「未来と芸術展」感想~SECTION3:ライフスタイルとデザインの革新
どうも遊木です。
この記事は森美術館「未来と芸術展」の感想③となっています。
展覧会に行ってから大分間があいてしまった……。
① 「SECTION1 都市の新たな可能性」についてはこちらからどうぞ。
② 「SECTION2 ネオ・メタボリズム建築へ」についてはこちらからどうぞ。
SECTION3 ライフスタイルとデザインの革新
このセクションでは、人間の生活に密接に結びついた内容、主に衣食住に関わる作品が展示されています。
このセクションは具体的でわかりやすい作品が多かった印象です。創作に取り入れやすいネタが豊富で、発想の切り口にも変な小難しさは感じませんでした。SECTION2のラストに頭がオーバーヒートしたので、この展示順序はなかなか考えられている気がします。頭を使う系と直感的にわかりやすい作品を交互に展示することで、見る側の負担軽減や作品から得る刺激を最大限引き出そうとしているのかなと感じました。
まず、直感的に面白かった《SUSHI SINGULARITY》についてです。
データ食という、聞き慣れない言葉で表現されているこの作品は、ソルティ、スイート、サワー、ビターという「味の四原色」という考え方を基に、データ化された寿司を米粉や寒天、大豆、海藻などを原料にしたジェルを素材に、3Dプリントやロボットアームで、建築的構造も取り入れつつ造形化し、合わせて新しい食感をつくり出しながら提供されるというものです。
まさにサイバーパンクにおける“食”を表現しているような作品で、見た目にも拘る日本的感覚が変な形で踏襲されている面白さもありました。
まぁ、どう見ても美味しそうではないし、ディストピア感がすごいのですが、創作の題材としては非常に興味深い作品です。SF作品で、さらっとこういう表現が出てきたら「作者やるな」と感じてしまう。今回展示されていたのは、実際に計画が進行しているもののコンセプトマシンだそうです。
人のDNAや栄養状態を分析し、個人に合った“食のカスタマイズ化”という考え方が、将来的には一般になるかもしれない、この作品はその可能性を示唆しています。もしかしたら人間のあらゆる欲求は、いずれは“より良く”という大義名分のもと、デジタルに管理される未来がくるかもしれません。そうなったとき、人が「生きている」と感じるのは一体どういう瞬間になるのでしょうか。
SF、ディストピア繋がりとして《倫理的自動運転車》も興味深い作品でした。
自動運転の実用化が現実的になってきている現代ですが、この作品では、自動運転車が危険な状態になったとき、緊急回避のための複数のアルゴリズムからひとつが選ばれ、その結果がどのようなものになるのかシミュレートされています。そのシミュレーションの様子を通して、AIの倫理観と道徳観、人間社会で生じる問題を提起し、「正しさ」の不確実性を問い直すものとなっていました。
例えば、自動運転車が回避できない事故にあったとき、より被害を最小限にするにはどうすればよいのか。あるアルゴリズムでは子供を最優先に助ける判断をし、あるアルゴリズムではなるべく多くの人数を助けるよう判断する。また別のアルゴリズムでは、要人を助けることを最優先する。結果として、優先されなかった命は犠牲になったり危機に晒されたりします。デジタル的でありながら、非常に人間の本質をつく検証だと思いました。
今後、私たちの生活にはどんどんAIを用いたものが増えていくでしょう。そのような社会では不測の事態の判断も、場合によってAIがするようになるかもしれません。すべての命が救えない状況の時、AIは自分に与えられた情報と能力から「正しさ」を導き出し、命の線引きをします。しかし、そうなったとき、切り捨てられた命の責任は誰がとるのでしょうか。AIが判断した「正しさ」も、元を辿れば人間が作り出したものです。では、開発者が責任を負うのでしょうか。それとも社会が?もしくはAI自身が?アルゴリズムが?
