rainmanになるちょっと前の話。26





インド北部中央に位置するバラナシ(ベナレス)という街は、アジア各国に点在する「街」と呼ばれる集合体の中でも、一際異彩を放つ存在感を持ち、独特なオーラに包まれた、一度訪れたら忘れられない印象的な街である。


首都ニューデリーやカルカッタなどの巨大都市に見られる喧騒的な顔も、バラナシでは垣間見ることが出来るのだが、街に流れるガンガー(ガンジス川)とその淵に作られたガートと呼ばれる沐浴場の存在によって、都市のイメージだけではない、どこか懐かしい人間そのものの故郷に戻ってきたような不思議な安心感がこの街にはある。


俺はインドをイメージするときはいつもバラナシの景色になる。最もインドらしいインドがバラナシにはあるような気がする。



2000年12月末、3ヶ月に渡り滞在していたネパール・ポカラを出た俺は、3年ぶりに、ここバラナシの街に足を踏み入れていた。


ホテルひまりで生活していたメンバーとも、到着した次の日に無事に再会を果たした。
一人また一人とポカラの町を出ていったメンバーだったが、それぞれがそれぞれのルートでここバラナシに辿りついていたのだ。


ポカラでライブをしたTHE JETLAG BAND!!!のメンバーでは、Nさん、C君、T、そしてOちゃんが滞在していた。また、バンドを支えてくれたBOSSやK君、Zさん達もいた。
その中に、俺と2匹のパンクスW君と8ちゃんが加わったわけだ。


ポカラライブを開いたときのあの興奮が、少し蘇ったような再会だった。俺らは共にライブをしたことによって、戦友同士のような強いつながりになっていた。



みんなは、大きく二つのホテルに別れて滞在していた。
3年前に俺とZさんが出会ったガート沿いの老舗ホテル「ビシュヌレストハウス」と、ガンガーと大通りの間に広がる迷路のような細い路地地帯の中にある比較的新しい「ウルバシゲストハウス」。
二つのホテルの距離は、迷路を迷わずに歩けば10分程度だった。


俺は最初ウルバシGHに泊っていたのだが、その後ビシュヌRHに移った。
やはりビシュヌRHは、庭からガンガーとガートが見下ろせるという最高のロケーションがついてくる。多少部屋は古いが、この景色には適わないのだ。


ビシュヌRHにはZさんも泊っていて、3年前の話などもよくした。
まさか3年後にこうしてまたZさんと、ここビシュヌRHで遊べるとは思っていなかった。しかも、今回は他にも仲間達がたくさんいる。
前回、孤独とインドに対する恐怖でいっぱいになっていた俺には考えられない状況だった。



俺は毎朝、Zさんと共にビシュヌRHの真下のガートに下りて、ガート沿いのチャイ屋でチャイを飲んで過ごすのが日課だった。
ガンガー沿いにはいくつものチャイ屋があるのだが、ビシュヌRHの真下にあるコーリーガートを仕切るチャイ屋がZさんのご贔屓だった。
そこは、子供たち兄弟が運営を任されていて、チャイの他にもお菓子やタバコなどが売っており、またガンガーの対岸や上流まで向かう手漕ぎボート等も貸し出していた。
子供たちと言っても、ガンガーガート沿いで生きている子供を日本の子供と同じように見てはいけない。彼らは物心ついたときから、外国人と接触し生き延びるために様々な知恵や外国語を身につけお金を稼いできている。
10歳になればもう立派な大人であり、20歳になっていればもうその一帯をまとめるボス的な存在になっているのだ。



Zさんは、このチャイ屋の子供たち兄弟とも仲がよった。
俺に、「一番上がジャグー、次男がパガル、三男がサンジェイだよ」なんて名前を教えてくれた。
長兄のジャグーは、この時20歳だと言っていたが、とても落ち着いた感じで25歳の俺よりもはるかに年上に見えた。弟やその周りの子供たちのジャグーへの接し方を見ても、かなりの権力を持っているようだった。Zさんは、ジャグーを指し「まぁ、あいつはこのへんを仕切るマフィアのボスみたいなもんやね」などと真顔で言った。


またZさんと一緒にチャイを飲んでいる時、よくインド人が勝負を挑んできた。もちろん俺にではなく、Zさんにだ。
実はZさんはプロボクシングのライセンスも持つ格闘家でもあるのだ。
ガート沿いの敷地には現地の人が体を動かすトレーニング場などもあったりするのだが、Zさんはそこで他のインド人達と「筋トレ」や「寸止めの組み手のようなもの」を一緒にやり、よく汗を流していた。
それを知っているインド人達が、「俺とも勝負しろ」とチャイ屋の前までやってくるのだ。
その勝負にいつもZさんは勝ってしまうので、負けたインド人が次の日自分より強い友達を連れてくる。おかげで毎朝、俺は目の前で日本人とインド人の奇妙な決闘を見ながらチャイをすすることになる。


そのうち、毎日決闘を見ている俺自身も、なぜか触発されて、Zさんにコーチになってもらい、毎朝トレーニング場で筋トレをするようになったりした(笑)。旅でなまっていた身体を動かして汗をいっぱいかくのは気持ちよかった。まぁ、あまり長続きしなかったが(笑)。



バラナシでは他にも、Tシャツ作りにも精をだした。
刺繍で模様を描くネパールとは違い、インドはシルクスクリーンで印刷するTシャツ作りが主流だった。
俺は「THE JETLAG BAND!!!Tシャツ」やWさん8ちゃんらと組んだパンクユニット「月の爆撃機Tシャツ」なんかを作って遊んだ。


安くてたくさん作れるので、近くにいた旅行者にもTシャツを分けたりしていた。
そんなことをしていると、自然に「インドではライブやらないの?」という話をされた。
この頃は、けっこうネパールでのライブが噂になっていたりして、初めて会った旅行者にも「あ!ポカラでライブやった人だよね?」と言われるようになっていたのである。
俺は、「さすがにインドではライブハウスはないだろうし、機材も揃わないし、無理っすねー」と答えていた。
タブラやシタールなどの演奏を聞かせる小部屋なんかはあっても、ライブハウスという文化はバラナシにはなかったのだ。




