物価の上昇で人々の生活が少しずつ苦しくなってきた村ですが、その後、建設作業員や村人の体力の低下をさすがに心配した中央銀行の総裁が、粟の水増しを急に停止しました。この時に総裁から代官に相談はありませんでした。任期が切れるときに代官に罷免される可能性はあっても、総裁は一々やることなすことを代官に相談しなくても良いのです。
今までは中央銀行は、預かった粟を水増しすることで粟の貯金が増えたかのように見せかけていました。水増しした貯金の額面は実際に預けられる粟正味の分量よりもかなり大きくなっていたのです。水増しをいきなり停止するということは、今まで水増しされていた貯金の額面を粟正味の預かり量まで減らすことです。つまり、貯金の額面を粟正味の量と等しくすることです。だから、水増しを止めて今や粟正味の量と同じになった貯金の額面は、今までに較べて大きく減りました。利率は、貯金を借りるための代金ですが、今借りられる貯金の量が急に減少したのに、人々が借りる借金の量は増加したままなので、利率が急に上がりました。
利率が上がったことで多くの住宅購入者が住宅ローン返済に支障を来たし始めます。彼らのローン返済の利率も急に上がったからです。
ローンの返済を諦めた人たちの住宅は中央銀行に借金の抵当として取りあげられます。中央銀行はこれらの住宅を売りに出すので、村ではいきなり沢山の家が売りに出ます。しかし、利子が高くなっている今家を買ってもローンを組むことと返済が大変になるので、売りに出された家を買う人はいません。つまり住宅供給は増えたけれども、住宅購入の需要は減ったのです。その結果、今まで上昇していた住宅の価格が急落します。
つまり、中央銀行が粟の水増しを始めてから膨れ上がった住宅バブルが破裂したのです。
また、住宅を買う人がいなくなったので、大工は住宅の建築を停止します。多くの建築中の住宅が完成前に見捨てられ、これら建設中の住宅とその土地は借金の抵当として大工から中央銀行に取りあげられます。
また、借金をして華美な衣類を買ったりドブロクを呑んだ人たちは、高くなった利子を払いながら借金を返済しなければならなくなりました。
高騰した利率で借りた金を返すとなると、ダム建設はどうしても採算が合わなくなるので、出来るだけ早くダムの建設を中止してこれ以上の損害を食い止めるべきだという意見が村人の間に出てきます。最初の見積もりがずさんだと言って、代官を批判する人も村人の間に増えてきました。
代官所の事業であるダム工事の存続・中止の決定権は代官にあります。今ダム建設を中止すると、ダムの建設に携わっている人たちが失業します。また、彼らからの注文を受けている仕立て屋、鍛冶屋、大工の収入も減ります。代官がダム工事を中止すると、失業したり収入が減るこれらの人たちは、真近に迫った選挙で現職を支持しないでしょう。
そう考えた代官は、工事期間を20年に延長して工事の縮小を図ることで、工事の完全な中止を避けようとしました。代官は、自分が再選されるように出来るだけ失業者の数や工事中止による村人の収入の減少を食い止めたかったのです。
代官のこうした努力にもかかわらす、間もなくして行われた代官選挙では、村人はダム工事の全面中止を選挙公約に掲げた新人候補者を新しい代官に選びます。新任の代官は、ダム工事の中止を命じ、ダム工事に携わっていた人が全員失業しました。また、仕立て屋、鍛冶屋、大工などの村人の収入も減りました。
ダムは建設途中で放置され、鍛冶屋が製作していた土木機械も完成する前に建設会社に引き取られスクラップにされました。建築中の家屋の多くも骨格だけの状態で放棄されています。失業者、自宅を失った人、借金にあえぐ人、収入が減った人で満ちている今の村では、ドブロクの消費が減ったので、造り酒屋は倒産し、建設途中の醸造施設も再利用できた資材を除いては放置されています。
つまり、村人が今まで貯めてきた貯金の多くが、巨大なダムや醸造施設の残骸、家屋の骨格、スクラップという形に成り果ててしまいました。再利用できない資材は完全に無駄になったのです。