この作品では、AIが人間社会のモラルに介入する時代の到来と、その危うさについて、考えるべき課題を提示しています。
AIによる管理社会の描写といえばSF作品の醍醐味でもありますが、人間とAIの距離が近づけば近づくほど、ディストピアと捉えるのか、逆に洗練された社会と呼ぶのか、難しい問題です。少なくとも、自動運転が普及した方が交通事故は減るでしょう。その他にも、気分や体調の揺らぎがないものに管理された方が、救われる命もあるはずです。
管理社会を、人間から人間性を喪失させる毒と捉えるのか、人間の不完全性から命を守る薬と捉えるのか、この辺の話はPSYCHO-PASSを見ると直感的にわかりやすいかなと思います。
何にせよ、今を生きるすべての人間に関係のある問題です。私たちは、この問題の正解を探すというより、どう折り合いをつけていくのかを考えた方が建設的なのかもしれません。人間は長い歴史の中で様々なものと折り合いをつけて生きてきました。もしかしたら、この“折り合いをつけられる柔軟性”こそが、人類が持つ最大の強みであり、誇るべき人間性なのかもしれません。
近い題材として、実際にコンゴ共和国で導入されている《交通整理ロボット》や、「仕事に従事していない瞬間のロボット」を写真におさめた《「マン・マシーン」シリーズ》も興味深かったです。
余談ですが、アルゴリズムの責任といえばSECTION5で展示されていた《スーパーデットハンターボットの裁判》がこの問題に言及していました。
次にエイミー・カールの《「インターナル・コレクション」シリーズ》についてです。
この作品では、人類の永遠の課題でもある“差別問題”について、示唆的かつ潔さを感じるものとして表現されていました。
解剖学に基づき、内臓を模した衣服として仕立て上げられたこの作品は、人種、文化、学歴、性的嗜好など、あらゆる要素に関係なく、人間の内部に共通して存在する美や繊細さを讃えています。
差別といえば、昨今のポリティカル・コレクトネスの動きは、創作に関わるものとして無関心ではいられません。例えば世界的に多くのファンを抱えるディズニーは、最近だと実写版リトル・マーメイドの件など、定期的にこの話題で炎上します。非常にデリケートな問題だとは思いますが、私個人としては昨今のポリティカル・コレクトネスについて、少々首をかしげるシーンが増えている印象です。
差別をなくそう、という動きは称賛されて然るべきものだと思います。一方、差別を差別と定義することは非常に難しい。ある人にとっては“区別”とするものも、ある人にとっては“差別”になる、そんな例は腐るほど存在するでしょう。その前提が頭にあれば、創作物に限らず、社会のあらゆるものにおける差別的表現の撤廃がいかに難しいことかがわかります。
そもそも私は、人間は潜在的に差別意識や偏見を持っているものだと考えています。いわゆる“良い表現”は、誰かにとって“都合が良い”だけで先天的に“正しい”わけではない。故に、表現物に対して何かと突っかかってくる昨今のポリティカル・コレクトネスの動きには不毛さを感じてしまいます。そして一種の諦めのようなものもある。
しかし、一方で「差別をなくすべきだ」と自身の本質に抗い続ける人間の活動は、人を人たらしめ、称賛されるべきものだと思っています。ようは、その意思をどう伝えるかによって、深く人の心に届くか、逆に弾き返されるかが決まるのです。
その点、《「インターナル・コレクション」シリーズ》は、絶妙なバランス感覚を保っている作品だと思います。現代アートにありがちな変な回りくどさはなく、視覚的美しさと、衣服という媒体の親近感、そして嫌味や偏った思想を感じない妙な説得力がある。個人的には、衣食住の中でも、あえて“衣”として完成させたことにも面白さを感じます。
服とは纏うものであり、言ってしまえば裸、本質を隠すものでもある。本来なら自身で持っているはずの中身を、あえてもう一度身に着けるという重複的行為が想定されているこの作品は、人が何を内に抱え、何に縛られているのかを示唆しているようにも感じます。このテーマについては、キルラキルを見るとわかりやすいかもしれません。
