観心本尊抄 私風現代語訳 その1、受持即観心=心に固く秘し沈めて伝えるべき成仏の方程式 | ラケットちゃんのつぶやき

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観心本尊抄 私風現代語訳 その1

折しも、創価学会の青年教学一級試験が9月30日に予定されていて、私の周りにも研鑽している人がいます。
私は以前に受けまして対象外ですが、自身の更なる教学研鑽のため、また、使命である広宣流布の一環として、観心本尊抄の本文を、私風にかみ砕いて現代語訳をしてみました。



あくまで私の拙い理解の上の訳で、ご本仏日蓮大聖人のご境涯には遠く及ばず、そのお心を汚すことを恐れながらも、私自身のネットでの、今後の仏法流布の礎としたいと思います。
諸法実相抄(P1361)に、「行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」とあります。

こうして一文一句展開し発表することで少しでも凡夫の自身の血肉としていくことが、一生成仏に、そして広宣流布につながると信じています。
誤字脱字、間違っている箇所、もっといい表現など、ツッコみや多くのコメントを歓迎しております。


以下、(カッコ内)は訳者の意味付け・注釈または補足
<>では、重要な要旨を入れました。


【仏の滅後第五の500年間以後に始めて弘められる、観心の本尊(成仏の方法)についてのまとめ】


天台大師(以下、天台)の「摩訶止観」(以下、止観)の、第五の巻、正修止観章には、このように載っている。一念三千の「三千」を「世間」とするのと「如是」とするのは同じことであり、論理展開がちがっているだけである。

「さて、一心(一瞬の心の状態)には十の法界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏)が備わっている。
一つの法界のそれぞれに十の法界が備わっているので合計百法界である。この百法界の一界に三十種の世間が備わるので、一心に三千種の世間が備わることになる。
この三千世間は一念の心にある。もし心がなければ三千世間が備わることがない。ほんのわずかの時間・空間でも心があればそこに三千世間が備わるのである。(中略)、この故に一念三千を「不可思議境」(そもそも考えが及ばない領域)と称し、一念三千の意味はここにあるのである」とある。
(ある写本には、「一界に三種の世間を備えている」と記載されている)


問う。「法華玄義」(以下「玄義」)には一念三千の名目を明らかにしているか。
答え。妙楽大師(以下「妙楽})は明かしてないと言っている。
問う。「法華文句」(以下「文句」)には一念三千の名目を明らかにしているか。
答え。妙楽は明かしてないと言っている。
問う。その妙楽の説明は?
答え。「どちらも、その時点ではいまだ一念三千といっていない」とある。 
問う。「止観」の一・二・三・四巻等には、一念三千の名目を明らかにしているか。
答え。明らかにしていない。 
問う。その証拠はあるか。 
答え。妙楽がいうには「天台は止観を著すに至ってはじめて、正しく観念観法(以下「観法」)を明らかにした。そのときに一念三千をもって、その指南としている」と言っている。

そこは疑わしいではないか。こんな記載もある。
「玄義」第二巻には「また、一法界に九法界が具わるので、百法界で合計千如是となる」と。
「文句」第一巻には「一入法界に十法界が具わるので 一界がまた十界である。その十界がおのおの十如是を具えているので千如是となる」と。
「観音玄義」には「十法界が交互に具えて百法界となり、千種の性相(如是)は冥伏して心のなかにある。目の前にその性相のすべてが現われるのではないが、そっくりそのまま具えている」等とあり、これらの意味は一念三千ではないのか。
(そこを答えるまでもない。その記載がそのまま、明かしているのがあくまで千如是(百界千如)止まりであり、それより踏み込んだ前記の一念三千までは明かしていない証拠ではないか。) 

問う。では、次の「止観」の、最初の四巻までには、一念三千の名目を明らかにしているか。
答え。妙楽は明らかにしていないと言っている。
問う。その妙楽の説明は?
答え。「止観輔行伝弘決」第五巻では、「もし、止観の第五巻の正修止観章と比べるならば、それまでの一・二・三・四巻等は全くいまだ観心の修行を論じていない。これら4巻では二十五法という修行等を行い経て、いちいち具体的な修行に即して答えている。つまり、まさしく次の正修止観章のための方便であった。この故に前六章第四巻までは皆、それぞれの解答であって、観心の修行ではなかった」と。
また、「故に、『止観に至って正しく観法を明かす』部分で、一念三千をもって指南となしている。」
即ちこれが最終まで窮めた究極の説である。
故に、止観の序章の中で「自分の心の中(己心)で行っている法門を説く」といっているが、天台大師が観念観法で悟った自らの心の行ずる法門が「一念三千」そのものであるとは、まことにわけありの言葉である。
この部分を読んだ人々は、これを一念三千と異なるものだと、間違わないように願う」と。

そもそも、天台智者大師の弘法は30年におよぶが、初めの29年の間は「法華玄義」「法華文句」等を説き五時・八教・百界千如を明かした。
それは、それまでの500年余りにわたり中国の仏教界に生じた多くの誤りを指摘し、さらにインドの大論師でさえいまだかって述べたことのない甚深の奥義であった。
その後、章安大師は「インドの大論師さえなお天台と比較することができない。ましてその足元にも及ばない中国の仏教学者たちは論ずるまでもない。誇り高々と言うのではなく、まったく天台の説かれた法門の様相が優れ勝っているからである」と、天台大師を大いに賛嘆した。
だが、とても情けないことには、天台の跡継ぎたちが華厳宗や真言宗の元祖という盗人に一念三千という重宝をパクられ、かえって彼らと同じパクリ集団の門下となってしまった。
章安大師も、このことを予てから知っていて嘆いている。
「この一念三千の法義が、もし将来失墜するようなことがあれば、実に遺憾なことである」と。