巨大ダム建設に携わった技術者はダム設計の知識を伸ばしましたが、ダムの建設が中止された今、その知識をそのまま生かす道はありません。
つい最近まで、敬う人の多かった中央銀行総裁の人気は地に落ちて、前任の代官ともども、総裁のことを良く言う人は村に少なくなりました。
ただ、前代官と総裁をいまだに支持する人たちは存在します。ダム工事で失業した建設作業員と貨幣水増しの時代に儲けていた仕立て屋、鍛冶屋、大工、造り酒屋です。彼らは、自分が失業したことや自分たちの商売が上がったりになったのを新任の代官がダム工事を中止したからだと思っています。また、まだ住宅ローンの返済や借金の返済にあえぐ村人は、中央銀行には再度の粟の水増しをして、利率を下げてもらいたいと願っています。借金に苦しむ人の中には中央銀行こそが自分たちの苦境を救ってくれる救世主のように思っている人もいます。
先の代官は、こういう村人たちの不満や要望を嗅ぎ取って、「ダム建設と粟の水増し再開」を公約にして、既に次の代官選挙に出る準備を始めています。
これでこの村の歴史物語はおしまいです。
ここで、中央銀行が粟の水増しを始めてからダム工事中止と住宅バブルの破裂にいたる流れを振り返ってみましょう。
中央銀行の貨幣水増しによる初期・中期・末期のサイクルにおいて、雇用、住宅・衣類・道具類・ドブロクの消費、および、住宅・衣類・道具類・ドブロクを売る人の収入が、いずれも急に増大する「にわか景気」が起った後、それらが急に減少する「不景気」で終わっています。この「にわか景気」と「不景気」の交代を、「景気変動の波」と呼びますが、中央銀行の貨幣水増しは、まさに、景気変動の大きな波をこの村に引き起こしたのです。
投資には危険が付き物ですが、投資に見込みが無いと分かれば、出来るだけ早いうちに切り上げて、失う貯蓄を最小限にとどめるのが得策です。景気変動の大きな波に飲まれるということは、このシリーズで扱った村のように、見込みが無い大規模な投資事業に、長い間かかって蓄えた貯蓄を無駄に使い続けた結果、そのほとんどを失うということです。失った貯蓄を生産力の増大に地道に使っていれば、この村は今頃、もっと豊かになっていたはずです。また、景気変動の大きな波の底では失業者が街に溢れ、波の頂上では失業者が殆んどいなくなります。人に雇われることで収入を得ている人にとっては失業から次の仕事にありつくまでの期間が長くなります。大きな景気変動は、避けられるなら避けたい現象です。
中央銀行が存在しない社会では、景気変動の波は、起ったとしても小さくて済みます。
その理由を以下に説明します。
事業の大小に係わらず、ある事業への投資が始まったときには雇用や消費が拡大し、またその事業が失敗したときには雇用と消費が縮小するので、中央銀行が存在しない社会でも、景気の変動の波は存在します。
中央銀行が存在しない場合、人々は、自分の貯蓄を一気に失う危険を小さくするために、貯蓄を分散して保管します。危険に対する認識は、個人間でも異なりますが、収入が多いほど、大きなリスクを背負う余裕が出来るので、豊かな社会では貧しい社会に較べて、社会に存在する銀行家の一人一人がより多額の預金を集約できます。
社会の豊かさの違いによって、一箇所に集約される金額の多少には差があります。しかし、預かった預金を貸し出すという銀行の投資活動そのものにはどんな社会でも危険が付き物なので、貯蓄は社会の豊かさにかかわらず一箇所ではなく必ず幾つかの銀行に分散されているはずです。
ところが、取り付け騒ぎの無い中央銀行の登場は、社会構成員の預金を失うというリスクに対する感覚を麻痺させます。その結果、中央銀行は傘下にある少数の銀行に預金を集約をさせ、より少ない数のより大規模でリスクの高い事業に、社会の貯金を集中して投資させることが出来るのです。さらに、中央銀行は、この集約した貯金の一部の使い道を、金銭上の責任を取る必要の無い政治家や官僚に決めさせています。