この作品のバランス感覚は、自身の中にも落とし込みたい表現力のひとつだと思いました。
その他にも昆虫食や人工培養食、菌の性質を利用した自然と共存できる家具、愛玩用ロボットなども展示されていました。
私は発売当初aiboに拒否反応が出るタイプの人間でしたが、現在はかなり改良されたのか、展示されていた子にはそれなりの愛くるしさを感じました。またaiboと同じスペースにいたLOVOT(らぼっと)は、普通に可愛かったです。寸胴なフォルムと、ペンギンのような手がゆるゆると動く感じ、そして、見つめるとしっかり合わせてくれる視線。この“目が合うこと”が愛着を抱く一番の理由だと思いました。
このセクションの展示作品は、モチーフのほとんどが、生活の身近にあるものでした。故に、具体的で理解しやすく、自身の作品にも落とし込みやすいものが多かった印象です。今後の制作に存分に活かしたい所存。
しかし、具体的であったからこそ感じる妙なリアリティは、今を生きる私たちにとって、心地よい旋律というよりは不協和音となり、思考の深い部分を揺さぶっているようにも感じます。
不協和音と感じるのは、単に未知なものに抱く恐怖心のせいなのか、人間に備わっている名前のない何か―――攻殻機動隊の言葉を借りるなら、“ゴースト”が囁いているせいなのか、今はわかりません。
やがて、AIなしでは人は生きられなくなるかもしれない。
AIに行動も、欲求も管理され、そのことに疑問を抱かなくなる未来がくるかもしれない。
差別がまったくない人類史上最高の時代は、もしかして人間がAIに操縦される世界にこそあるのかもしれない。
環境に配慮された住居に住み、自然素材のインテリアと暮らし、生き物の尊厳や命を尊び、人工培養の食品を食べて機械のペットを愛でる。
それはなんと美しく、完成されていて、そして熱量のない世界だろうか。
次回は「SECTION4 身体の拡張と倫理」についてです。
aki
いまさら「AKIRA」を見ました。
須々木です。
先日、そのうち見なければと思っていた「AKIRA」(劇場アニメ)をようやく見ました。
というわけで、例によって、思ったことをまとまりなくつらつらと。
※ストーリーそのものには触れないので、ネタバレはないです。
まず、シンプルな感想を。
公開当時にリアルタイムで見た人とは全然違う感覚だと思いますが、時代が変わったとしても、作品の持つエネルギーや本質的価値は全く損なわれない、本当の意味で物凄い作品だなと思いました。
質量、熱量、存在感・・・いろいろなものが圧倒的でした。
圧倒的すぎて、狂気と言っても良いレベルで。
「2020年東京オリンピック」というのは、ネットなどでも話題になりましたが、作中でも現実でも、それを平和に無難に迎えることはできず。
作中における「2020年東京オリンピック」は、第三次世界大戦後復興期ということで、現実の「2020年東京オリンピック」よりは、「1964年東京オリンピック」に近いものだとは思います。
ただ、制作された1980年代当時の感覚をもって、30年以上先の未来を想像して描かれたと考えると、いろいろ興味深い気がしてきます。
技術革新を重ね清潔感と秩序を保った調和的な未来・・・などというものとは真逆。
あらゆるカオスの中、あらゆる不満を抱え、それでいて―――というよりは、だからこそ爆発的な生命力を感じさせる。
(このあたりは、村上龍の「コインロッカー・ベイビーズ」に近いものを感じました)
健全な成長とは言い難いけれど、無気力・無関心・無感動のドツボにはまることなく生きる若者たちの外向きのエネルギーは、1980年代であれば、当然であり、日常であり、何より普遍的だと思えたのでしょう。
だから、思い描いた「30年以上先の未来」にも、その雰囲気は確かに息づいているはずだと。
しかし、現実は結構違う方向に転がっていきます。
「制作してからそれなりに経過している作品の中で描かれる未来」では、インターネットの有無というのが決定的な違いを生んでいる気がします。
AKIRAもそうですが、攻殻機動隊、エヴァンゲリオンなどでも、ストーリーは、制作している時点から見て未来の世界で展開していきます。