問う。それでは、百界千如と一念三千とは、どう違うのか。
答え。百界千如は有情界(情のあるもの、衆生)に限るが、一念三千は有情と非情(情のないもの、草木や国土など)両方にわたっていえるのである。

 

へ~、これはチャンチャラおかしいではないか。
非情にまで十如是があって因果が具わるというのなら、例えば草木にも心が有って、有情と同じように、もし仏道を修行したら成仏するとでもいうのか。

答え。まったくその通りである。だが、このことは、難信難解(信じがたく理解しがたいこと)である。

天台の難信難解に二つある。
一つ目は教門(文記された教えの表面の意味)の難信難解、

二つ目は観門(観心=ここでは、心で行ずる場合の深い意味)の難信難解である。

その教門の難信難解とはこういうことだ。
仏法の教主である釈尊が最初に説いた爾前経(法華経以前に説かれた法、以下「爾前」)では、二乗(声聞と縁覚)と一闡提(極悪非道で、仏法を誹謗するなどの者)は未来永久に成仏しないと説かれている。
そして、ご自身はこの世で始めて悟り(成仏)を開いたと説いた。(この事実を「始成正覚」という。以下の議論で何度も出てくる)
こう言っておきながら、そのあと説いた法華経の中でこれを覆し、迹門(前半部分)では二乗も成仏する、また本門(後半部分)では一闡提も成仏すると説く。
更には、始成正覚の姿を覆して、実は久遠実成(久遠の昔からすでに成仏していた仏であったこと、「久成」ともいう、以下の議論で何度も出てくる)を説き顕わしている。
このように爾前と法華経では言ってることがまったく矛盾するので、仏が二枚舌となり、水と火の関係になって、誰も簡単には信じられない。これが教門の難信難解である。

つづいて、観門の難信難解とは、説いている法則が今言っている「百界千如」止まりでなく、究極の「一念三千」であり、
とどのつまりは、非情界にも色心(色とは物質およびその法則、心とは精神およびその法則)の二法とそれぞれの十如是を具していると説く点である。
(つまりはご指摘のように、草木にも心が有って、有情と同じように、もし仏道を修行したらちゃんと成仏するということである。ここでいう心と、情とは異なる)
しかしこの点が難信難解であるからと言っても、非情の木像や画像を、外道(仏教以外の宗教)でも仏教の各派でも、これを崇めて本尊としているではないか。
(一般人も同様、あなたもきっと、この中のどれかを信じているであろう)
その意義は天台一家に由来するというべきである。なぜなら非情の草木にも色心の因果を前提としなければ、木画の像を本尊にとして崇め祈願することがまったく無意味になるからである。


ますます言ってることが疑わしい。

草木や国土にも十如是の因果があるという法則はいずれの文献に出ているのか。
答え。摩訶止観の第五巻に「非情の国土にも十如是がある故に、悪国土には悪国土の十如是、つまり相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等があり、同じく善国土にも二乗の国土にも菩薩の国土にも、そして仏国土にも、それぞれの十如是を具している」とある。
法華玄義釈籤の第六巻には「相(見える様子、ありさま)とは、外面に顕われたもので、物質のありさまで、色法だけにある。
性(性状)とは、内在する性質であり、心法だけにある。
体((本体)とは、物の本体で色心をかねている。)
力((外力へ向かう内なるエネルギー作用)とは、外部や環境に反応するための、内在するエネルギー力である。)
作((外部へ及ぼす作用)とは、外部への具体的な活動である。)
因((生命自体に内在する原因)とは、それ自体が、あらゆる現実に結果を及ぼすことになる、直接的な心的原因となっていることである。)
縁((外部からのきっかけとなる作用)とは、現実に結果として善悪の事態を生ずるもので、間接的である外的原因である。)
これらの体・力・作・縁は、すべて、色・心の両方にあって、
因と果はそれぞれ心法だけ、報は色法だけにある」と説いている。

また金錍論には「一本の草、一本の木、一つの礫、一つの塵等には皆悉く一個の仏性(正因仏性)、そのそれぞれに一つの因果が具わっており縁因仏性・了因仏性を具足(備わっていて満た)している。(すなわち実在する物はことごとく元々からあるところの(本有常住の)三因仏性を具足していて、非情の草木であっても有情と同じく色心・因果を具足していて、修行をすれば成仏するのである)」とある。


 

問う。一念三千の法門の出処の説明が、摩訶止観の第五巻に説かれているということを、今聞いたが、それでは「観心」とは一体どういうことなのか。


答え。観心とは、自分の心(自分自身の生命、己心)を観察して、自身の生命に具足している十法界を見ることである。
たとえば他人の眼・耳・鼻等の六根を見ることはできるが、自分自身の六根は自分で見ることができないから、自身に六根があることを知ることができない。
明らかな鏡に向かって始めて自分の六根を見ることができる。
同様に、たとえ爾前の諸経の中に所々に六道や四聖を説いているといっても、法華経や天台大師の述べられた摩訶止観等という「明鏡」に向かわなければ、自己の生命に具わっている十界・百界千如・一念三千を知ることができないのである。

<我が己心を観じてとは御本尊を信じて、十法界を見るとは御本尊に向かって南無妙法蓮華経と唱えること。すなわち、「観心」とは大聖人が顕された南無妙法蓮華経の御本尊(末法の明鏡)を「受持」することである。受持がそのまま観心となる。これを、受持即観心という。>