そうこうしているうちに、2000年の大晦日を迎える頃になった。


いよいよ20世紀も終わりである。


実はこの頃になると、俺の周りは少し異様な空気が流れていた。
俺に対して、あまり好意を持たない現地人などが現れてきたのである。
どうやら、俺らTHE JETLAG BAND!!!は少しこの街で目立ちすぎていたのかもしれない。
同じTシャツを着ている日本人が何人もいて、レストランにいけば店の屋上(VIPルーム)に案内され大騒ぎ。

そういう暮らしを見て、面白くないと思うインド人がいたとしても、気持ちはわかるような気がした。
俺自身、特に目立つつもりはなかったのだが、少し風変わりなイメージの濃い旅人が固まって遊んだりしていると、イヤでも目立ってしまうのである。



そんな雰囲気を抱える中、俺はガート沿いで数人の仲間達と21世紀を向かえた。
欧米や日本での「ミレニアム!」な年越しとは比べ物にならないほど、地味で静かな新世紀の幕開けであった。



無事に新年を迎えたはいいが、俺は新年早々体調を崩してしまった。


熱が出て、体がだるく、一日中部屋のベッドで過ごした。


新年も3日目を向かえた1月3日の朝、相変わらず風邪が治らずベッドで寝込んでいると、部屋のドアを叩く音が聞こえた。
誰だろう?とドアを開けると、そこにはZさんが立っていた。


「大ちゃん調子はどうだい?もしよかったら、ちょっとこれから出れないかな?ジャグーが呼んでいるんだ」
とZさんは言った。
「え?なんでジャグーが?」
俺は、風邪で弱気になっていたせいもあり「もしかしてマフィアのボス・ジャグーにまで嫌われちゃったかなぁ」なんて思ったりした。


「風邪だから」と、行くのを断ろうとも思ったのだが、Zさんも一緒だし、なるようになるかという気持ちで、Zさんと一緒に部屋を出た。


まだ熱があるせいか頭は朦朧としていた。


Zさんはガンガー沿いのガートを上流へ上流へとひたすら歩く。


洗濯場になっているガート、沐浴場となっているガート、死体焼き場となっているガート、いろんなガートを横切って進んだ。
ガートは様々な顔を見せるが、それら全てを受け入れるガンガーだけは進んでも進んでも同じ茶色の濁った川だった。



30分ほど歩いた頃、Zさんはある建物に入った。


後について入ると、中にはジャグーが居た。

ジャグーは俺を見ると手を出してきた。俺はその手を握り返し握手をした。
いったい俺にどんな話があるというのだろうか?


息を殺して黙っていると、突然Zさんが「大ちゃん、バラナシでライブできる場所探しとったやろ?ジャグーがなんとか出来るって言うんだよ。」と言った。


「え?!」
ジャグーの顔を見たら、俺を見てうなずいている。


「バラナシにそんな場所あるの?けっこう音もでかいし、人数も多いから小さい所じゃできないよ?」と俺は言った。
まだ半信半疑なのだ。



Zさんがその事をジャグーに伝えると、ジャグーは「大丈夫、誰にも迷惑かけず大きな音も出せるし、100人くらい集められる広さもある」と言う。


俺はびっくりした。


「いったい、そんな場所がバラナシのどこにあるんだい?」


ジャグーはまっすぐ俺の顔を見て静かに答えた。



「オン ザ ガンガー」



ガンジス川の上だと…。




続く。


※写真はシヴァリンガの前で読書をするZさん

AD

rainmanになるちょっと前の話。25





「12月24日にポカラを発つ」そう決めて、ラジューにバスのチケットを予約してもらった。


いざ、出発の日が決まってしまうと、残り数日のポカラでの日々が急に愛おしくなる。
俺はひまりの屋上で一人、これまでの旅を思い出したりしながら最後のポカラを過ごした。



日本を出て8ヶ月が経とうとしていた。
その間、様々なことがあり俺は旅人達とバンドを結成して、ここポカラで二度のライブを行った。
まさか自分の旅がこんな展開になろうとは思ってもいなかった。
そして、これからの旅もどうなっていくのか?インドでなにがおこるのか?俺にはまったく予想がつかなかった。


メールでの情報だと、先に旅立っていったひまりのメンバーは、それぞれのルートでバラナシに到着し、再び再会を果たしているようだった。ホテルひまりのように一箇所に固まってはいないものの、一緒に飯を食ったりしているらしい。
俺は、それぞれのメンバーにメールで「クリスマスにバラナシに到着予定」と送った。



この間のポカラでも何曲か唄を作った。
ライブは終わってしまったが、日記代わりに曲を書くという行為は終わらなかった。
「WELCOME!MY FRIEND!」なんかも、俺の部屋に遊びに来る友達を思って、この時期に作った。
「晴れるよ。」もホテルひまりをテーマにして作った曲だ。
後に、rainman名義で「ヒマリホテルの花」というアルバムを出すほど、この「ホテルひまり」での日々は俺の中でとても大きなものになっていた。
勿論この時は、自分がCDを出すような状況になるとは思っていなかったが…。


そうこうしているうちに、とうとう12月24日、ポカラを発つ日の朝が訪れた。


約束どおり、ラジューは前日の夜にサンタクロースの衣装を用意してくれていた。
俺はそれを着てからバックパックを背負った。赤白の帽子も勿論装着。
着心地はなかなか良い。
鏡を見たら、ヘンテコな「悪るそうなサンタさん」がそこに映っていた(笑)。


もうホテルひまりに残っているTHE JETLAG BAND!!!のメンバーはS君だけだった。
S君は「俺は新年明けてからインドに下りるよ。バラナシでまた会おう」と言った。
「じゃあバラナシで!」と俺は言い、S君と、この旅何度目かの別れの握手をする。


ラジューはバス停まで見送りに来てくれた。

いよいよバスに乗る時間やってくる。

「ラジュー、本当に世話になったね。ありがとう!」
「こちらこそありがとう。大ちゃん達が居て楽しかったよ。また来てね」
「もちろん、また来るよ」

ラジューと抱き合い固い握手をした後、俺はバスに乗り込んだ。


ラジューは、バスが見えなくなるまで手を振ってくれた。



こうして、長かったネパール、ホテルひまりでの生活は終わった。




約7時間後、まだ日が沈む前に、バスは国境の町「スノウリ」に着いた。


この町で一泊して、明日の朝インド国境を越えることになる。


俺はバスターミナルの近くの適当なホテルにチェックインした。
チェックインの際、ホテルの従業員は俺をジロジロ不思議な顔で見ている。
その理由はわかっていた。
俺が赤と白の変な服を着ているからである(笑)。