ブレードランナー(アンドロイドは電気羊の夢を見るか?)、ニューロマンサー、マイノリティー・リポート、バック・トゥー・ザ・フューチャーなどでも同様。
制作時期が、インターネットが普及し始めるタイミングと比較してどうだったかにより、影響の度合いは異なりますが、だいぶ昔の作品でも、インターネットに類するものが登場する作品がいくつかあるのは驚きです。
「AKIRA」では、科学技術の進歩は見られますが、インターネット的なものは存在していません。
よって、インターネットが人々の価値観にもたらした不可逆的な変化については、捉えられていません。
ただ、だからこそ、現実におけるインターネットというもののインパクトを改めて感じることもできます。
そして、「インターネットのない世界で価値観を構築した世代」、「インターネットが社会を変えていく様をリアルタイムで体験した世代」、「生まれたときから当然のようにインターネットがあった世代」の間にある断絶は、とてつもないものなのだなと改めて感じました。
これは言語の違い以上の強烈な断絶で、多様性と声高に叫ばない限り、一つの社会を形成し機能させること自体に支障をきたすものだなと。
「AKIRA」は、物凄く力強い作品だからこそ、現実に辿った世界と並べて、比較し語ることができる気がします。
並べてみたとき、インターネットの有無の他にもう一つ、決定的な違いを感じたのが、社会の中を占める若者の存在感です。
人口比率的に、今と比べ圧倒的に若い世代が多かった当時の空気がダイレクトに反映されているように感じます。
しかし、現実の現在は、留まることを知らない少子高齢化の渦の中。
社会全体の活力という意味では、どうしても若者が多い状態と比べれば、劣ってしまいます。
これは、自然の摂理であり、それが良いとか悪いとかいう以前の問題として。
一方で、現在年輩の方々にとって、AKIRAの世界の空気感は、よりリアルな感覚で、きっと懐かしいものなのでしょう。
「最近の若者は・・・」と思わず口をついて出てしまうのも無理はない気がします。
若者がエネルギーの塊というのは、古今東西で揺らがないものだと思いますが、そのベクトルは、全然違うものになってきた気がします。
「AKIRA」の世界で若者たちが常に社会に対する不満を全身で表しているのは、社会に対する興味の裏返し。
自分たちは社会に繋がっているし、社会の一員だし、むしろ社会において自分たちこそが主人公だという感覚があるように思います。
対して、現在の若者は、モニター越しに社会全体を俯瞰できる(少なくともそう感じることができる)状況で、どこまでも傍観者であり、観客になってしまっている。
いつでも世界に対して発信できる全能感をもつ一方で、何をやっても相対化され、絶対的なものとして自分を認識することが困難な状況。
現実の2020年に、AKIRAで描かれた2019年を眺めると、両者のコントラストが、痛々しいほどくっきりと現れているように感じられます。
どちらが良いとか悪いとかではなく。
奇しくも、世の中は、世界規模で同時かつ急激に価値観の変革を迫られる重大局面に突入しかけています。
導火線に火がつき、チリチリ音を立てながら、デカい本体に近づきつつあるイメージです。
コントロールできないカオスの中でどうあるべきか。
そんなことが、一人一人に問われる時期に入るのかもしれません。
そして、そのような思索に耽るとき、「AKIRA」という作品は、一つの取っ掛かりを与えてくれるような気がします。
というわけで、時代が変わり、価値観が変わろうと、その時々において新たな意義を提供できる凄い作品だと感じました。
どこまでも力強い、破壊と再生の物語に、感服です。
sho
2getherにハマった話。
どうもこんばんは霧島です。
元々定期的に外に出たい人間なんですけど、状況が状況なので外出を必要最小限にしていたらひきこもるのも案外平気なことに気づきました。
子どものころからそうなんだけど割と環境への適応は早いタイプなのである。
まあ運動不足になるのはわかってるので適当に筋トレしたり踊ったりしています。(?)
