猛烈な睡魔に襲われながらも、久しぶりにブログに手を出している。

 

誰かの何かの役に立てばなのか、それとも自分の気持ちを残したいのか…。

 

 

 

先日、施術を兼ねた勉強会のために仲間の接骨院へ出向いた。

そこで若い先生達に話したことをもう一度改めてよく考えてみた。

 

参加していたのは熱心に話に耳を傾ける真面目な先生達だったのは救いだ。

医療・介護従事者は自分の立場を勘違いしやすいのだ。

 

 

 

己の保身から始まる

「上手くやろう」「大きく見せよう」「誤魔化そう」「操作しよう」という心。

 

そうして始まった流れは、続くほどに矛盾に苛まれ、どうにか体裁を保とうと帳尻合わせをしているうちに、いつの間にか嘘や誇張で塗り固められていく。

 

「保身」とは、傷つきたくないから、守られたいから、いい思いをしたいから.

そんな自己中心的な思考や計算から生まれる。

 

そんな言動も、始めは人として尊重されるだろう。

しかし、やはり時が経つにつれ少しずつめくられていく。

周囲の人達に不信感や不快感を与えていく。

 

明確な理の裏付けがなくとも、人は違和感を覚えていくものなのだ。

それはどこか人を馬鹿にした上から目線で見ている証であるからだ。

 

 

バレていない。上手くいっているはずだ。

そう思っているのは本人ばかりで、

気付いた人は本人には伝えない。

それを暴かずに少しずつ離れていく。

そして大概本人はそれに気付かない。

 

 

本音と体裁を器用に使い分けようとするのは人の性なのであろう。

優秀な頭脳を持つ人間なのであれば、そんな性こそ良い方向に使いたい。 

特定の人間にだけ利を追求したものはやはり不浄な問題を持つ。

 

 

未熟な自分をさらす潔さ、弱さや狡さを認める勇気、誰かに譲る優しさを持てたなら、そこからきっと今の自分の課題とこれからの挑戦が始まるはずだ。

 

取り繕い続けることに頭を悩ませているより、恥をさらそうが、痛みを伴おうが、健全なる自然体で気持ち良く生きられるのではないだろうか。

その方がどれだけ精神衛生上良いことか。

 

 

そんなものは綺麗事だ、ただの理想論だ。

そう言われてしまいそうだが、そう思っているうちは、

それこそ真っ向現実と向き合えていないのではないかと、私は思う。

 

勿論、口で言うほど簡単なことではない。

どんな世界、どの段階においても、それぞれに葛藤や課題があるだろう。

 

 

人は感性に振り回されず、都合よくドライに合理的に割り切っていけないのだ。

自分にも他人にも割り切れない感情がある。

制御しきれない、計り知れない心がある。

 

何気なく出てくる言動は、たまたまではない。

普段から思っていること。深層心理にあるもの。

そんな世界観や価値観から具現化されたものが言動として表れるのだ。

 

 

いい人になる。格好つける。背伸びする。

ということではないのだ。

「仏作って魂入れず」の空っぽでは仕方ない。

 

 

バランス良く人間性を高めていく。

ありがたみを認め、感謝できる人間になる。

小さなもの、弱きものを大切にできる人間になる。

 

 

大事なのは意識すること。

きちんと向き合うこと。

受け入れること。

認めること。

 

出会いや人の縁。

配慮や意見。施しや労い。

人生の中の当たり前だと思っているもの全て。

 

 

そんな意識があれば感性も磨かれ、観察能力も上がる。

 

 

そして関係性は、信頼感ある安定的で良好な関係が築かれる。

流行りや損得勘定主体の関係性は、希薄で簡単にひっくり返る。

 

大切にするということは、大切にされているということ。

守るということは、守られているということ。

 

 

 

これらは自分が偉くなったような錯覚から驕りに染まりがちな自分達、医療・介護従事者には特に求めたい。

 

 

人を傷つける不用意な言動はどんな心から生まれるのか…。

自分の在り方は、人を勇気づける、元気づけることができるのか…。

 

 

自分も仲間達も、常に問題提起し合いながら共に成長していきたいと思う。

知識や治療技術などが本当に活かせるかは、意識していくことから始まる。

 

意識すること…。

果たしてそれはそんなに難しいことなのだろうか…。

 

 

命の期限宣告を受けている方や、心身に著しく障害のある方、また身近にそんな方達を一生懸命に支えて生きている方にとっては大きな問題なのだ。

 

 

今宵も寝不足のまま、再確認する。

 

自分は、余裕な顔をして生きていきたいとは思わないんだな…。

 

 

 

楽体(らくだ)出張整体  岡島芳樹