サンタクロースの格好でバスに揺られる間、反応してくれるのは欧米人旅行者だけだった。
欧米のバックパッカーは「オー!メリークリスマス!!」とか声をかけてくれるのだが、現地のネパール人はまったく無反応だった。というより、「こいつ何赤と白の変な格好してんだ?」という感じで見られる。
やはり、仏教&ヒンズーの国ネパールでは、キリストの誕生日など特に関心はないのだ。
考えてみれば当たり前である。仏教徒なのにクリスマスで盛り上がる日本がちょっと特殊なのだ。



どの国もそうなのだが、国境の町っていうのはなんとなく落ち着かない。
その中でも特にスノウリは人も車も多くて、喧騒の町という感じだった。
俺はまず、ここスノウリには長期滞在したいとは思わない。


それにスノウリは治安の面でもあまり良い噂は聞かなかった。



俺はスノウリに来たのは2度目だが、前回来たときは、インドとネパールの時差30分を利用した詐欺にあいそうになった。
国境を超えると30分時間がずれるのだが、慣れていない旅行者はその際、時計を進めるのか戻すのかわからなくなってしまう。
チケットを見せて予約したバスに乗ろうとすると、バスのスタッフに「このチケットのバスはもう出発したよ。時計の針を間違えて動かしたんだろ?もう○時だよ。もう一回チケットを買い直さないと乗れないよ」などと言われ、本当はそのバスであっているのに2重に料金を払わされたりする。
国境周辺のやつらは、こういうチンケな嘘で小銭を稼いでいるのだ。


今回も、チェックインしたホテルが最悪だった。
部屋に荷物を置いてから、ホテルの向かいにあるレストランに飯を食いに行ったんだけど、急用ができたので、注文した飯が出てくる前に一度部屋に戻ったんだ。そうしたら、閉めたはずの部屋のドアが開いていて、中を見たらホテル従業員が俺のバックパックをあさっていた。


アジアの安宿は、部屋のドアをロックする場合、南京錠を使うことが多い。
その際、「ホテルが用意してある南京錠は使わずに、自分の用意した南京錠で鍵を閉めること」という鉄則がある。ホテル側が用意した南京錠だと合鍵を持ってるので、ホテルのスタッフに出入りされてしまうのである。
俺は、3ヶ月のホテルひまりの生活で、すっかり平和ボケしていて、その鉄則を忘れていたのだ。
幸い、何か起きる前に見つけたからよかったものの、飯を食ってから部屋に戻っていたら何か盗まれていたかもしれない。



俺のバックパックをあさっていた従業員は、俺と目が合い「しまった!」という顔をした。
俺は、サンタクロースの格好で大暴れ(笑)。

この従業員が同じことを繰り返さないようにと、愛の鞭!「うりゃああああ!」


まったく、とんだクリスマスイブになってしまった。




そんなこともありながら、なんとか夜を超え(面倒だからホテルは変えなかった笑)、次の日を迎えた。



そして、朝早く国境を越え、遂にインド側の国境ゴーラクプルへ入国!
俺にとっては人生3回目のインド入国である。


しかし何度来ても、インドは楽観的になれない。
まず第一に汚い。国境を越えた瞬間からハエが多いのだ。
そしてインド人がみんな詐欺師に見える(笑)。
もちろん良いインド人も多いのだが、悪いインド人も「良いインド人の顔」で近づいてくるので、警戒してしまうのだ。




さぁ、インドだぞ。気を引き締めていかないと!と、俺は思った。



バラナシ行きのバスが出るバスターミナルまで歩いていくと、目の前に見覚えのある男達が立っていた。
「だいちゃーん」と手を振っている。
パンクス2匹。W君と8ちゃんである。俺も思わず顔がほころぶ。

彼らは数日前にひまりを出たはずなのだが、まだこんなところでいったい何をやっているのだろうか?
まぁそんなことはどうでもいい。心強い仲間が増えて、インドの移動も楽しくなりそうだ。
俺らは「メリークリスマス!」と握手を交わした。



バスに揺られ揺られて、約8時間後、日が沈んで真っ暗の中、ついにバラナシに着いた。


W君と8ちゃんは、俺がバラナシ経験者ということで頼りきってくる。

しかし、バラナシという街は迷路のように細い路地がはびこっているのだ。
こんな真っ暗で、西も東もわかるわけがない。


こういう時はガンジス川を目指すのだ。
川沿いに出ればなんとかなる。




俺らは、現地の人に聞きながら「ガンガー」をひたすら目指した。




この時の俺には、まさかこの約3週間後、ガンジス川で船上ライブをやるなんて、これっぽっちも想像していなかった。



続く。



※写真はラジュー夫妻とS君と、サンタさん

AD

rainmanになるちょっと前の話。24





予想以上の動員を記録し、大盛況のうちに幕を閉じた、THE JETLAG BAND!!!のポカラライブ。


その夜の打ち上げは、みんなで肩を抱き合って笑いあい、これまでの道のりを語りつくし、飲み明かした。

そして、その打ち上げの終了と共に、我々THE JETLAG BAND!!!という集団活動も終わりを告げようとしていた。


翌日、朝早くMさんがホテルひまりから旅立っていった。
俺らは全員で見送った。
Mさんは「楽しかったよ!みんなありがとう!この余韻にもう少し浸っていたいけど俺は次の町に向かうよ」と右手を差し出し、俺らは順番に握手をした。



その後も、次々とホテルを出て行くメンバーがいるんだろうな…と思っていたのだが、実際はそうでもなかった(笑)。
というより、みんなやっとバンドの練習から解放され、普通の旅行者に戻ったわけで、「さぁ、これでネパールをやっと観光できるぞ!」という感じになっていたのだ。
どうやらみんなも俺と同じく、先を急ぐ旅じゃないらしい。
しばらくは、この居心地のいいホテルひまりに滞在するつもりらしかった。