問う。法華経ではどの文で十界互具・一念三千が説かれているのか。そこを天台はどのように説明しているか。
答え。法華経第一巻方便品に「諸々の仏は、衆生に仏の知見(悟り)を開かせてあげようとして、この世に出現する」と説いている。
この文が示しているのは、九界の衆生が具えている仏界である。
寿量品に「このように私が成仏して以来、はなはだ大いに久遠である。その寿命は無量阿僧祇劫であり常住で不滅である。諸の善き男子よ、私が元々菩薩の道を行じて成就した(仏の)寿命は、今もなお続いていて、これからも五百塵点劫の2倍あるのである」と説かれている。
この文が示しているのは、仏界が具えている九界である。
提婆達多品に「提婆達多は(中略)天王如来(如来とは、仏の敬称)となる」とある。
ここは、地獄界の具えている仏界である。<謗法の罪により地獄へ堕ちた提婆達多ですら仏界がある、悪人成仏を示している>
地獄界の生命が仏界を具えているから、それ以下の八界を具えていることはいうまでもない。
陀羅尼品に「十羅刹女のひとりは藍婆という(中略)、十羅刹女たちが妙法蓮華経を護持する行者を擁護すると誓ったその福の果報は無量である」と説かれている。
これは餓鬼界に具わっている十界である。
(餓鬼界の羅刹が無量の福報である仏果を得るのは餓鬼界が仏界を具えているからである。それ以下の八界を具えていることも明らかである。)
提婆達多品には「竜女が等正覚(仏の悟り)を成じた」とある。これは畜生界に具わる十界である。
(女である竜女は畜生であるから、その女が成仏するのは畜生界に仏界、及び同様に十界を具えているという文である。)<女人成仏を示すところでもある>
法師品には「婆稚阿修羅王がこの経(法華経)の一偈一句を聞いて随喜の心を起こしたので阿耨多羅三藐三菩提(仏の悟り)を得た」とある。同様にこれは修羅界に十界を具する文である。
方便品に「過去に仏を供養(中略)した人は、みんなすでに成仏した」とあり、これは人界に具わる十界である。
譬喩品に「大梵天王等の諸天子が言うには(中略)、我らもまた舎利弗のように必ず作仏するであろう」とある。これは天界に具わる十界である。
譬喩品に「舎利弗は(中略)華光如来となるであろう」とあり、これは(舎利弗の境涯である)声聞界に具わる十界である。
方便品に「縁覚を求める比丘・比丘尼が合掌し敬順の心を以て具足の道を聞かんと欲した」とある。具足の道とは法華経であるので、すなわちこれは、縁覚界に具わる十界である。
神力品に「千世界の微塵数の無数の地涌の菩薩は(中略)この真浄の大法を得ようと欲した」とあり、真浄の大法とは妙法蓮華経である。すなわちこれは、菩薩界に具わる十界である。
寿量品に「(仏が)或いは自身を説き或いは他身を説き、或いは自分の心を示し或いは他の心を示し、或いは自分の事を示し或いは他の事を示す」等と説いている。(仏自身が衆生を教化するのに、十界の様々な姿を現わしているのである。)
これは仏界に具わる十界である。


問う。自分の六根や他人の六根は見ることはできるけれども、十界は、自分の生命にも他人の生命にも見たことがないので、どうして信じられようか。<爾前経で説かれた十界にとらわれている。人だから人界しか見たことがないなどと、後にも言っている>
答え。そもそも、法華経法師品には「信じ難く解し難し」と説かれ、宝塔品には「六難九易」を挙げて法華経の難信難解を説かれている。
天台大師は法華文句に「迹門は二乗の作仏、本門は久遠実成を説き、昔に説いた権経とはことごとく相い反するので、難信難解である」と説明している。
章安大師は「仏が、これをもって大事となしているものを、凡夫の我々がどうして分かりやすいわけがあろうか」と言っている。
伝教大師は「この法華経は最も難信難解である。なぜなら衆生の意に随って説いた随他意の爾前経と異なって、仏が悟りの真実そのままを説いた随自意の教えであるから」等といっている。
以上に明らかなように、法華経は難信難解である。
そもそも釈尊在世の衆生は過去世に下種を受けて宿習が厚かった。
信じやすい状況であったその上に、釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏を始めとして地涌千界の大菩薩・文殊・弥勒等の諸菩薩が釈迦仏の説法を助けて、正法を諌暁したのに、それでもなお信じない者がいた。
すなわち方便品の広開三顕一の時には五千人の増上慢が席を去り、宝塔品の時には多くの人界・天界の衆生が他の国土へ移された。
釈尊在世の正機の衆生ですらこんなありさまであったから、いわんや釈尊滅後の正法時代(~1000年)・像法時代(1000~2000年)となれば、いよいよ難信難解となり、さらに末法となれば、ますます信じ難いのが当然である。
だからこの法華経が、末法の、劣った機根のあなたにも、簡単に信じられる教えだとすれば、かえってそれは正しい法ではないのである。



問う。法華経の文にも、また天台・章安等の説明にも、十界互具が明かされていることは疑う余地がないことは分かった。
ただし火を指し示してこれは水だといい、黒い墨を指し示して白だというのと同様、私たちの常識とはまったく反対なので、たとえ仏説であるからといっても信じられない。
今じっくり他人の顔面を見てもただ人界であって他の九界は見られない。自分の顔面を鏡で見ても、人界ばかりしか見えない。これでどうして十界をそなえていると信じられるであろうか。