中央銀行からは話がそれますが、多くの人が「国は倒産しない」と信じているので、政治家や官僚は、銀行以外にも、国家が販売する国債や国家機関である郵便局の貯金という形でも、人々の貯蓄を自分の手許に集約できます。
中央銀行がない国では、国全体にわたって利率を上げ下げ出来る独占銀行は存在しません。どんな国にも様々な産業があり、地域による産業構成も異なります。ある地域のある事業への投資が成功して、生産力の増大に成功したときには、そこからの貯蓄率があがります。逆に、ある地方のある事業への投資が失敗したときには、その地域の貯蓄率は上がりません。中央銀行が存在しない場合には、存在する場合に較べると、投資事業は数多く、また、それぞれの事業は小規模であり、その結果生ずる貯蓄率の変化も小刻みであり、そして、その変動の周期は各産業や各地域によって異なるはずです。これは、貯蓄率に伴って変動する利率も、小刻み且つ地方や産業によって異なることを意味します。
また、独占的な中央銀行が存在しなければ、国内に多く存在する銀行がそれぞれ独立して営業しています。従って、異なる銀行が投資事業に貸し出す資金の利率は、特定の銀行が所在する地域やその銀行の預金者と投資事業の産業構成の違いを反映して、多少の違いが出てくるのが自然です。ところが、銀行は他の地域の銀行とも資金の貸し借りがあるので、貯蓄が多くて投資先が少ないところから貯蓄が少なくて投資先が多いとところへ預金が流れます。この預金の流れは、上で述べたような異なった地域や産業の間の貯蓄率の違いを均一化する働きがあるので、社会の利率は一定の幅に収束します。
しかし、中央銀行がある場合と違い、この一定の変動幅に収束した社会の貯蓄率は、大きく且つ急に変動することはありません。それは、この収束した利率を底辺で支えている異なる地域の異なる産業の貯蓄率は、投資事業の成功不成功だけでなく、各地方の技術教育レベル、気候、地理、人口など多数の要因に左右されているからです。これらの多くの要因が、全国に渡って時間的に同調して変動ことは稀なはずです。従って、中央銀行が存在しない場合の利率は、号令一つで上下する中央銀行の利率のように、急変することは無いのです。
利率が急変することが無ければ、個々の投資の開始から終了までのサイクルが、社会全体で同調することはありません。この村の例のように、急に下がった利率を受けて、人々が一斉に投資や住宅購入に走るようなことが無いからです。さらに、数多く実施される個々の投資が小規模なので、個々の事業の成功と失敗が引き起こす景気変動の上下の動きは小さいのです。その上、中央銀行が水増しを継続してで貯金を増やし続けるようなことをしなければ、採算の見込みが既に薄くなった大事業に投資を長引かせることもないので、景気変動の時間的周期も短くなります。従って、中央銀行が存在しない社会でも景気の変動はあるでしょうが、数多くの小さくて短かい周期の景気変動の波が時間差を伴って生じているために、個々の景気変動の上下動が社会全体の中で相殺されて、「恐慌」とよばれる大規模で急激な不景気は起りにくいのです。
中央銀行が無い社会でも景気の変動はあるので、人々は景気の変動による貯金の損失を出来るだけ防ごうとします。創意工夫に富む人間は様々な損失防御策を編み出してきたのですが、保険という制度はこの防御策の一つです。ところが、中央銀行の登場は、損失防御策としての保険を意味の無いものにしてしまいます。
例えば自動車保険という損失防御策は、保険に加入している運転者がそれぞれ別々の要因で事故を起こすという前提で成り立っています。保険に加入している人のほとんどは事故を起こさないので、ほんの少数の加入者が起こした事故の損害を、その他大勢の事故を起こしていない加入者の掛け金で支払うことが出来るのです。
