紗羅双樹 -45ページ目
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第14期市民大学開講

8月1日 教育長を迎えた開講式に続き特別講演がありました。

「2007年 新しい時代のコミュニティとムラの復権」

講師は斎藤 弘美氏(ニュースデスク・アナウンサー)

正しい口の開け方と 今時の若いアナウンサーでは聞かれない鼻濁音での美しい発音の講演に

いつの間にか引き込まれていました。

以下講演の概要をメモしました。

現在は挨拶をしない時代である。

ふたコマ持っている大学の授業では必ず「こんにちは」を強要している。

コミュニケーションの始めは挨拶である。


2007年問題

  団塊の世代の大量退職。 これは日中地域に人々が帰ってくる。そしてそれは社会資源として   

 学校は地域の人の力を借りて活性化を期待している。

 世間・・・社会ではない。昔はあったが今は機能していない。子供は世間が育てる。

市民大学でも只学ぶだけではなく 地域に還元。地域には人材がいる。

地域の力はムラである。村ではない。 昔ムラとは良い意味ではないことが多かった。

町内の枠の中で守られているのがムラであり生活の基盤となっている。

我々は内か外かとても大事にする民族である。

危険な場所を分ける造り

    廂・・・外にあるけどうち

    縁側・うちだけど外にある

世間の目

  鬱陶しいけど 今時の事件はなかった。自分を知っていてくれている。のびのびと生きられ

  ムラ社会に世間の目は根付いている。

市民大学開講
市民大学開講

   

海野格子

海野宿に入ると両側に格子戸の家が続きます。

一階の格子戸は明治以降に造られたものが大半で

二階の格子は出格子になっていて 長短二本づつの組み合わせで

大変美しいものでした。

これが海野格子と呼ばれるもので江戸時代のものだそうです。

街道を歩いていると格子戸の外側に馬除けと言われる格子があり

荷駄の往来が偲ばれました。

明治になり宿場町から養蚕の町へ変わり 客室が蚕室に使用され

換気の為に気抜きと呼ばれる小屋根が見受けられました。

今もどのうちもお互い屋号で呼び合って 最近本名が分かったということもあるそうです。


   夏きざす 蔵に二人の英語塾

海野格子
海野格子

市民大学奮闘記

幸か不幸かぎりぎりに申し込んだ市民大学にもぐりこむことが出来 今日 オリエンテーションに参加しました。

230名あまりの応募があり 150名の合格者というかなりな倍率でした。

講座のテーマは 音楽 シェイクスピア文学 歌舞伎 日本と世界 日本の将来 地球環境 地域の自然、とてんこ盛り。

12名づつのクラスに別れ これから2年間女子大生???

しかしリーダーを決める段になってなんと 高齢者と病人の多いこと。

卒業まで持つのかしら。

生気を吸い取られないように ゴーイングマイウェイ!

学割はないのかしら?

授業料年間5千円の30回の市民大学ではねえ。

とにかくなるべく欠席しないよう 落ちこぼれない様 ほどほどに楽しみます。

  

うだつ

「うだつが上がらない」と言う言葉のうだつとはどんなものか 海野宿へ来る楽しみの一つでした。

「うだつには種類があり」と立ち寄った土産物屋のおかみさんが話し始めて始めてそんなにあるのかと知りました。

海野宿には 本うだつ 袖うだつ 脇うだつ があり

江戸時代、防火壁として建物の両側を屋根より高く作られたのが 本うだつ

「ほら御覧なさい、板でできているようだけれど中は土壁よ」

明治になると一回の屋根の上に張り出して見事な装飾をほどこした 袖うだつ

長屋作りの建物で戸ごとの仕切りのための 脇うだつ

この地は宿場が衰退した後は 養蚕で富を得た家が多くうだつが上がったようです。

私の生まれた四国の内子では木蝋で 徳島は藍で栄華を偲ぶうだつがあります。

海野宿
海野宿
海野宿


海野宿

どの地方も大都会の小型のようにコンクリートで固められた街に違和感を覚え

古い町並みを尋ねていましたが 人出の少ない時期を選び 長野の小諸の先の

海野宿を尋ねました。

海野宿は1625年(嘉永2年) 北国街道の宿駅として開設されました。

豪族 海野氏の城下町であり 松代(地震があった)、依田窪、祢津からの道が

集結する交通の要所であり 

北国街道は中山道と北陸街道を結ぶ重要な街道。(初めて聞く名で響きが心地良い)

