人生の終わりに立ち会うたびに思うことがあります。
それは、最期の時間は、
誰にもコントロールできないということ。
どんなに準備していても、想定外の出来事や、
思いもよらない形でその時は訪れます。
けれど、人生の集大成に向けてどう生きるかは、
自分で選ぶことができる。
そして、その“どう生きたか”が、
最期の時間につながっていくのだと思います。
現場で見てきた「人生の最期」
私は福祉職として長く、訪問介護の現場にいました。
人の暮らしに深く関わる中で、
人生の最期の時間に立ち会うことも少なくありませんでした。
そのたびに感じていたのは、
最期は、誰かと比べられるものではなく、
その人だけの時間だということ。
家族構成も、病状の進み方も、
価値観も、誰一人として同じではない。
「こうありたい」と願っても、
その通りにいかないことのほうが多い。
けれど、その“想定外”の重なりが、
その人の物語を最後までその人らしくしている。
そんなふうに思ってきました。
父の最期に感じたこと
今年、父が亡くなりました。
仕事柄、がん末期の経過はわかっているつもりでしたが、
家族として過ごす時間は、
やはりまったく別のものでした。
もう“今日か明日か”というとき、
緩和ケア病棟へ移るか否かの話し合いが行われました。
もう今さらという空気もありましたが、
私は母に後悔を残さないためには、
移った方がいいと主張し、
病棟を変えることになりました。
余計な手続きや費用もかかりましたが、後悔はありません。
父が亡くなったあと、
看護師さんたちは父をお風呂に入れてくれました。
そして「一緒に洗いますか?」と声をかけてくれました。
私は父の髪を洗いながら、
こんなふうに優しさの中で見送られるのは幸せなことだと思いました。
そして、私も誰かのそんな時間に寄り添える人でありたいと思いました。
病棟を移ったばかりで、
父のことをよく知らないはずの看護師さんたちは、
「どんなお父さんじゃったの?」
「お風呂は好きじゃったん?」と、
私にも、父にも優しく話しかけてくれました。
そのまなざしや温かさに、
“人の最期を支える”という仕事の尊さを改めて感じました。
父を通して、最期の時間は特別なものではなく、
日々の延長にあるのだと感じました。
だからこそ、これからの時間をどう積み重ねていくのかを、
改めて考えたくなりました。
「どう生きたいか」は、日々の小さな選択でできている
私たちは「いつか終わる」と知りながら、
その終わりを意識して生きることは多くありません。
けれど、“どんなふうに終わりたいか”を考えることは、
“どう生きたいか”を考えることと同じだと思っています。
仕事は何を軸に選ぶのか。
どんな人たちと時間を過ごしたいのか。
暮らしのリズムや健康、お金との向き合い方、
学び直し、第二のキャリア——。
私はどう在りたいのか。
一見バラバラに見える日々の選択は、
やがて30年後の自分をつくります。
そして、その選択を「誰かの価値観」ではなく、
自分の価値観で決める。
それが、“幸せの設計図”を描くということだと、私は考えています。
だからこそ、「設計」する時間を持とう
将来への不安は、がんばって消そうとしても、
消えるものではありません。
不安は、まだ起きていないことを“現実のように”感じてしまう、
心の影なのかもしれません。
だからこそ、自分にとって必要なものと、
不必要なものを見極めて手放していくことが、
不安をやわらげる一歩になるのだと思います
↑↑↑こちらから申し込めます。
ここだけのお話、今回のワークショップの中には、
「人生の最期をどんなふうに迎えたいか」を思い描く時間があります。
そのとき、私のそばに誰がいるかと思い浮かべたとき、
私は優しく笑いかけてくれる人だったら、
誰でもいいなと思いました。
父の最期に居合わせてくれた看護師さんたちのような方かもしれないし、
もしかしたら、昔の私のようなヘルパーかもしれない。
「あぁ、あなただったんだ」と気づくことが、
今からちょっと楽しみでもあります。
最期の時間は選べません。
けれど、集大成に向けてどう生きるかは、
いまの私たちに委ねられています。
そして、その積み重ねが、
やがて最期の時間を形づくっていくのだと思います。