アンナプルナ山脈へのトレッキングへ行ったり、フェワ湖でボートに乗ったり、自転車を借りてダムの方までサイクリングに行ったり、レイクサイドで買い物したりと、普通の旅行者に戻り毎日を過ごしていた。



世の中は、20世紀から21時世紀へと世紀を跨ぐ年越しを目前にひかえた、歴史的な年末に差し掛かっていた。
とはいっても、ネパールは仏教&ヒンズーの国なので、日本や欧米のように「ミレニアム!」とか言って騒いでる感じでもなく、わりと静かな年末だった。


俺は、新年はインドで迎えようとは思っていたのだが、12月下旬まではネパールで過ごすつもりでいた。
ポカラは、第二の故郷と呼べるくらい好きな町なのだ。ライブも終わったし少しゆっくりとラジュー家族とでも遊びながらノンビリしたかった。



俺は毎朝、ホテルの2件先にあるジャーマンベーカリーというパン屋さんで、朝食をとっていた。
大体、朝起きてそこに行くと、ホテルひまりのメンバーが飯を食っていた。
その店の、道路に面した屋外テーブルに座り、NさんやZさんやBOSSなんかと下らない話をして、日向ぼっこしながらダラダラと飯を食い紅茶を飲むのだ。
旅では、こういう瞬間がたまらなく贅沢に感じる。いくらダラダラしても、誰も怒らないのだ(笑)



ある日、いつものようにその店で朝食を取っていたら、目の前の道を「二匹のパンクス」が通りかかった。
二人、というより「二匹」と数えるほうが似合うくらいの、パンクスらしいパンクファッションの日本人青年だったのだ。

一人は金髪のモヒカンで、鋲のついた革ジャンを着ていて、もう一人は全身黒で、鼻輪のようなピアスをつけていた。
仏陀が産まれた国ネパールを歩くには、とても不釣合いで違和感のカタマリだった(笑)。
しかし、そういうところが、俺は一発で気に入ってしまった。変なやつ大好きなのだ(笑)。


俺は早速声をかけてみた。「こんにちはー。すごい格好ですねー二人とも」
二人は、俺に気付くと、「こんにちわ。いやー、まだこの町に着いたばかりなんですわー」と関西弁で愛想よく答えてくれた。意外と礼儀正しい感じだ。
自分も10代でパンクバンドをやっていたからわかるのだが、パンクスっていうのは見た目によらず礼儀正しいのだ。

彼らは、「どこかいいホテル知ってますぅ?今泊まってるホテル、あまり気に入ってなくて…」というので、「じゃあ俺が泊ってるホテル見てみます?ドミトリーなら空いてるし…」と答えて、そのまま俺は、パン屋の会計を済まし、彼らをひまりの自分の部屋まで連れてきた。



この頃の俺の部屋は、毎日誰かしらが遊びに来てる状態だったので、けっこうオモテナシには慣れていたのだ。


彼らは俺の部屋を見て驚いていた。旅行者ではなくここに住んでる人だと思ったのだろう。
この頃俺は、玄関マットや壁に飾る絵(タンカ)なども自分で購入して自分の住みやすいように部屋を模様替えしていたのだ。
ホテルオーナーのラジューも特に何も言わないので、かなり自由に使わせてもらっていた。

「何年くらいいるの?」と言われたので、「いやー、まだ2ヶ月位ですよ」と答えた。


それから自己紹介を交えつつ、しばらく話をした。
金髪のモヒカンの男性は、「W君」といって、俺と同じ歳だった。
黒い服装の鼻ピアスの男性は「8ちゃん(はっちゃんと読む)」と言って、一つ年下。二人は幼馴染らしく、一緒にインド・ネパールの旅に出てきたという。

W君も8ちゃんも、見た目の通りパンクが好きで、俺も大好きだったのですぐに仲良くなった。


しばらくして俺は「ちょっとカフェにでも行きましょう」と言って、自分の部屋を出て、二つ隣のS君の部屋を改造して作った「LEGTIMERS CAFE」に入った。

W君も8ちゃんも、まさかホテルの部屋がカフェに改造されているとは思わなかったようで驚いていたが、かなり気に入っていた。
俺は、「このホテルはちょっと変わった住人が多いんだ。もともとここに滞在してる旅行者同士でバンドやってて、先月レイクサイドでもライブやったんだよ」と話した。
二人は「なんだかよくわかんないけど楽しそうだから、ここに移るよ!」と言った。


彼らは一旦ホテルに戻ると、チェックアウトを済ませて、すぐにまたやってきた。
そして無事にホテルひまりのドミトリーにチェックイン。こうしてまたホテルひまりの滞在者が増えた。



俺はその夜、二人を食堂に招き、滞在してるバンドのメンバーに声をかけ集合してもらい、晩飯を喰いながら演奏をして彼らに唄を聴かせたのだ。出会いの宴である。


彼らは、すっかり気に入ってくれて、メンバーみんなともすぐに仲良くなった。


そのとき、8ちゃんが「俺もギター弾けるで」と言った。

「お!ほんと?」と俺は言い、早速ラジューのギターを借りて、二人で一緒に弾いたりした。
8ちゃんは唄もギターも上手くて、一緒に音を出せるのがとても嬉しかった。
もう少し早く出会ってればバンドで力になって貰えたのになぁなんて思ったりもした。

W君も一緒に唄を歌ってくれた。W君も昔バンドで唄っていたそうで、パンクス独特の声を張る歌唱法でみんなを惹きつけていた。
懐かしいパンクの曲をカヴァーしたりして、その日は遅くまで唄い明かした。


その後もこの二人とは毎日一緒に呑み、毎日演奏して唄った。


そのうちC君とW君と8ちゃんと俺で、「月の爆撃機」という名前のパンクユニットを組んだりして遊んだ。
「インドでライブやれるかなー?」「さすがにインドはライブハウスないでしょー?」なんて会話もした。




2000年、年末のホテルひまりは、他にもたくさんの人が出入りしていた。
そして毎日誰かしら俺の部屋に顔を出してくれ、しばらく遊んで帰っていった。
中には隣のホテルからベランダを超えて俺の部屋の窓から遊びに来るやつらもいた(笑)