答え。しばしば他人の顔を見るに、ある時は喜び、ある時は瞋(いか)り、ある時は穏やかに、ある時は何かを貪る表情、ある時は癡(おろか)な様子、ある時は諂曲の(へつらい従う)表情となる。
瞋るは地獄、貪るは餓鬼、癡は畜生・、諂曲なるは修羅、喜ぶは天、穏やかなのは人界である。
このように他人の表情(相)には六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)がすべて具わっているのであり、四聖(声聞・縁覚・菩薩・仏)は冥伏していて日常に現われないが、詳しく探し求めるならばかならず具わっている。



問う。私たちの生命に六道があるということははっきり分からないにしても、今のあなたの説明を聞けば、私たちに具わっているようだ。しかし四聖はぜんぜん見られないが、どうしたことか。

答え。あなたは、先ほどは人界の六道までを疑っていたので、私が強いてひとつひとつ似たような例をあげて説明した。
四聖もまたこれと同じである。ためしに万分の一でも説明することにしよう。
さて、世間は無常の世界であることが、あなたの眼の前にも見えているだろう。人として、この無常を常に見て取れるということは、人界に二乗界(声聞と縁覚)のある証拠ではないか。
まったく他を顧りみることのない悪人であっても、なお自分の妻子に対しては慈愛の念を持っている。これは、人界に具えている菩薩界の一部分である。
ただ、しかしながら、仏界だけは日常生活に現れがたいのである。
しかしすでに九界を具していることが分かった以上は、しいて仏界のあることを信じて疑ってはならない。
法華経方便品に人界を説いている部分のなかで、「諸々の仏や仏世尊は衆生(人間)に仏の知見を開かせてあげようとして、この世に出現なさるのである」とある。
この経文は人間に仏界を具している証拠である。(具えていなければ、開くことができないだろう)
涅槃経には「大乗を学ぶ者の目は肉眼であるが、これを仏眼と名付けていうのである」とある。
このように人界に仏の知見(悟り、仏の境涯)があることをはっきり示されている。
末法の凡夫が人間として生まれてきて法華経を信じている。
これは、自分の人界にも元々仏界を具足しているからこそ、その仏界を信ずることができるのである。



問う。以上の文証で、十界互具を仏が説いた経文を明らかにしていただいた。
しかしながら現実には、私たち凡夫の劣等な心に尊極無上の仏界を具しているということはとうてい信ずることはできない。
今もしこれを信じないならば一闡提の者となるであろう。
どうか大いなる慈悲の心で、私がこれを信じられるようにして、阿鼻地獄へ堕ちて苦悩するのを救っていただきたい。

答え。あなたは既に方便品の一大事因縁を説かれた文に衆生に仏の知見があると説かれているのを見聞きしておきながら、しかもこれを信じないというならば、釈尊の言葉を信じないのだから、釈尊を始め、四依の菩薩や、ましてや末代理即の凡夫たる私たちが、あなたの不信を救うことができようか。
しかしながら、ためしにもう少し人界に具わる仏界を説明してみよう。
なぜなら釈迦仏の教化を受けておりながら悟らなかった者が、かえって弟子の阿難等によって悟りに至ったこともあるのだから、あなたに信じさせることが不可能とまではいえまい。

そもそも、衆生には二種の機根があって、一には仏に直接会って、法華経によって得道した者、二には仏には会わないけれども法華経によって得道する者である。
その上、仏教以前の時代にあっては中国の道士やインドの外道たちが儒教や四韋陀(ヴェーダ)というそれぞれの教えであっても、それが縁となって法華経の正見に入った者があった。
また仏が爾前経を説いている期間には、優れた機根の菩薩や凡夫は、華厳・方等・般若等の大乗経を聞いた縁がきっかけで、過去三千塵点劫のその昔の大通智勝仏によって法華経の下種を受けたことを悟った者が多くいた。
たとえば独覚(縁覚)の人が、飛び散る花びらや落ちる葉を見て無常を悟るというようなものである。これを教外の得道というのである。
逆に、過去世に法華経の下種結縁もなく権教や小乗経に執着している者は、たとえ法華経にめぐりあうことができても、小乗の見方を脱けきれず、自分の見解をもって正義とするがゆえに、かえって法華経を、あるいは小乗教と同じだといい、あるいは華厳経や大日経と同じだといい、あるいはこれらの経に劣るなどといっている。
このように主張する仏教学者は、儒家や外道の賢聖よりも劣る者である。

これらの論議はしばらくおいて、十界互具について説明しよう。
十界互具を言うことは、石の中で火が起こり、木の中から花が咲くというようなことである。それらは信じ難いけれども、なにかの縁にあって事実となって現れれば、人々はこれを信ずるのである。
人界に仏界を具していることは、水の中の火・火の中の水のようにもっとも信じ難いけれども、竜火から水が出で、竜水は火から生ずるといわれている。(竜は雲の象徴。火は熱や化学反応エネルギーをあらわす。)
はなはだ納得できないことではあるが、現実に証拠があれば人々はこれを信じないわけにはいかない。
既にあなたは経文に説かれているとおりに、人界に具わる他の八界をそのまま信じたくせに、どうして残りの仏界だけを信じないのか。

中国古代の尭王や舜王は万民に対して偏頗な心がなく平等に善政を行った。このことは人界に具わる仏界の一部分である。
不軽菩薩は見る人をすべて「あなたに仏性がある」といって礼拝した。
またインドの悉達太子(ゴータマ=シッダルタ)は人界に生まれながら仏身を成就して釈迦牟尼仏となった。
こんなに現実の証拠があるから、人界に具わる仏界を信ずるべきである。


 

 

さて、これから説明する部分は、御本尊の妙用によって受持即観心の意義を明らかにしている。。
これこそが文底秘沈の肝心かなめであるから、これを強固に心の底に秘し沈めて伝え続けなさい。