現在は道の中央は車の往来がかなりありましたが 今も用水路には綺麗な水が流れ

柳並木が続き 家並みは宿場時代と養蚕時代の建物が調和していました。

海野宿
海野宿

じやーじやー橋

何時だったか 水が落ちる橋があると聞き一体どういうことか一度見たいと思っていたところ 図らずも成田へ行く機会がそれを実現してくれました。 

(成田空港は送られ迎えられるものとばかり思っていた)


江戸の初期 小野川を横切って水田に送水するため 大きな樋を渡し

その上に板を敷いて人が渡れるようにしたのが 樋橋(とよはし)の始まり。

そして樋からこぼれ落ちた水がじゃーじゃーと音を立てていたので

別名 じやーじゃー橋とよばれるようになったとのことでした。 

現在は時間を決めて落としているため 伊能忠敬旧居の廂で地元の人と待ち

音を立てて落ち始めた橋の上から 下から確かめ納得しました。

じゃーじゃー橋 じゃーじゃー橋

小江戸

佐原の町に車を進めていくと目に留まったのが [小江戸]

川越以外にも小江戸と呼ばれているところがあるとは ちょっとした驚き。

パンフレットに 暖簾 格子戸 蔵造り・・・ 暮らしの中に息づく歴史

暮らしの中にと言う言葉に引かれ街道を見渡すと 古い家並みに古い看板、

聞けば天保、安政、明治の建築そのままで家業を引き継ぎ 只今営業中。

まさに生きている町並みでした。

次に来るときは 商家の内部や、女船頭さんの操るザッパ舟で 川からの佐原をじっくり見上げて見たいと思いました。

小江戸 小江戸

香取神宮

家を出る前、カーナビにどのくらい時間が掛かるか 香取神宮を入力したところ

所要時間は13時間、料金は1万何がし・・・の案内。

今日は成田へ行くのに 一体何処へ誘導されるの?

神宮と神社の入力ミスで遠く鳥取あたりを表示していました。

空港への時間を気にしつつ 鹿島神宮から千葉の香取神宮へ参拝の梯子をしました。

この社の楼門も大変美しく 風格のあるものでしたが 黒塗りの社殿には次々と御祓いを待つ団体が待ち構えていて

武道、交通安全、農業、商工業、海上守護の神という多角経営の様子が分かりました。

そういえば参道に並ぶ常夜灯に団子屋の名前があったと思い出しました。


鹿島神宮

成田空港へ家族を迎えに行く日、新車のお守りを頂きたいと鹿島神宮まで足を伸ばしました。

全国の鹿島神社の総本宮である社格の通り 鮮やかな朱塗りの楼門をくぐると有史以来の歳月を重ねた千古の森に夏は始まっていました。

秀麗なつくりの楼門は 阿蘇、筥崎とともに日本三大楼門に数えられるとの事。

奉納は初代水戸藩主徳川頼房公。

何とも美しい楼門でした。

両側に巨樹の生い茂る参道を進むと 古代を偲ばせる雰囲気十分感じられ奥宮に辿り着きます。

家康公奉納の奥宮はいかにも荘厳で風格のある佇まいでした。

鹿島神宮  

私の旅物語

四国の片田舎で育ち 教科書でしか知らなかった全国各地 或いは世界へ

何時でも手軽に行ける時代になり、体の動く限り貪欲にその地の歴史に

触れてみたいと駆け巡っています。

これを機に写真と共に掲載してみようと思います。

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