みんな個性的で、それぞれが変なあだ名で呼び合っていた。


「おにゃんこ」
「組長」
「達人」
「ナオトくん」
「四代目」
「若旦那」
「ノブ」
「アンジくん」
などなど。。


どいつもこいつも長期旅行のツワモノバックパッカーで色んなエピソードを持っているので、話を聞くのが楽しかった。
彼らとも、今現在になっても交流があり、このひまりでの出会いは本当に宝物だといえる。


特に「四代目」や「ノブ」とは、その後インドの旅でも一緒に行動し、仲良くなっていった。

「四代目」は、のちのち大阪でゲストハウスの管理人を始め、rainmanの関西ツアーの宿泊の拠点を作ってくれた。
「ノブ」は、のちのちオーストラリアの旅でディジュリドゥ吹きになり、rainmanの1stCDのレコーディングにも参加してくれた。
大切な友達であり、恩人たちだ。




そんな楽しい毎日を過ごしているうちに、あっという間に2000年も残り2週間ほどになった。


その頃になるとひまりのメンバーも半分以上はインドに旅立っていた。


Nさん、Oちゃん、C君、T、Zさん、BOSS、K君と、見送りを繰り返すうちに、少しずつ静かになっていくホテルひまりを眺めながら、俺もそろそろ出発かなと思った。



俺はインドビザ取得のため、一度カトマンズに向かった。
月極めで部屋代を払っていたので、ひまりでの部屋や荷物はそのままでいけた。
インド大使館にインド3ヶ月滞在用のビザを申請して、5日ほどで無事に取得することができた。
そして再びホテルひまりに戻ってきた。


ネパールでは結局2度も滞在ビザを延長し3ヶ月いたことになる。
移動にたいして億劫になっていた俺の心も、やっと旅人らしく「やる気」が出てきた。



ネパール・ポカラからインドに陸路で入るには、スノウリという国境の町を経由する一泊二日のバスの旅が主流だった。
この国境越えは、過去の旅でも1度経験していた。スノウリで宿を取り、次の日の朝国境を越えれば、もうそこはインドだ。
俺はインドに入ったら、「バラナシ」というガンジス川の流れる「聖地」とも呼ばれる街まで一気に移動するつもりでいた。97年の旅でZさんと出会ったあの街だ。



俺は、ラジューに「12月24日に、ネパールを発つよ」と告げた。
ラジューは、少し寂しそうに「そっか、大ちゃんもついに行っちゃうんだね」と言った。



「そこで、ラジューにちょっとお願いがあるんだ」
「なに?」
「せっかくクリスマスイブからクリスマスにかけて移動するわけだし、俺、サンタクロースになろうかなと思って…」
「え?サンタクロースになるって??どういうこと?」
「サンタクロースの赤と白の服と帽子あるじゃん。あれ、どこかの生地屋さんで作ってもらうことできないかな?お金はいくらでも払うからさ」
「あ、なるほど。サンタの格好するのね!わかった。大丈夫だよ。たぶんそんなに高くないよ」
「ありがとう!じゃあ23日の夜までに仕上がるようにお願いします」




というわけで、俺は、サンタクロースでインド入国を目指すことになったのだ。






続く。


次回からいよいよインド編!

AD

rainmanラスト2本!渋谷RUIDO K2でのLIVEでした。










足元の悪い中、たくさんの方に駆けつけて頂き感謝します!
遠くからもありがとう。バレンタインチョコもありがとう。



懐かしい顔ぶれも多く、いよいよラストに迫ってるんだなぁと実感しています。



昨日のMVPはやはり助っ人ベーシスト小菅健太さんですね。
昨日の昼間スタジオに初めて入り、その後、即本番でしたからね。
まさに救世主!ラストライブもこれでいい感じになると確信しました!楽しみ!
小菅さんありがとーー!!




というわけでセットリスト載せておきます。



2014年2月16日(日)
@渋谷RUIDO K2


1、花束
2、PARTY
3、オーシャンゼリゼ
4、一休歌姫恋物語
5、ハッピーソング~晴耕雨読~
6、WALK
7、傘
8、シャララの鍵
9、リセット
10、月光シェイク
アンコール
11、青いバス
アンコール
12、サヨナラしないよ



でした!


写真はfacebookから拾いました。ありがとうございます!



いよいよ、次で最後です。

最後を見届けてやる!という方、是非一緒に、ひとつの旅に幕を下ろしましょう。

ご存知の通り地球屋さんは昨日のRUIDOさんより小さなお店です。
みんなで仲良く酸欠GIGしましょう。


コインロッカーなどはないので、なるべく身軽な格好で来場くださいね。
なるべく早めに来てくださいね。

最後までよろしくお願いします!





rainman解散。LAST PARTY
2013/03/22 (土) rainman
@国立地球屋
◆LAST ONEMAN
■12年間せんきゅーまいふれん。
19:00open 19:30start
チャージ1000円

rainmanになるちょっと前の話。23




緊張と空回りで全く思い通りにいかなかった、我々「THE JETLAG BAND!!!」の初ライブが終わった。


その翌日からの練習は、今までの練習とは比べ物にならないくらいみんな集中力があった。
生まれて初めて「ライブをする」ということを体感し、それぞれが自分に足りなかったことを一晩考えたのだろう。この日からの演奏は、「バンドの練習」というより「ライブを想定してのリハーサル」という感じに変わっていった。


ひまりガーデンライブのみの参加だったはずのMさんも、「レイクサイドのライブまで付き合うよ!」と言ってくれ、一緒に練習を繰り返した。旅の予定までも変えてしまうほどの魔力が、「初ライブ」にはあったのだ。



気持ちが変われば変わるもので、バンドとしての音もだんだんそれっぽくなってきた。
まだまだヘタクソな素人ではあったが、たまにグッとくる演奏をする瞬間もたくさん増えたのだ。

俺らは、飯と寝る以外の時間のほとんどを楽器の練習やコーラスのハモリ練習などにあてた。
ひとつひとつをクリアしていくことが楽しくてしょうがなかった。


一人のバックパッカーとして日本を飛び出し、いつのまにか旅で会ったものたちと、いつのまにかバンドを結成し、そしてライブをした。
そんな奇妙な巡り会わせを、メンバーそれぞれが楽しんでいるように思えた。
日本での日常生活では絶対会えないような種類の人間と、こうして短期間で家族のような信頼関係を築くことができる。旅というものの醍醐味を、バンドという「魔法の集合体」を通して、皆ひしひしと感じていた瞬間でもあった。