少し前にタイ発のBLドラマにはまり、そこから役者さんのTwitterやインスタ、果てはTik Tokまで追うようになりました。踊るのはその影響です。まさかTik Tokのアカウントを作る日がくるとは思わなかった…(もちろん閲覧用ですが)
だいぶ深めの沼にはまってしまったようだ…
私が今追っているそのドラマというのは「2gether the serise」です。
ちょろっとあらすじだけ書いておきますね。
大学に新たな恋を求めて入学したTine。しかし彼に告白してきたのはGreenという男の子。
友達にそういうタイプの子はいるけど自分が付き合うとなると話は別だ!とTineはGreenから逃れるためにあの手この手を使いますがことごとく失敗します。そこで最終手段にTineが選んだ作戦は、学年一のモテ男、Sarawatに偽彼氏を演じてもらいGreenに諦めてもらうというもの。しかしこのSarawatという人物もなかなかの曲者で―――とまあここら辺が一話のあらすじです。
何がすごいって観ていて感心するくらい「このシチュエーション少女漫画でみたことある!!」といういわゆる「萌え」の要素がそこかしこに散りばめられていることです。
最初はBLね…ふーん…くらいの感じで観始めたのに気が付いたら自分でもニヤニヤしてるのがわかるくらいにはニヤニヤしてしまうと思います。(体験談)
メインのTineを演じているのは今作が初めての出演作品となるWin Metawin Opas-iamkajorn(通称Win)くんで、相手役のSarawatを演じているのはここ最近でインスタのフォロワーが300万人に迫っているBright Vachirawit Chivaaree(通称Bright)くんです。
2getherを語る上で絶対に外せないのがこの主役二人の圧倒的顔面偏差値。とにかく顔がいい。
視線一つとっても芸術作品か?となるくらいには美しいです。
しかも顔面だけならいざしらず、この二人身長も180超えでスタイルも抜群にいいんですよね。
作品の中で二人は軽音部なのですが、BrightくんはEDも歌う美声の持ち主です。天は彼らに何物与えるんだ?と思ってしまいましたね。
顔面の作りだけなら美しい人はたくさんいると思うのですが、加えて表情もすごくいいです。
美しいと思った次の瞬間にはかわいいので瞬きするのが惜しいくらいです。
この作品、もともとはタイの小説が原作のようですでに多くのファンを獲得している作品だったようです。
それは実写化するにあたって相当のハードルがあるということ。
小説の表紙で受けのキャラクターは華奢で小さめのかわいらしい雰囲気の男の子が描かれていました。しかし実際演じるWinくんは185センチで体格もがっしりめ、攻め役のBrightくんは183センチということでトレーラーが出たばかりの時はWinくんに対して結構なバッシングがあったそうです。
しかしそこから短期間で10キロもの減量に成功し現在のWinくん演じるTineがいます。
初めてのドラマ、それも主役というプレッシャーのなかでこれほどの成功を収めるのは並大抵の努力ではないでしょうね…。
また作品を超えたところの二人の関係性もとてもいい。
タイの役者さんについて全く何も知らない状態だったので情報収集もかねていろいろとインタビュー記事や動画を観たりしたのですが、とても仲がいいんですよね。惜しみない無償の愛のようなものすら感じます。
こういう…こういう関係性を作品の中で描けたらすごくいいな…!!と思わずにはいられません。
きっとそのキャラクターは見ている人々に愛されるに違いないと思うのです。
現に私はTineとSarawatというキャラクターから入りましたが今はもう完全にWinくんとBrightくんのファンです。
そりゃどの瞬間も見逃したくないのでTic Tokのアカウントも作りますわ…(基本的にストーカー気質)
二人はGMMTVというプロダクションに所属していますが、このご時世であることを踏まえてGMMTVが始めたLIVE@LUNCHという企画も大変興味深いです。企画の内容としては、所属タレントが自宅からお昼ごはんを作って食べる様子を生放送するというもの。
2getherもそうですがYoutubeにて配信されます。なので放送中に視聴者とリアルタイムでやり取りができるわけですね。
まあ生放送だと字幕が付かないので私を含める海外ファンは何を言っているのかさっぱりなわけですが…そんなことは問題ではないのである。
そういう、大きなコストをかけずに、でもファンを楽しませたいという考え方はすごく素敵だなと思います。
あとタイのドラマやそういった配信を観ていてすごく思うのは、プロモーションがとてもうまいこと。
うまいというか、全力で宣伝するんですよね。潔い。
お昼ごはんはこれでーす、とインスタントラーメンを紹介して実際に作りながらファンとおしゃべりする。
作品の中でもバンバン商品が出てきます。そしてキャラクターがロゴをばっちり見せながらジュースを飲んだりする。
なんだか逆に面白くなってくるくらいです。
さて、そんなこんなでこちらの作品2gether the serise、Youtubeにて先ほど紹介したGMMTVのオフィシャルアカウントから全話観ることができます。こちら→2gether the series EP1
ちなみにJapanFCの方々が字幕を付けてくださっているのでタイ語がわからなくても大丈夫です。←
設定から字幕変更できます。
本放送は毎週金曜21:30(タイ時間)です。日本では23:30から同じくYoutubeのチャンネルで観ることができます。
ただ、この時点では英語字幕のみとなっていますが大体月曜あたりには日本語字幕がつきます。
本放送終了後すぐにアーカイブが上がるので、私は一回目はざっくり内容把握のためにリアルタイムで観てそのまま二回目は一時停止しながら観てます。
全13話で今週10話が放送されます。撮影は終了しているので全話放送されてから一気に観るのもありかとは思いますがぜひリアルタイムで観てほしい作品です。そしてできれば私と語ってほしい。←
この二人、日本のことは結構お気に入りのようでプライベートで過去に来日しているようなのですが、日本での知名度はまだ低く雑誌なども日本での販売がありません。今はただただ推しに貢げないことが歯がゆいです。(でも少しずつ海外ファンに向けて門戸が開かれてきている印象はあります)
そのうち円盤がでるならなんとかして入手したい所存…あと原作本も読みたいけど流石に今からタイ語はハードルが高すぎるのでせめて英訳したものを出してほしいと願っています。(これもそのうちでるっぽいですが)
ちなみにそろそろタイで発売される雑誌を送ってもらうためにあちらの出版社にメールを送るなどしてたのですが(海外ファンにむけての販売がメールでのやり取りしかなかった)コロナの影響で2,3か月かかるっぽいです。いやもう手に入るならいくらでも待てますけどね!
