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その6より つづき

- その7 -

大本山 本能寺  (だい)  (ほう)  殿(でん)

正しくは
法華宗大本山本能寺大寳殿宝物展示室
(ほっけしゅうだいほんざんほんのうじだいほうでんてんじしつ)

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展示内容概要
本能寺の所蔵する寶物展示
織田信長の遺品(茶器類)肖像画 他
本能寺の変の遺品「三足の蛙」「茶器類」
戦国武将の遺品・文書
(足利義政 六角承禎 三好長慶 織田信孝 細川晴元 豊臣秀吉 徳川家康)
森蘭丸「太刀」津田家伝来「よろい・甲」
狩野派絵画 雪舟 海北友松 明兆
土佐光起絵画 本能寺名物茶器 他

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唐銅香炉「三足の蛙」

天正十年六月二日未明に本能寺の変は勃発した
原因は 光秀の怨念説 光秀・秀吉・家康との三者共謀説 
天皇・公家の陰謀説 千利休と堺町衆説他と 枚挙にいとまがない
信長は 本能寺に到着したのが五月二十九日
秀吉の中国出陣要請に応じたものであった
本能寺の変の前日六月一日は
昼間 近衛前久 甘露寺経元 勧修寺晴豊をはじめ
公家 博多の豪商 島井宗室 町衆四十名ほどを招待し
参加者60名ほどの前で 九十九髪茄子茶入 白天目茶碗 牧渓の絵など
信長公所蔵の三十八種の茶道具名品を持参し 御茶会を催している
この時に 島井宗室を招いているのは 天下布武の予定や
物資の補給などを話し合ったと考えられるが
一説には
信長公は 茶入れの天下三名品のうち「初花」「新田」を所蔵していた
もう一品「猶柴」は島井宗室が所蔵していたので
それを手に入れるためとも云われている
夕刻には 晩餐会を催し 夜十時頃から
本因坊日海上人(寂光寺)と鹿塩利賢(本能寺)との
囲碁の御前試合を見物して就寝した
対局中碁盤の上に「劫」が三箇所もでき 無勝負にせざるを得ず
二人は不思議に思って帰宅した
この時刻には 光秀の軍勢がヒタヒタと京都を目指して押し寄せていた
そして 「三足の蛙」が 信長の危機を知らせるがごとく鳴きはじめた

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宝物館には信長の遺品や家臣が身に着けていた甲冑などが展示されている

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三男 信孝公書状
本能寺の変一ヵ月後 本能寺に対して
信長の御墓の建立を依頼している


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館内には来訪者が全くなく館員の方が手持ち無沙汰のご様子だったので
「信長談話」に花を咲かせ 楽しい時間を過ごさせていただいた


いつも 信長の遺品に囲まれて居られる方の薀蓄話から・・・・

■ 信長の 身 長 ■
「中くらいの背丈で 華奢な体躯である」(ルイス・フロイス 日本史)
「中くらい」の意味が良く分からない
戦国時代の平均身長の中で中くらいなのか?
フロイスの故郷ヨーロッパの平均からすると中くらいなのか?

別に 書簡で日本の様子や布教活動について本部に伝えている
それには 「長身痩躯」とある  長身で痩せていたという

フロイスの日本史は 後の回想録で
書簡はその時の様子なので 書簡の方が正確かも知れない

また 当時実物大として作られた大徳寺総見院 木像 織田信長坐像や
信長所用と伝わる甲冑などから165cm~170cm程度と推定される


■ 信長の 体 重 ■
同じく木像の体積や所用の甲冑から体重を推測すると60kg程度と推定
165cmで60kgだと ちょっと小太りか 筋肉質かと思われ
ルイス・フロイスが言っている華奢とは違う
170cm位なら華奢または長身痩躯と言えるかも

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本能寺所蔵の肖像画は髭が無いのが特徴

■ 信長の 人 相 ■
髭は少ない。


■ 信長の  声  ■
声が甚だ よく通り 甲高い
5町先(約545m先 1町=109m)からも声が聞こえた。

■ 信長の 血 液 型 ■
鑑定した検体が信長の物に間違いないのであれば
血痕や遺髪から信長の血液型はA型と判明

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■ 信長の 蛮 行 ■
織田信長は父・信秀の死により その家督を継ぐ
信秀の法要は大須・万松寺(当時は昭和区小桜)でおこなわれた
このときの 尾張の「うつけ者」の行状は あまりにも有名

信長 御焼香に御出 其時信長公御仕立
長つかの大刀・わきざしを 三五なわにてまかせられ
髪はちやせんに巻立 袴もめし候はで 仏前へ御出であつて
抹香を くはつと 御つかみ候て 仏前へ投懸け御帰り


「うつけ者」と呼ばれる普段のままの姿 長柄の大刀と脇差を縄でくくり
袴もはかず まげを茶筅に巻き立てて で参列し 焼香するかと思いきや
抹香をくわっと掴み 父の仏前へ投げつけて 信長は帰ってしまった

抹香を投げる行動をとったのか-若さと反骨の精神という見方もある
「うつけ」を強調し 敵を油断させる為とも
信長は 古いしきたりや儀礼が嫌いかのように思われてはいるが
たしかに 新し物好きであるし 室町幕府の仕来りを悉く打ち破っている
しかし キリシタンを保護したが 神社・仏閣を廃したわけではない

桶狭間の戦いでは 熱田神宮に勝利を願い
岐阜の名を冠するのに 僧呂に知恵を乞うたり
斎藤道三との会見や 将軍への拝謁など
儀礼や しきたりを軽んじているわけでは決してない
むしろ 儀礼の意味を充分熟知していたのではないだろうか

寶物館員のお話に段々と熱が籠ってきた・・・・・

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