力と相容れず、だんだんと興味と信頼を失い、詩吟は一般大衆から益々離れてゆき、終には一般社会から失落する羽目になりました。飛躍式感性、思惟は感性に富む詩人の特性ですが、必ずしも一般大衆には受け入れらません、それゆえ、一般大衆にすれば即物性、即景性てき直接感性と直叙的叙景、叙事或いは抒情のほうが適合しているようです、この思惟は俳句の吟詠にも当てはまるものと思います。それゆえ、例え自由律の開放性俳句にしても、もし過分に飛躍性、高度感性の作品を追求するときは、詩人特殊感性を有する一部分の人達の特権にして、一般大衆の同感をうることは難しく、結局は少数の特殊感性所有者のペットにしかなりかねません。


さて、本題に戻りましょう。以上の説明から、みんなお分かりの如く、「俳句」の始祖は「連句」であり、そして「俳句」という名はいまから約百年余り前、明治時代の中期に、俳聖子規によって命名規制され、その原形は三百年余り前にやはり俳聖と呼ばれる芭蕉によって作られましたが、芭蕉は命名をしませんでした。


故に、子規を俳句の始祖とする大多数の俳句作家(俳人)は子規の制約規制を作品の金科玉条とみなし、五七五定型、季語、切れ字は伝統俳句の聖典となりました。日本において伝統俳句の断固たる擁護者の認知では、もしこの三つの制約に沿わない場合、たとえ一つだけでも、そして日本語で詠まれみんなから「名句」、「秀句」と言われる句でも、「俳句」とは認められないことがあります。


というのは、日本の俳句界においては高浜虚子が子規以後の俳句界の覇権を握って、《季題中心主義》、《客観写生》、《花鳥諷詠》なる呪縛を形成してから、上述の三つの制約に加えるにこれら虚子による「客観写生、花鳥諷詠」が俳句吟詠の制約規制になり、ずっと今日まで覇を称する現在、我々をして他の言語による俳句の吟詠の可能性について懐疑せざるを得なくなりました。


しかし、外国語を使用しての俳句吟詠も確かに世界文学界と詩歌界に盛んに行われてもう百年余りになります、そしてアメリカの小学校の教科書にも英語俳句(HAIKU)が教えられている現状において、俳句の創始国である日本で、まだこの民族文化の光栄を拒否し、あくまで日本の伝統俳句でなくては俳句でないことに拘泥するのには本当に首を傾げざるを得ません。


しかし、われわれはこのような束縛はみな「人為」であり、改変あるいは蛻変できる状況下において、「世界俳句」を「俳句」の外に排斥することに甘んじていられますか?それに一歩進んでこれ等の発展状況は当時の子規が予期しなかったのか、出来なかったかのであれば、われわれもまたこのような結果は確かに子規が企てた改革の本当の意図展望だったのか疑わざるを得ません。伝統俳句の観念は絶対に国際化した俳句《俳句=三行詩》の事実と共存共栄出来ないものでしょうか?私が思うに、もし子規が不幸にしてあまりにも短命でなかったならば、子規の聡穎そして革新に満ちた個性で以ってして、誰が子規が絶対にその三つの制約を堅守して敢えて改変をしないと主張するだろうと言いうるか?


最近、また今泉恂之介がその新書《子規は何を葬ったのか》(2011.9)にて「子規は蕪村、一茶の後、江戸時代後期から明治時代の中期まで一人として出来の良い俳人がいなかった、そしてこの期間の俳句作品は皆〈月並み、陳腐〉である」という言分は間違いであると指摘しています。かれはこの期間における幾人かの名俳人の優秀作品を例に取り出して子規のような俳聖までがこのような間違いを犯すと言う事実を提起した。またその後、市川一夫が1975年にその著作《近代俳句の曙》のなかでも上述の事実を既に挙げたが、かれが無季、自由律と口語俳句を主張したため、伝統派時代の大環境のもとで排斥されて顧みられなかった経過から、我らは習慣の墨守が醸し出す不幸を認めざるを得ません。ほかにも子規の所謂の「月並、陳腐」の俳句は真実そんなにだめなのか改めて再検討する必要があるという者も出てきています。今にして今年(2011年)のノーベル文学賞を受けたトーマス‧トランストローマが良くする短詩がHAIKUであると知る時、われらの感想はまたどうなのか?


ここにおいて、冷静に落ち着いて「俳句」の起源、本質、変遷史に関して思索するとき、ひょっとしたら俳句全般の情勢の理解にヘルプするところがあるかもしれません。


考えて見ましょう、「俳句」の定義はなんでしょうか?一:「俳句」はあらゆる世界の言葉の中で一番短い詩で、二:「俳句」の本質は出来るだけ短い語彙で瞬間の感動を詠みだす、三:「俳句」が詩の一種と言うならば当然音楽性があるべきで、でないとどうして散文と区別できようぞ?四:「俳句」は余韻を残して読者をして余韻嫋嫋の詩境下に陶酔させ、また余白を残して読者本人に自分の詩情、詩境の中で徘徊享受させるものなりと。


さて、第一項は無理難題を押し付けなければ争議はない筈、第二項も反対する者はいないでしょう、で第三項になると問題を持ち出す者が出て来るでしょう。