問う。教主釈尊は見思惑・塵沙惑・無明惑の三惑をすでに断じ尽くした仏である。
また、十方世界の国王であって、一切の菩薩・二乗・人天等の一切衆生の主君である。
そして釈尊がどこかへ行く時は、大梵天王が左に、帝釈天が右に随伴して、四部衆・八部衆がその後に従い、金剛神は前にいて導びく。
こうして八万法蔵といわれる一切経を演説して、一切衆生を得脱させたのである。
このような尊厳な仏を、何を根拠に私たち凡夫の心の中に居住させているというのか。

また法華経の迹門・爾前経等の意をもってこれを論ずるならば、教主釈尊は始成正覚(因行として十九歳で出家し、三十歳で成道)の仏である。
過去世にどのような因行があるかと尋ねれば、ある時は能施太子と生まれて布施を行じ、儒童菩薩と生まれては、髪を布いて燃燈仏に供養し、尸毘王と生まれては、鳩に代わって自分の肉を鷹に与え、薩埵王子と生まれては、飢えた虎にわが身を施された。
このような菩薩行を、蔵教では三大阿僧祇・百大劫の間、通教では動喩塵劫、別教では無量阿僧祇劫の間、円教では初発心の時より四十二位の菩薩行を行じてきたと説いている。
四教を説いて後も、法華経迹門化城喩品では、三千塵点劫の長時にわたり、七万五千・七万六千・七万七千等の諸仏を供養し、劫を積み、修行を満足してインドに出現し悟りを開いて、今の教主釈尊と成られたのである。
このような因位におけるもろもろの修行が、皆私たちの身に具わった菩薩界の功徳であるというのか。{※原文が「己心」ではなく、「己身」であることに注意}

また爾前迹門における仏果の位からこれを論じれば、教主釈尊は始成正覚(三十歳で成道)の仏である。
成道して四十余年の間、華厳・阿含・方等・般若を次々と説き、蔵・通・別・円の四教を説くごとにそれぞれ四種の仏身を現し、爾前経・法華経迹門・涅槃経等を演説して、一切衆生を利益しなさったのである。{※原文が「色心」ではなく、「色身」であることに注意}
いわゆる華蔵経を説いた時は、十方に化作した諸仏の中央蓮華台上に、盧舎那仏として現われた。
阿含経の時には、三十四の智慧心をもって見思惑を断じ尽くして成道した姿を示した。
方等の時には、来集した中において説法し、般若の時には千仏とともに現じて説法した。
大日経・金剛頂経の時には、胎蔵界の七百余尊・金剛界の五百余尊として現われた。
法華経では迹門、宝塔品の時、同居・方便・実報・寂光の四土の仏身を現わした。{※ここでも原文が「色心」ではなく、「色身」であることに注意}
涅槃経の時には、あるいは一丈六尺の仏と現れたり、あるいは小身・大身と現われ、あるいは盧舎那報身と現れたり、あるいはその身が虚空と同じ法身仏と現れた。
すなわちこのように四種の身を示されたのである。
更に、御年八十歳でご入滅後までも、舎利(仏の身骨)を留めて、正法・像法・末法の三時にわたって一切衆生を利益しなさったのである。

また法華経本門の意義からこれを疑うならば、教主釈尊は久遠五百塵点劫以前に成仏した仏、因位もまた同様の長遠である。
それより以来、十方世界に分身の諸仏を派遣し、一代聖教を演説して、微塵のような無数の衆生を教化してきた。
本門における教化した衆生を、迹門のそれに比べるならば、水一滴と大海、塵一粒と大山くらいの相違がある。
本門の偉大な一菩薩を、迹門の十方世界から集まった文殊・観音等の菩薩と比べた差は、猿と帝釈天との違いでもなお及ばないほど莫大である。
(この無量の大菩薩を教化した釈迦仏がわれらの己心にいるとは、なおいっそう信じられないことである。)
そのほか、十方世界にいて、惑を断じ果を証した二乗や、梵天・帝釈・日月・四天・四輪王等の天界や、また無間大城の大火炎等々、これらはみな私の一念の十界であるのか。自身の三千世間であるというのか。
たとえ仏説であるからといっても、とうていこれを信ずることはできない。



つまり、十界互具・一念三千はとても信じられないことから考えてみると、法華経よりはむしろ、爾前の諸経こそ事実であり、仏の真実の言葉である。
華厳経には「究極の悟りは煩悩という虚妄を離れ、虚空のようにけがれがなく清らかである」とある。
仁王経には「涅槃にいたれば無明の本源や本性を窮めつくし、仏の妙智だけが存在している」とある。
金剛般若経には「悟りにいたれば清浄の善のみがあり」とある。
仏滅後でも、馬鳴菩薩の大乗起信論には「如来蔵の中には清浄の功徳のみがある」とある。
天親菩薩の唯識論には「金剛のような堅固な禅定が現れる時は極めて円満明了で純浄の根本の識が起こるので、菩薩としてなお残ってる煩悩と劣れる智慧という種は、よりどころとはならず、永久に破棄されるのである」とある。(これらの経論には、仏の生命にはただ清浄のみがあって、十界互具はない。)

また、爾前の経々と法華経と比較してみるに、法華経はひとつであるが爾前経は無数にある。
また説く期間も爾前経は四十年余りと長く、法華経はたった八年である。
ゆえに一仏に相反する教え、爾前と法華経に相違があれば、爾前につくべきである。