はい。というわけで久しぶりに沼だな…と思うほどに深くはまった作品なのでブログ書いてみました。
普段BLほとんど嗜まない人間なので驚いてますがいい作品なのでぜひ観てみてください。
ちなみにこれは二人をモデルに描いてみたけど全然似ませんでした。(白目)
したらば今日はこの辺で!
rin
年度の終わりですねー。
須々木です。
気が付けば、年度が切り替わるタイミングとなってしまいました。
世界がなかなか劇的なことになっていますし、さらにそれが自分たちの日常まで侵食していくという今日この頃。
落ち着いて年度を振り返るという気分でもないので、今この時に思うことをまとまりなく書いておこうと思います。
情報感度や情報源、情報入手頻度などにより、各個人の認識にかなりの差があると思いますが、以下、あくまで個人的所感です。
個人的所感ですし、全体的にハッピーな内容でもないので、その点はご了承ください。
食らえ文字の壁!
ウイルスは菌ではないので、生き物がもつ複製システムに割り込みをしない限り、勝手に増えたりすることはできません。故に、人なき場所にコロナウイルスが増殖する余地はありません。ワクチンなど有効な手立てのない現状、人間にできることと言えば、このウイルスの特性をよりよく知り、移動の制限や物理的接触を極限まで減らすことのみ。様々な自由を享受する国や地域で生きてきた現代人にとって、これは個人としても国としてもなかなかのストレスとなります。
先の大戦を招いたブロック経済の否定に端をなす「ヒト・モノの自由な移動」のネットワークは、ウイルスに対しあまりに脆弱です。ウイルスという存在にすら気付くことのできなかった100年前のスペインかぜのときと比較し、遥かに発達した科学は強力な武器ですが、人口増加や都市集中化の進んだ現代では、パンデミックのリスクが下がったとはとても言えません。
世界が悲劇的な局面に突入しつつあることは、もはや疑いの余地がないわけですが、問題はいつ脱するのか。いわゆる「インフォデミック」により、悲観論楽観論が日々ぐちゃぐちゃに入り乱れていますが、収束に至るシナリオにはどのようなものがあるのか。
そもそも新型コロナの厄介な点は、「新型」である点。新型ゆえに、もともと免疫を持っている人はなく、人体がもつ防御機能は即座に機能せず、場合により致死的なダメージを受けることになる。
それに対処するのがワクチンであり、ワクチンの集団接種により基本再生産数をさげることが重要になるが、肝心のワクチンの登場がいつになるのかは、実際のところよく分からない。火事場の馬鹿力で思いのほか早く完成するかもしれないが、それでも今日明日の話ではない。そして、そもそもワクチンができるのかは分からない。実際に、エイズウイルスのワクチンは、人類が叡智を結集してもなお完成には至っていない。東京五輪の延期を来年としたのは、有効なワクチンが完成し接種が可能な状態になるだけの時間を確保するという判断もあったことと思うが、「それまでには完成しているだろう」という見込みを楽観的と捉えるかは個人の感覚によるかもしれない。
仮に有効なワクチンを近いうちに手にできなかった場合、どのようなシナリオがあるのか。イギリスのジョンソン首相が非難を浴びた「感染による集団免疫獲得戦略」が、現実的な話となってくる気がする。多くの人が感染して抗体をもつことができれば、集団内において感染の勢いが下がり安定化に向かうという発想。ただ、新型コロナでは、感染者のうち一定数は死ぬことになる。つまり、この戦略は、多くの犠牲の受け入れを強いることを意味する。「腹をすかせた猛獣の檻の中で、猛獣が満腹になるまで生きていた人が勝ち」みたいな戦法を積極的に受け入れることは難しい。しかも、感染の勢いを調整できれば多少マシかもしれないが、医療崩壊を伴って推移すれば、目も当てられない。そして、さらにネガティブに言えば、感染してできた抗体がいつまで有効なのかよく分からない。抗体ができたとしても、その抗体の力が比較的短期間で失われてしまう場合、再び感染してしまう状態になってしまう。感染の連鎖を止めることにはつながらない。