あっという間に時間は過ぎ、俺らは遂に、ポカラ・レイクサイド「クラブ アムステルダム」でのライブ当日を迎えた。



初ライブ当日の朝とは違い、俺にはメンバーみんながリラックスしているように見えた。
「やることはやった。とにかく楽しもう」といった感じだ。
それもこれも、ひまりガーデンでの初ライブがあったからこその感情だ。
ガーデンライブを企画してくれたひまりのオーナー・ラジューには、ただただ感謝した。


この日のためにC君は、日本からビデオカメラを郵送してもらい、俺らの行動を朝から記録していた。あの時の映像、今もあるのだろうか?
いったい俺はどんな顔をしていたのだろうか?
今になってとてもそれを観てみたい。
きっと、旅の魔法に取り付かれた、その時しか出来ない、その時だけの顔をしているのでは?と思う。



昼過ぎにメンバー全員で「クラブ アムステルダム」まで移動し、セッティング、サウンドチェックを済ませ、夜の本番を待った。


けっこう広い店で、80人ぐらいは軽く座れそうだ。いったいどれくらいの人が来てくれるのだろうか。手書きのチラシのみの告知だ。この日のライブを知っている人がポカラの町にどれ程いるのか?想像もつかなかった。
少しでも椅子が埋まり、盛り上がればいいなと願った。


BOSSやK君は、「ライブ前やライブ中もビデオを撮るよ」と言ってくれて、C君のビデオカメラを持ち、忙しそうにライブ前のみんなの表情などを撮ってくれた。ありがたかった。


Zさんは、俺が「今日これ着て下さいよ」と渡した赤のジェットラグTシャツがとても気に入った様子だった。「伝説の幕開けやね」とか言いながらジャグリングボールで遊んでいる。




いよいよ店がオープンした。

ポツポツとお客が入ってくる。



中には、カンボジアで会った旅人や、タイや中国で会った旅人達の顔も見えた。
日本に一度帰国したのに、わざわざ再出国して来てくれた旅人もいた。
みんな国をまたいで、ここまでライブを観に来てくれたのだ。
自然と再会の握手は、掌に力が入った。本当にありがたかった。


驚いたのは、欧米旅行者の来場が多かったことだ。
レイクサイドはもともと欧米のバックパッカーが多いのだが、日本人客と同じくらい、欧米の方も来場してくれた。



お客はどんどん増えていき、演奏開始時間になる頃は立ち見も出るほどで、たぶん100人近くいたのでは、と思う。

まさかここまで動員があるとは思っていなかったので、メンバー一同驚いていた。
しかし、俺らは「平常心」を心がけた。
ここで緊張してしまっては、初ライブの失敗を繰り返してしまうことになる。
リラックスして、すべてを楽しむ方向に心を運んだ。



そして遂に、「BACK PACK BLUES NIGHT VOL.1」は幕を開ける。



ベトナム・ハノイで思いつきでギターを買い、その後、運命に導かれるように移動しながら曲を書き続けた。カンボジア、タイ、ラオス、中国、チベットと経由し、ついにネパールに入った。
旅の間に出会った仲間達がネパールに集結してくれ、遂に今、思い描いていた「旅人バンドでライブハウスデビュー!」が現実のものとなったのだ。


ひまりホテルでのライブを経験したおかげで、俺らはヘタクソなりにも落ち着きのある演奏を続けた。


会場のお客さんの顔を見る余裕もあった。
みんな楽しそうな表情をしてくれていて、手拍子なんかもいただいた。


ライブ中のMCでもメンバー紹介をしたり、曲の紹介が出来たり、このバンドができた経緯なんかも話せた。




そして約90分に渡るライブが終了した。


アンコールまで頂き、たくさんの拍手をもらえた。




俺は、なんとかやり終えたことで、ほっとした気持ちだった。
メンバーみんな、満足しているような表情で、興奮しながら乾杯していた。
Tは、練習のやりすぎで、本番途中で声が枯れてしまったらしく、ガラガラの声で「もう一回やりてー」と言っていたが、俺らは「枯れた声で良くやったほうだよ」とTを励ました。


お礼を込めて客席を回ると、欧米人女性らにサインを求められたりして、ちょっと照れくさかった。


ラジューや、クラブアムステルダムのオーナーも、よかったよ!と、握手をしてくれた。
ラジューが喜んでくれたのが本当に嬉しかった。



俺は改めてメンバー全員と、強い握手をして抱き合った。


THE JETLAG BAND!!!のポカラ2回目のライブは、こうして終わった。
そして、そのライブの終了は、同時にTHE JETLAG BAND!!!としての集団活動の終了も意味していた。
ライブのために共同生活をし練習を繰り返してきたが、もともとはそれぞれ一人のバックパッカー。
ライブが終わった以上、バンドとしての集合体は消滅することになるのだ。
この時のメンバー一人一人との握手と抱擁は、それこそ言葉では言い表せない様々な想いがあった。


いつまでもこの夜が続けばいい、そう思った。



続く。

■rainman一同よりご報告■

テーマ:

ひとつ報告があります。



2014年2月6日を持ちまして、rainmanのBASS、fumiが脱退しました。
一身上の都合により、バンド活動の継続が不可能になった為です。



昨年末の「解散発表」に続き、突然の報告で驚かせてしまいすみません。



メンバーの名誉にかけて付記しますが、今回の「メンバー脱退」と「rainmanの解散」は、まったく関係・関連のないことです。


今回の件は我々自身にも突然で、多少の動揺があったのも事実です。
すぐに緊急対策本部を設置しミーティングを重ねました。
最後まで6人でやり遂げようと思っていた矢先だったので、残念な気持ちもありましたが、今はメンバー一同「この壁も越えるためにあるのだ」と前向きに切り替えています。





本当に最後の最後まで、エピソードの尽きない、油断のできないバンドです(笑)
「旅にトラブルは付きもの」などとよく言いますが、rainmanの旅では、幾度となく様々なBLUESを超えてきました。
ラストワンマンまで、まだまだ何があるかわかりません。
しかし、我々rainmanは、持ち前のポジティブ&シャンティで常に笑って前に進んでいくでしょう。



付きましては、
2月16日(日)渋谷RUIDO K2
3月22日(土)国立地球屋
の、残り2回のライブは、助っ人ベーシストとして、「小菅健太」氏が参加してくれることになりました。
このピンチに、二言返事で力を貸してくれた男気あふれる男前です!
是非、皆様には、あたたかく迎えて頂けますよう、メンバー一同心よりお願い申し上げます!