馬鳴菩薩は付法蔵の第十一で仏の予言に記されている。
天親菩薩は、千部の論師で四依の大菩薩である。(どうして馬鳴・天親の説に誤りがあろうか。)
それに比べて天台大師は仏教発祥のインドからはるかに離れた辺地の中国に生まれた小僧であって、一論をも述べていない。誰が天台を信ずるだろうか。

その上、多くの爾前経を捨てて、少ない法華経につくとしても、法華経の文が明らかであれば少しはよりどころとなるであろうが、その中のどこに十界互具・百界千如・一念三千を説いた明らかな証文があるのか。そのような文はないのである。
法華経を開いてよく見るとむしろ、方便品に「如来は諸法の中の悪を断じている」と説いている。(仏には諸法の中(九界)の悪が具わらないということで、十界互具がないことが明白ではないか。)
ゆえに天親菩薩の法華論にも、堅慧菩薩の宝性論にも、十界互具は説かれていない。
さらに中国でも、天台以前の南三北七の諸の人師も、日本における七宗の末師の中にも、十界互具を述べたものはない。
要するに、これらはただ天台一人の間違った見解であり、それを伝教一人が誤り伝えたものである。
ゆえに清涼国師(中国華厳宗の澄観)は「華厳経を下して法華経をとるのは天台の誤りである」と述べ、
慧苑法師は「大乗経にも経・律・論があり、三蔵は小乗教だけに限らないが、天台の説明は小乗経を三蔵教としていて、混乱させている」と述べ、
了洪は「天台はいまだ華厳の深意を解しておらない」といい、
日本の得一(法相宗)は「なんと拙いことだろう、智公(天台大師の敬称)よ、あなたはいったい誰の弟子か。三寸にも足りない舌を使って、顔面を覆う舌を持つ仏が説法した教時を謗り、自己流の五時八教などを唱えている」といい、
日本の弘法大師(空海)は「天台をはじめ中国の人師たちはみな争って六波羅蜜経に説く醍醐をパクって、おのおの自宗を醍醐の宗と名付けている。(天台が法華を醍醐味というのも、実はこうしてパクったものに過ぎない)」といっている。
このように、一念三千の法門は、釈尊一代の権教にも実教にもその名称はなく、正法時代の四依の諸論師も、そのような教えを文献に載せていない。中国・日本の人師もだれ一人としてこれを用いていない。
どうしてこれを信ずることができようか。


 

 

答え。この論難は最も厳しい、最も厳しい。
ただし、爾前の諸経と法華経との相違は、経文をみれば明らかである。
釈尊自身が、爾前は未顕真実(いまだ真実を顕していない)であるが、法華経は正直捨方便・但説無上道(正直に方便を捨てて、ただ無上の道を説く)が説かれた已顕真実である。
法華には、真実を裏付ける多宝如来・十方分身諸仏の証明と梵天にまでとどく舌相の証明があるが、爾前の諸経にはこのような証明どころか、わずかに広長舌相があるだけである。
説かれた内容においても、爾前では二乗が永久に成仏できないが、法華では皆、成仏する。
爾前の諸経は釈尊がこの世で修行し成道したと説く始成正覚であるが、法華は久遠実成を説き顕わしている。
このように、法華経が真実であることを裏付ける、明確な違いがある。

さて、諸論師が難くせしている点について説明しよう。
天台大師は摩訶止観で「天親や竜樹は一念三千の法門を心の中でははっきり知っていた。しかし外には、その時代(正法時代)に適した教えを立てながら、それに応えていったのである。しかしその後の人師は偏って解釈し、仏教学者もいいかげんに信じて執着し、ついには衆生救済を忘れて互いに矢を放ち石を投げ、各宗各派も偏った一部にとらわれて、聖い悟りの道に全く背を向けてしまった」と言っている。
章安大師は「仏教の発祥地たるインドの大論師さえ、なお天台と比べものにならない。まして中国の仏教学者ごときはわずらわしく論ずるまでもない。これは誇りたかぶっていうのではなく、まったく天台の説かれた法門が優れているからである」と言いきっている。
天親・竜樹・馬鳴・堅慧等の諸菩薩は内心で一念三千を知っていたが、いまだ正法時代で法華経流布の時でなかったのでこれらを述べなかったのであろうか。
その他、像法時代の人師たちについては、天台以前の人々はあるいは一念三千を内心に含みながら表には述べなかったか、あるいは全くこれを知らなかった。
天台以後の人師たちはあるいは初めに一念三千の法門を破っておきながら後に帰伏する者もあり、あるいは一向にこれを用いない者もあった。

ただし、方便品の「如来は諸法の中の悪を断じている」の文は、はっきり言っておかなければならない。
ここは、爾前経を説明している文である。だからここだけを切って見ると、十界互具がないようにみえる。
しかし法華経の全体を開いてよく見るならば、十界互具を説いているのが明らかに分かる。
方便品にある「衆生に(自分自身の)仏の知見を、開かせてあげたいと思って(この世に出現した)」は、衆生に仏の知見が元々から具わっていることが明らかに前提となっている文である。
ゆえに天台はこの経文について「もし衆生に仏の知見が無いならば、どうしてそれを「開かせてあげたい」と思うのか、まさに仏の知見が衆生の生命の奥底に元々具わっていると認識すべきである」と説明している。
章安大師はさらにこれについて「衆生にもし仏の知見が無いならば、どうして仏知見を開き悟ることができようか。もし貧乏の女に自分の胸中の蔵がないなら、そもそもそれを開いたり示したりすることができないではないか」と言っている。
(経文と論師・人師が十界互具・一念三千を明かしていることは、以上のように明らかである。)


