ショートケーキ・オーケストラ。 | デュアンの夜更かし

デュアンの夜更かし

日記のようなことはあまり書かないつもり。

 12月20日(日)

 夕べはオーケストラの鑑賞に末端を忙しくした(寒いなか行ってきた、という意味です)。意識したことはなかったのだが、ふと思い当たり考えてみると、どうやら毎年このくらいの時期に何かオーケストラを観に行くことが定番となっているようだ。急遽、一緒に行く予定だった人に都合がつかなくなり、まさかの単身である。

▽▽▽

 クラシック音楽は嫌いではない。それはすべて母、もしくは妹の影響で、昔から自然と耳にする機会が多く、我が家では各局高視聴率を叩き出す番組群雄割拠の時間帯にでもNHKなどでクラシックの番組が流されていることも珍しい光景ではないのだ。しかし、自分の「クラシック音楽好き」に至っては間違っても能動的なものではなく、あくまでも受動的に備わった嗜好であり、その造詣の浅さは他人に尋ねるまでもないことを自負している。

▽▽▽

 開場を控え、ホールの外にできた列に並ぶ。ひとりで来ている人はなかなか見当たらなく、ロマンティックなこの時期、周りはみんなたのしそう。すぐ後ろに並んでいるのは、その声や雰囲気から自分と同じか少し下くらいの年齢の女の子ふたり組で、さむいねさむいねと足踏みしながらきらきら笑うその様がとてもかわいくて、思わず自分の内側に向かって畜生と叫びたくなった。しかしそんなこともひっくるめて、その時間からすでに心はたのしいのだ。

▽▽▽

 その日の曲目は幸いどれも有名なものばかりで、この単身ど素人大馬鹿野郎でもきちんと相応に味わうことができた。いつもそうなのだが、特にクライマックスのようなところでない場面でも、ふと涙が出そうになる瞬間がある。それはひとつのパートが前に出るような場面ではなく、すべての楽器が絶妙に溶け合い、それが耳に届いた瞬間だ。ピッチのズレだとか音量の過不足などの正誤はまったくと言ってよいほど気づかないが、理屈ではなく耳に届いた音がそうであったとき、反射としてもう涙腺は緩んでいる。こんなきれいな音があるものか、とえもいわれぬ感動に包まれるのだが、それでも曲はすすんでいく。いつまでもその感動に浸っているわけにはいかなくて、そういう意味でオーケストラは、いや「生」とは残酷なものだと思う。しかし次々と表情を変えていく交響曲は次第に終焉に向けて高まっていき、すると今この空間は、この宇宙のなかで最もエネルギーに満ち溢れているのではと思うような音が、ウォンウォンと会場中を飛び交うように波紋する。そしてゆっくりとすべてを終わらせる指揮者の腕が高く静止すると同時に、ステージの上の団員もまたぴたりと、まるで蝋人形のような静けさで静止する。光がブラックールに吸い込まれるのはこれに近いものがあるのかもしれない、と演奏終わりは一種の恐怖に包まれる。

▽▽▽

 しかし次の瞬間に生じる大音量の拍手が、すべてを明るいハッピーエンドに変えるのだ。それが響けば団員や指揮者は解き放たれたようにぽつぽつと破顔し、客席とステージの距離がなくなるような安堵感が広がる。拍手は惜しまない。それはひとえに称賛と感謝の意というものであるが、解き放たれた彼らの顔をたくさん見たいと思うからだ。それこそがもしかしたらいちばんの感動をもたらしてくれるもので、ならばそれを引き出すのは自分たち観客なのだ。嘘をつく必要はないが、演奏がすばらしいものであったならば、拍手は惜しんではならない。おこがましいが、それは最後にケーキの上にイチゴを乗せる作業で、それによって演奏会は完結し、さらなるハッピーエンドが訪れるのだ。

▽▽▽

 夕べもまた、何にも替え難い感動と、そしてやきもちを覚えて会場を後にした。少し体温がぽかぽかとなった心地で出た外はやはり寒く、しかし満足そうな周りの人たちの顔にまた温度が上がったようで平気に思えた。開場待ちのときに後ろに並んでいた女の子たちの姿があった。よもやそんな煩悩が介入する余地はないほど満たされていると思っていた我が胸中だが、相変わらずのきらきらの笑顔に畜生と叫びそうになったのはもう仕方がない。