自分で思いますが、rainmanのようなバンドは他にないだろうな(笑)
ラスト2本、本当の意味で奇跡のライブになるでしょう。
ライブハウスで体感してください!



最後までよろしく!

せんきゅーまいふれん。




rainman代表として。
2014年2月15日 daisuke





rainman解散までラスト2本
2014/02/16 (日) rainman
@渋谷 RUIDO K2
■OPEN/17:40 START/18:00
前売:¥2,500+1D / 当日:¥3,000+1D
rainman他
※rainmanの出番は21:00



rainman解散。LAST PARTY
2013/03/22 (土) rainman
@国立地球屋
◆LAST ONEMAN
■12年間せんきゅーまいふれん。
19:00open 19:30start
チャージ1000円

rainmanになるちょっと前の話。22





ホテルひまりの中庭で行われるライブの当日を迎えた。


ライブ開始は午後3時、勿論チャージなどはなく、子供も大人も、どの国籍でも参加自由だ。


一応、「チラシ」を作り何日か前から食堂などに置かせてもらったのだが、果たしてどのくらいの方が見に来てくれのか…。まったく不明だった。


チラシには俺が考えたTHE JETLAG BAND!!!のマスコットキャラクターの顔が描かれていた。
そのキャラクターは、バンド名をもじり「ジェットラ君」という名前をつけた。
陰陽のマークとニコちゃんマークをコラボレーションさせ、口にタバコを加えさせたオリジナルマークだ(商標登録済)。
このマークは後々rainmanのマスコットとしても使われ、「JETLAG RECORD」という俺の自主レーベルのマークにもなった。
rainmanのファンには馴染みの深い「あのマーク」である。



昼ごろになると、俺らは食堂に置いてあった使っていない黒板や、木のテーブルや椅子などを庭に運び出し、独自のステージを作りはじめた。


黒板にはチョークで「BACK PACK BLUES NIGHT VOL.0」と書いた。今日のイベント名だ。旅の間、ずっと考えていたイベントタイトルだった。
来週のレイクサイドでのライブは「VOL.1」にするつもりだった。

今日は「0」。このバンドの起源となる日にしたい、という願いをこめた。



しばらくすると一台のトラクターが大きな音をたててホテルの庭に入ってきた。
「なにごとだろう?」と見ると、トラクターは荷台車を引いていて、荷台の上にはスピーカーやアンプ、ミキサーなどが積んであった。
ラジューが俺を見て、ニコッと笑った。
そうか!ラジューがこの日のために手配してくれていたのだ。
話を聞くと、そのトラクターはカトマンズからやってきたという。いくつもの山を越えて、バスでも6時間かかる道を、重い荷物を引きずり遥々ポカラまでやってきたのだ。
本当にラジューには頭があがらない。俺らのためにここまでしてくれるなんて。


ラジューは他にも、大量のビールやソフトドリンクを注文していた。
きっと大勢の来場者を予想し、みんながドリンクを買ってくれるのを期待してのことだろう。

たくさんお客さん来てくれたらいいな…俺は祈るような気持ちだった。



トラクターと一緒にやってきた音響さんにサウンドチェックをしてもらい、いよいよライブ開始を待つのみとなった。


メンバーは、ギリギリまで部屋で練習をしていた。
今回、俺がこの旅で作った曲と、ビートルズやボブマーレーなど誰でも知っているような曲を混ぜて、12曲ほど用意していた。


開演時間が近くなり、2階の俺の部屋から庭を見下ろすと、30人ほどのお客さんが集まってくれていた。
ラジューに「そろそろやらない?」と言われ、俺らは階段を下りて中庭のステージへ向かった。




「はろー!うぃーあー ざ・じぇっとらぐばんど!ふろむ じゃぱん!」と挨拶し、ついにライブが始まった。



正直ライブの間の記憶はあまりない。無我夢中で唄った。



そして、空が暗くなり始めた頃、すべての演奏が終わった。




結果は、





散々なものだった。。



みんなガチガチに緊張していて、まったく練習どおりに演奏できなかった。


言い訳になるが、バンド内、唯一のライブ経験者は、10代にパンクバンドをやっていた俺だけで、他のみんなはまったくの初めて。そう考えると、この結果は当たり前なのかもしれない。練習と客前で演奏するライブとでは、まったく勝手が違うのだ。

しかし、やはり悔しかった。
なんとか唄で引っ張ろうと、声を張り上げてみたが、それも絵に描いたような空回りに終わった。

それでも、ありがたいことに最後まで残ってくれているお客さんも多く、アンコールも頂いたりした。


俺は「今日はどうもありがとうございました。来週、レイクサイドのクラブ・アムステルダムという店でライブをします。もっといいライブが出来るようにがんばるので、よかったら見に来てください」と挨拶した。




ステージが片付けられ、カトマンズから来た音響さんたちも帰っていった。


ラジューから「お疲れ様」と肩をたたかれた。
俺は「あんまりお客さん呼べなくてごめんね」と言った。
ラジューは「本番は来週だよ、だいちゃん」と俺に笑いかけた。
いろんな想いが込み上げてきて泣きそうになったが、ぐっとこらえた。
そうだ、まだ次がある。



その夜、俺の部屋にメンバーが集まり、打ち上げ&反省会が開かれた。

やはり、みんなも俺と同じように、イメージ通りのライブが出来なかったようで、少し暗い顔をしていた。


C君に「足引っ張っちゃってすんません」と言われた。
Nさんは「まさか、ここまで緊張するとは思いませんでしたよ」と苦笑い。
Oちゃんは「練習でやっとできたような箇所は、本番ではまったくできない。もっと余裕が出るくらい練習しないと!」と言った。