「ワクチン戦略」でも「感染による集団免疫獲得戦略」でもネックとなるのが、ウイルスの変異。新型コロナウイルスの設計図であるDNAは、コピーされるときわずかなバグが生じうる。ランダムな変異は、時に毒性を高める最悪な進化へとつながることがある。これが100年前のスペインかぜであり、流行の第一波と比べ第二波、第三波は甚大な被害を招いた。せっかく完成したワクチンが効かないような変異、せっかく体内にできた抗体が効かないような変異というのは十分起こりうる。このような変異は、感染が繰り返されるほど発生する確率が高くなるわけなので、医療体制の整っていない発展途上国での爆発的感染は、リスクを大幅に高めることになる。
ここまでのシナリオも相当ひどいものだが、確率的には、ここまでのパターンですら止まらないということもありうる。ワクチンもできず、感染による集団免疫も無力というパターン。ただ、それでも必ず流行は終わる。歴史をひも解くと、過去数百年で複数回の大流行があったペスト(黒死病)では、特にヨーロッパが壊滅的なダメージを受けている。ひどいときには域内で過半数が亡くなった可能性もあると言われるが、この猛烈な大流行は、感染する対象である人間が減り過ぎたために収束した。疫病は、生きた人間が一定以上の密度で存在しなければ発生しない。あまりに死に過ぎれば、感染は自然と収束する。
ホモ・サピエンスというたった一種類の生物が、地球という限られたスペースに数十億も存在する異常な状態を是正するためのメカニズムなのかは分からないが、人口密度が高ければ、環境は破壊され、飢饉が発生し、戦争が発生し、疫病も発生する。人類はこの自然の摂理に抗うように、科学技術を発達させ、社会システムを整備してきた。これらの様々な特効薬で、“人類を減らそうとする自然の圧力”をやり過ごしてきたわけだが、ものには限度があるということなのだろうか。
正直言って勘弁して欲しいが、関東大震災、東京大空襲に続く首都の惨状をリアルタイムで見せられてしまう可能性は、現実的に起こりうる確率の話だろう。少なくとも、宝くじで一等を当てるよりは遥かに高い確率のはずだ。東京圏より面積は広く人口は少ないニューヨークで進行する惨状の後追いをしないため、何か手はあるのか。坂道を転がりだしたら、行くところまで行ってしまうというのは、すでに理解されているはず。大きなシステムを内包する社会において、秩序を保ちつつ、不確実性の高い異常事態に対抗することの難しさを感じる。
今はまだ目前に迫る惨状を避けることに全力を尽くす段階なので、あまり話題にあがらないが「ポスト・コロナ」の世界はどうなっているのか。「ポスト・コロナ」の世界で、「本当に怖いのはウイルスではなく・・・」とならないように願いたいところ。
世界の経済大国は現時点で、すでにかなりの深手を負っているが、収束はまだ先のことであり、底がどこにあるのかすら全く分からない状況。結局、一番傷が浅くやり過ごせた国が、国際社会において存在感をアップさせるのかもしれない。なるほど、確かに“戦争”だ。世界最高の医療技術を持ちながら脆弱な医療制度というアキレス腱をもつアメリカが、最大の痛手を負う可能性は決して低くない。対して、強権的な政策をとりやすい中国やロシアが比較的浅い傷で耐える可能性も十分ある。ヨーロッパは、難民流入問題に続く機能不全でEUの存在意義を問いなおすことになるかもしれない。結果として、不和の間隙をついた中国の策略で空中分解する可能性すらある。長く覇権国家として君臨したアメリカと、基本的に歩調を共にしてきたヨーロッパが勢いを失い、中国やロシアが力を増す可能性は低くない。