しかし、それ以上に説明し難い点は、さきほどの権教・迹門・本門の教主釈尊が私たち自身の心の中に住んていることは考えられない、
また地獄界から菩薩界に至る九界がことごとく私たち自身の心に具わっているとは信じられないという難問である。
 
仏は、この論難の難しさをあらかじめ次のようにことわって言っている。
それは法師品で説かれている「すでに説き、いま説き、まさにこれから以後、説く教えの中では、この法華経が最も難信難解である」である。
加えて、次の宝塔品には、六難九易のたとえを使って、諸経は易信易解・法華経は難信難解と示しているのがこれなのである。
天台大師も「文句」にて「法華経の迹門で二乗作仏・十界互具を説き、本門で久遠実成を説くが、その二門どちらもことごとく、昔から言い続けてきた爾前経と相反するから信じ難く解し難く、戦場で先陣を切って敵に当たるのと同じ難事である」と説明している。
章安大師は「仏はこの法華経をもって出世の本懐とする大事としているのであるから、どうしてこれが分かりやすいわけがあろうか」と説明している。
日本の伝教大師は「この法華経はもっとも難信難解である。なぜなら仏の悟りの真実をそのまま説いた随自意(自らの心のまま)の教えであるからだ」と言っている。
(すなわち十界互具こそ仏の本懐であり随自意であるから、難信難解であるのは当たり前である。)

そもそも、釈尊滅後一千八百年余りの長い期間に、インド・中国・日本の三国で、たった三人が初めてこの正法を覚知した。
それはインドの釈尊と中国の天台智者大師・日本の伝教大師である。この三人は実に仏教における聖人なのである。

問う。それでは竜樹・天親などはどうであるのか。
答え。これらの聖人は心の中では知ってたが、表に口を出して言わなかった人たちである。あるいは迹門の一部分の教えを述べるにとどめ、本門と観心については説き示すことがなかった。
この時代の衆生には一念三千を信じられる機根はあっても説くべき時代ではなかったのか、あるいは機根も時もなかったのであろう。
天台・伝教以後は一念三千を知った者がたくさんいた。みな天台・伝教の智慧を用いたからである。
いわゆる三論の嘉祥・南三北七の百余人の僧・華厳宗の法蔵・清涼等・法相宗の玄奘三蔵・慈恩大師等・真言宗の善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵等・律宗の道宣等の人々は、それぞれの宗派では開祖や大学者と尊ばれていて、初めは天台に反逆していたが、のちしだいに天台の法門に屈し、帰伏するようになった。



次に、あなたの最初の大非難をさえぎって説明しよう。
無量義経には「たとえば国王と夫人との間にひとりの王子が生まれたとする。この王子がもしくは一日・二日もしくは七日と日が立ち、もしくは一月・二月・七月にいたり、もしくは一歳・二歳もしくは七歳にいたり、いまだ国の政治をとることができないにしても、すでに臣民に尊敬され、もろもろの大王の王子たちを友達にするようになるであろう。王および夫人がこの子を愛する心はひとえに重く、常にこの王子とともに語り合うであろう。
なぜかというと、この王子が稚少だから。
すなわち稚少の王子がこのように尊敬され将来を期待されるのも、国王の威徳が強盛であるがゆえである。
善き男子よ、この経を信じ持つ者もまたこの通りである。
諸仏という国王とこの経という夫人とが和合して、この菩薩の子が生まれた。この菩薩はこの経を聞くことができて、もしくは一句・一偈、もしく一転・二転・十転・百転・千転・万転・億万恒河沙・無量無数回、まわして読むならば、末だ真理の究極を体得することはできないにしても、すでに一切の四部衆・八部衆に崇び仰がれ諸の大菩薩を眷属とし、(中略)常に諸仏に護られ、ひとえに慈愛をもって覆われるであろう。なぜなら仏法という最高の教えを、新たに学び始めた者だからである。」と。
普賢経には「この大乗経典は諸々の仏の宝蔵であり十方三世(時空を越えた全て)の諸仏の眼目である。この大乗経典こそ三世の諸々の仏を出生する種である。(中略)あなたははただひたすらこの大乗経典を受持し信行を励んで仏種を断じてはならない」と。
また、「この方等経(方正平等な大乗の教えである法華経)は諸仏の眼である。諸仏はこの方等経を受持し信行した因によって肉眼の上に天眼・慧眼・法眼・仏眼の五眼を具えることができて、諸仏の智慧が完成したのである。また仏の法報応の三身は妙法蓮華経より生ずるのであり、この妙法蓮華経こそ、偉大なる法の証であり海のように広大な涅槃の境涯の証となるものである。
このような海の中に法報応という三種の仏の清浄な身を生じる。この三種の身は人界・天界の衆生に利益を生む福田である」と。
<この普賢経の二文は、大乗経典すなわち妙法蓮華経が、一切諸仏の功徳の根本であることを示している。また、仏身を生ませる「仏種」としての妙法の力を示している点で、重要である。>