ところが、社会全般に渡って起った一つの事件が、多数の自動車事故を、同時に、且つ、一斉に引き起こした場合には、加入者の掛け金では多数の事故の損害を補填できなくなります。
上記の村の例では、多くの人が突如住宅ローンの支払いが出来なくなりましたが、原因は社会全般に渡って中央銀行が利率を急に上げたからです。病気や事故や失職など不測の事態に備えて、たとえ住宅ローンを組んでいる人たちが大勢集まって毎日少しずつの掛け金を払う「ローン保険」のような防御策を採っていたとしても、「不測の事態」が一気に多くの人たちに降りかかった時には保険という防御策は機能しません。
上で検討したように中央銀行による一括的な利率の操作は、景気変動の大きな波を引き起こして人々の貯金を一気に失くしてしまう危険を大きくします。それに加えて、中央銀行は、個人個人がその貯金喪失の危険に対処することさえも難しくしているということです。
中央銀行が恣意的に利率を上げ下げするために一人一人が自分で貯蓄の喪失の危険に対処することが難しくなった状況で、たとえ保険加入者全員が同時に不測の事態の陥ってもその全員を救うことが可能な保険会社というのは中央銀行しかあり得ません。なぜなら、中央銀行は保険加入者の掛け金を水増しして額面上は加入者全員の損失を補填することが出来るからです。人々にとっては、中央銀行のせいで自分の貯金を一気に失う危険が増えたのですが、皮肉なことに、人々はその危険から自分を守ろうとして再び中央銀行を頼るようになるのです。
「村人全員の貯金を俺に預ければ二年後には倍にして返す」なんて怪しい話には乗らなかったに違いない村人も、取り付け騒ぎの起らない中央銀行は信用して、利子は儲かるし預金を失う心配はないという美味しい話には乗りました。うまいことを言って村人の貯金を掻き集めた中央銀行は、貯金の水増しをして代官の賭博的な事業の資金を捻出しました。中央銀行が粟の水増しをしたことで利子が下がりましたが、村人の中には、利子が下がったがために本来借りるべきでなかった金を借りて謝金地獄に陥った人もいます。つまり、中央銀行は村人の将来に対する「健全な不安」を麻痺させて、貧しいながらも皆んなが地道に働いて少しずつではあるけれど人々が豊かになっていたこの「楽市村」を一種の賭博場に変えたのです。
この村では一時期、建設業者・仕立て屋・鍛冶屋・大工・造り酒屋が大いに儲けましたが、この人たちが金持ちになったのは、造り酒屋は除き、この人たちに商才や発明の才があったからではなくて、たまたま代官に縁故があったり、偶然良いタイミングでこれらの職業についていたからです。倒産した造り酒屋にしても借金地獄に陥った村人にしても、借金の返済中に利率が上がったのは自分のせいじゃない、運が悪かったんだ、と言うでしょう。博打での儲けは運で決まりますが、賭博場になってしまった楽市村でも運の良し悪しによって、金持ちと借金にあえぐ人たちとが生まれました。中央銀行の水増しがさらに続いていたならば、代官に取り入って金儲けをしようとする人たちも出てきたでしょう。そうなれば、この村は代官が村人の賭け金を支持者に横流しするいかさま賭博の場となるのです。つまり、いかさま賭博の賭け元である中央銀行が村人達の貧富の格差の原因なのです。
自分の貯蓄を自分で管理するという自由は、一歩間違えば貯蓄を失うかもしれないという危険と背中合わせです。中央銀行は貯蓄喪失の危険を取り除くという約束によって、貯蓄の管理を自分でするという自由を人々から取り上げました。ところがその結果は、このシリーズを通して見てきたように、この中央銀行の約束は、個人個人の貯蓄喪失の危険を逆に大きくしているのです。人々が騙されたことに気が付いても、一旦譲り渡した「自分の稼いだ金の使い道を自分の責任で決める自由」を取り戻すのは容易ではありません。
次回は、長らく続いたシリーズ「貯蓄・銀行・中央銀行」の最終回です。
最終回では、「こんなに害のある中央銀行が、なぜ存在・存続するのか」という疑問に取り組みます。