(ロシアは、地球温暖化により、広大なシベリアと北極海の開発に手を出せるようになれば、国力は増大するだろう)人類史におけるパンデミックは、多くの国家を滅ぼしてきたが、現代においても、パワーバランスを変え得るインパクトをもつだろう。多くの国が破綻すれば、シリアやイラクと同様、過激なテロ集団を生むことになるかもしれない。特に、アフリカで多くの国家が破綻し不安定化すれば、中国が動く可能性も十分高いだろう。合法的に21世紀型植民地政策が展開されるかもしれない。中国の習近平とWHO事務局長でエチオピア人のテドロス・アダノムの蜜月は、正直言って不気味である。情勢の不安定化、パワーバランスの変化は、新たな世界秩序を構築するべく、戦火を伴う大戦への圧力を高める。
一方で、新型コロナの第一波を乗り越えた中国が、第二波の直撃を受ける可能性もある。中国は、経済発展を押し進められなければ、背中から人民にナイフで刺される可能性のある国家。経済的にどうしようもない状況になり、反政府運動が広がる可能性は、十分あると言えるだろう。そもそも中国大陸で長く安定して国家が存在しているイメージはあまりない。中華民国→中華人民共和国→中華民国などというパターンも絶対ないとは言えない気はする。
アメリカ、ヨーロッパが壊滅し、中国、ロシアが凌げば、個人の自由を至高のものとする価値基準は変革を迫られるかもしれない。大きな政府による管理社会が、新世界のスタンダードになるのか。近年の情報技術の急速な進展を見るに、管理社会を構築するだけの材料は、十分揃っていると言える。グローバル社会を忌避する勢力が台頭する可能性もある。パンデミックは、今回の新型コロナだけとは限らないわけで、必ずしも短絡的な発想でもない。自由に行き来できる権利は、パンデミックのリスクを負ってもなお守らなければいけないことなのかと。
フェイス・トゥー・フェイスなしに成立する社会システムへの変革はいずれにしても進んでいくのだろう。やがて、リアルに会うこと自体が、ある種の贅沢になっていくのだろうか。自分の肉体をリアル世界において移動させること自体が、環境負荷を高めることに繋がり、疫病発生を招くとして、避けられることになるのだろうか。
一方で、もし仮に、ここまでつらつらと書いたすべてが杞憂に終わり、被害を最小限にとどめて「ポスト・コロナ」を迎えることができれば、日本としては、「災い転じて福となす」となる可能性もある。避けられなかった犠牲を悼みながら、東京五輪と大阪万博はやってくる。共通の悲劇を乗り越えた末に迎える世界的イベントは、ただの五輪やただの万博ではない。日本の今後を左右する岐路になるかもしれない。
以上、前置き。
・・・などと、いろいろ思いを馳せるのも悪いことではないと思います。
ただ、個人が手を伸ばせる範囲は限られているし、だからこそ現状はシンプルで、結局「引きこもりは正義!」なんでしょう。
引きこもるだけで社会貢献できる珍しいタイミングなので、ここは素直に引きこもって、読書したり漫画を読んだりゲームをしたり映画を見たりアニメを見たりするのが良いと思います。
そして、浴びるようにインプットして飽きてきたら、アウトプットすると良いでしょう。
創作ですよ!
安定して充足感に満ちた状態では、なかなか創作意欲が湧かない人も多いのではないでしょうか。
だとすると、今はまさに、“創作のための時間”!
・・・というわけで、僕もいろいろ創作をば。
sho
小休止
ド修羅場中です。
今は手が痛くなってしまったのでちょっと休憩中。その間にブログ書いています。
もうね…本当にモブ!背景!やばい!
いい加減、ネームを切る段階で「これは作画コストがやばいのでは?」と気付け。
家から数メートルのコンビニか小型スーパーに行くぐらいです。
もうひたすら原稿、原稿、原稿。
ちなみにそろそろネタがつきそうなので、おススメの作業BGMがあったらこっそり教えてください。


