さてここで、釈迦如来一代五十年の説法の中で、顕教と密教、大乗教と小乗教、華厳宗・真言宗等の諸宗のよりどころの経文を、ひとつひとつ、よく考え検討してみる。
華厳経では十方蓮華台上の毘盧遮那仏、大集教では雲のように多く集った諸仏如来、般若経には示現した染浄の千仏、大日金剛頂等の経に説かれた千二百余尊等々あるが、これらの爾前経では、ただ短い期間の「近因・近果」を演説しているのであって、いまだ久遠の「本因・本果」を説き顕わしていない。
それらでは速やかな成仏という言葉は説いているが、三千塵点劫・五百塵点劫の久遠での下種を顕さず、それからずっと教化してきたこと、化導の始終を全く述べられていない。
華厳経・大日経等は、表面上では別教円教、四蔵などに似ていて、成仏できる教えのようであっても、もう一度深く考えてみれば、始めの蔵教・通教の二教と同じでここで止まっているのであって、三界六道までを対象とした劣等の教えであり、いまだその上を説く別教・円教にはおよばないのである。
つまりは一切の衆生にことごとく具足している本来の三因仏性(生、了、縁)が説かれていないのだから、何を根拠に成仏の種子とするのだろうか。
それにもかかわらず、玄奘、善無畏などの「新訳の訳者たち」は中国へ持ってきた仏教典を翻訳する時に、天台の一念三千の法門を見聞していて、あるいは自分の持ってきた経文に付け加え、あるいはインドの経文の原本に一念三千の法門があるのを持ってきたなどと主張した。
天台の学者等は、このように天台の一念三千をパクられていながら、あるいは自宗と同じことを言っていると喜び、あるいは遠くのインドの人師を尊んで近くの中国に出現した天台をあなどり、あるいは旧式の天台の法門を捨てて新式の教義を取りいれたり、というように、魔心・愚心が出てきた。
しかしながら結局のところ、これらは一念三千の仏種でもないので、有情の成仏も木像・画像の本尊も、何の役にも立たない有名無実である。



問う。ところで先程、人界に具わる十界について、とても信じられないと論難したが、まだ分かりやすい筋の通った説明を聞いていない。どうなっているのか。
答え。無量義経には「いまだ六波羅蜜を修行していなくても、この経を信じ受持する功徳によって、六波羅蜜は自然に具わってくる」と。
法華経方便品には「一切の功徳が具わる道を、どうか聞かせていただきたい」と。
涅槃経には「薩とは具足のことをいう」と。
竜樹菩薩が大智度論で言うには「薩とは六である」と。
唐の慧均が無依無得大乗四論玄義記で言うには「沙とは「六」と訳する。インドでは「六」を、具わることとするのである」と。
吉蔵の法華経疏には「沙とは翻訳して具足とする」と。
天台大師の法華玄義では「薩とは梵語であり、中国語には妙と翻訳される」と。
(つまり、薩・沙・具足・妙といずれも異なることなく、一切の功徳が妙の一字に具わっている。)

私が会通を加えるならばかえって引用した文の意をけがすことを恐れるのであるが、その文意を以下に簡潔にいう。

一切の釈尊の因行と果徳の二法は、ことごとく妙法蓮華経の五字に具足している。
私たちは、この妙法蓮華経の五字を受持することによって、自然に釈尊の因果の功徳を譲り与えられるのである。<受持即観心のこと>


つまり、法華経信解品では、これを受持した須菩提、迦旃延、迦葉、目犍連という四大声聞が大いに歓喜して「この上ない宝の聚(あつまり)を、思いもかけずに自然に得た」と述べている。
<釈尊の因行果徳を集めた南無妙法蓮華経の御本尊(無上宝聚)を受持して自然に功徳が得られる(不求自得)ことを示す文であり、前文と同じく、受持即観心のこと>
これは、私たち己心(自身の心)の声聞界が妙法蓮華経を受持して、この上ない大功徳に歓喜している姿である。

方便品に至って仏が「私と衆生とが等しくなって異なることがないようにしたいと、私がその昔に誓願したことが、今はすでに成就した。一切衆生を皆、仏道に入らせたのだ」と説かれている。

妙覚の悟りを得た釈尊は私たちの血肉であり、その因果の功徳は私たちの骨髄ではないか。<血肉や骨髄、つまり凡夫の肉体のままで成仏する=即身成仏を強調している>

宝塔品には「この経法をよく護持する者は、私(釈尊)および多宝仏を供養する者であり(中略)また、集まってきた諸々の分身の化仏、すなわち諸の世界を荘厳し輝かしく飾る諸仏を、供養することになるのである」と。
このように、無作の報身である釈尊・無作の法身である多宝如来・無作の応身である十方の諸仏(すなわち法報応の無作三身如来)は、妙法五字を受持する私たちの仏界である。だからその跡を継ぐことは、その功徳を相続することなのである。
同じく宝塔品に「わずかの間でもこれを聞く者は即座に、阿耨多羅三藐三菩提を究め尽くして、凡身のままで名字妙覚の悟りに入る」というのはこれである。
寿量品には「ところが私が実際に成仏してより今まで無量無辺百千万億那由佗劫を経ているのである」とある。
私たち己心の仏界である釈尊は、五百塵点劫という久遠に元から初めて顕された三身で、更にはそもそも始めもなく終りもない、元々から永遠にいる仏である。
同じく寿量品には「私が菩薩の道を行じて成就した仏の寿命は今なお尽きることなく、これから先未来もまた、先述した五百塵点劫の二倍である」とある。
これすなわち、私たちの己心(自身の心)の菩薩等の九界である。
地涌千界の菩薩は、自身の心の釈尊の眷属である。
たとえば大公望は周の武王の臣下、周公旦は幼い成王の眷属、武内の大臣は神功皇后の第一の臣下であり、また仁徳王子の忠義の臣下であったようなものである。
上行・無辺行・浄行・安立行等、地涌の大菩薩たちは、皆ことごとく、私たち己心の菩薩である。
妙楽大師は「まさに知るべきである。正報である身も依報である国土も私たちの一念に具わった三千の諸法である。ゆえに成仏の時にはこの本来の妙法の理にかなって、一身と一念がともに法界に自由自在に遍く存在するのである」と説いている。
<以上、すべて、即身成仏の原理様相を示している>
 

字数限界のため、その2へ続きます。