POLAR BEARの小林さんが、面白い記事をアップしていたので。

Facebookでは、1日1,000人以上が亡くなっている
http://blogs.itmedia.co.jp/akihito/2011/01/facebook11000-7.html

 mixiは最近ログインしなくなってしまったけど、退会しない理由のひとつというのは、この世でなかなか会えなくなった友達の息遣いが感じられるからでもある。ウェブ自縛霊とでも言おうか。facebookは日本語用と英語用のアカウントを運用してるけど、いわゆる疎遠になった人とは違う蓄積がアカウントごとに溜まっていくんだよね。
 なんつーか、ライフログがそのままデッドログもといクロニクルのようなものになっていく仕組みってのは、昔から確かに議論はあった。ただ、死んだ人のサイトと違って、生活のログがそのまま書き込まれて、そして中断されたという代物というのは、やはり格別な何かだ。

 同じように、潰れた店や、廃盤になったレコード、絶版の本、性質は違えどもう継続していない何かが蓄積されて、そこに繋がるアカウントでないともう触れられないのだと思うと、今度は何か供養でもしないといけないのかと思う。もう、私が熱中したころの忌野清志郎ともレスリー・ニールセンとも触れられないが、彼らが残した足跡に触れる仕組みはかなりの再現度でウェブには存在している。

 facebookはもはや国である、というような議論をしている連中が居て、少し前はお前ら何言ってんの馬鹿じゃねーのと思っていたけど、よく考えたら「ウェブの中の公共」の比重が上がってきて、カジュアルにウェブを楽しむこととは違う意味合いを持つウェブの資産ってのがどんどこ増えており、いま急速にウェブは歴史を作っているんだということに気づく。ということは、権利があり公民があり統治があって、結果として枠組みとしての国家と概念的には比肩し得る「重要な何か」もまた成立しかけているのだろうかと思ってしまう。

 だから、ある意味でウェブの中の公共を実現する仕組みはやはり必要なのだろう。昔、東京24区をウェブで実現しようというようなネタを聴いたけど、あんまり笑えなくなった。いずれ、自分も鬼籍に入るのだからな。