みんなの悔しい気持ちは痛いほどわかった。
しかし俺はもうこの時、気持ちは次に向かっていた。
過ぎてしまったことはしょうがない。これが俺らの実力だったというだけだ。

俺は、「いい経験になったね。今日一度ライブというものを実際に経験できたことは、すげー大きいことだと思う!やっぱり体感して初めてわかることも多いよね!今日の経験を活かして、来週までにみっちり練習しよう!」と話した。


Tが「ぜってー、次はやってやる!」と言った。
Mさんは「ほんまいい思い出になったよ、ありがとう」と頭をさげた。

S君は「旅に出て、こんな経験するとは思わなかったよ。こんな遊び他にないだろ。この際だし最後まで楽しもうやー」と笑い、みんなも笑った。


BOSSやK君やZさんも、暖かい目で見守ってくれていた。




こうして、ホテルひまりガーデンでの、THE JETLAG BAND!!!の初ライブは終わった。



俺はその夜ベッドの中で、自分の感情について考えていた。
今日のライブが終わったあと、俺は「悔しい」と思った。
でもそれと同時に「悔しいという感情が生まれた自分」に驚きもあったのだ。


暇つぶしの遊びで始めたバンドだった。
しかし、遊びなら自分の部屋で唄っていればそれでいいのだ。
俺らはライブと称し、人前で唄うことを選んだ。
人前で唄うなら、もっともっと本気で遊ばないとだめなんだ。
せっかく見に来てくれた人たちに、満足いく演奏を聞かせられなかったことに俺は悔しさを感じたのだ。
中途半端な気持ちじゃだめだ。暇つぶしなんて言ってらんねーぞ。
もっともっと最高の遊びにするために、本気で遊ばないと!



そんなことを考えながら、眠りに落ちていった。




続く。

rainmanになるちょっと前の話。21





ホテルひまりのオーナー・ラジューの提案で、俺らはレイクサイドにあるライブレストラン「クラブ アムステルダム」でライブをする前に、「ホテルひまり」の中庭でまずライブをすることになった。


俺は最初「スピーカーとかアンプがないと無理だよ」と言ったのだが、ラジューは「大丈夫、なんとかするよ!」と、自信たっぷりなのだ。
ラジューにはお世話になっているし、せっかくの好意なのでやってみることにした。
いきなりレイクサイドのお店でライブをするより、ラジューの言うとおり一度練習がてらミニライブをやっておくのもいいかもな、と思ったのだ。



というわけで突然間近にライブが決ったのだが、実はこの時、俺らはある問題をかかえていた。


例のラサで買ったOちゃんのキーボードなんだが、またしても欠陥品だったのだ。
最初に買ったキーボードは、一つの鍵盤を押した状態だと他の鍵盤を押しても音が出ない…つまり和音が鳴らないという欠陥だったんだけど、次に買ったキーボードは、「ド」の位置の鍵盤を押すと「ミ」が出るのだ(笑)
「レ」は「ファ」になる。
つまり鍵盤の音が全体的に2音ずつずれていた。


本当に素人まるだしで恥ずかしいのだが、俺らは全員、しばらくそのことに気付かずに練習していたのだ。
「なんでこんなに音が合わないのだろう。気持ち悪いなぁ」と思ってはいたのだけど、俺のギターのチューニングが狂いやすいのが原因だとばかり思っていた。しかしギターをキーボードに合わせてチューニングすると、今度はブルースハープと音が合わない。まさか鍵盤そのものの音が狂っているなんて考えもしなかったので、原因がそれだとわかった時は目からウロコ状態だった。またしても中国クオリティにやられたようだ。

しかしOちゃんはめげなかった。原因がわかって良かった!と言って、すべての曲のキーを2音ずらして楽譜を書き直しはじめた。キーがEの曲なら、OちゃんだけはCで演奏するのだ。ややこしいけどしょうがない。ライブは間近にせまっているのだ。Oちゃんが頼もしく見えた。




練習、練習の日々の中、ホテルひまりに新しいメンバーが増えた。



いつものようにホテルの中庭で、ラジューの子供たちと日向ぼっこしていたら、BOSSが入り口から入ってきた。
中国・大理でお世話になった、あのいかついお兄さん「BOSS」である。

「うをーーー!来てくれたんすねーー!」
「なんか、おもしろいことになってるみたいだから遊びに来たよ」
固い再会の握手をした。

BOSSはK君の滞在しているドミトリーで生活するようになった。
K君は楽器をやらないので、BOSSという同居人ができて嬉しそうだった。



そしてもう一人メンバーが増えたのだが、この旅人に関しては少し説明をさせてもらいたい。


彼の名前は仮に「Zさん」ということにしておこう。(イニシャルが他の人とだぶるので)



Zさんと最初に出会ったのは、今俺がしている2000年「最後の旅」の約3年前。
俺はその時インドのバラナシという街にいた。
バラナシではビシュヌレストハウスというガンジス川沿いのホテルのドミトリー(共同部屋)にチェックインした。
1泊約50円のそのドミトリーは、長方形の部屋にベッドが10個くらい並んでおり、一つ一つのベッドの枕の先に小さな小窓が付いていて、その小窓からはガンジス川を見下ろせるというステキな環境だった。
そして、俺が割り当てられたベッドの隣に、たまたま滞在していたのが「Zさん」だったのだ。


俺はこの時、初インドで、入国して3週間目という状態だった。
そして、正直に言うとかなり「インドが嫌い」になっていた。
最初に飛行機で降り立った深夜のデリーでは暗闇から石を投げられ「ふぁっきんじゃっぷ!」と言われ、旅行代理店ではだまされ、商店ではおつりを毎回ごまかされ、腹は壊すわ、人は多すぎだわ…とにかくインドに惨敗中の情けない旅を続けていたのだ。


そんな時、Zさんの存在には大変助けられた。


Zさんのベッドは一目で「長期滞在しているな」とわかるほど「自分の部屋化」されており、実際そうだった。
チェックインしたばかりの俺に気さくに声をかけてくれ、「少し街を案内するよ」と散歩に誘ってくれた。
ガート(沐浴場)沿いの、彼が贔屓にしているというチャイ屋に行ったり、美味しいヨーグルト屋を教えてくれたりしながら、バラナシに着いたばかりの俺にとって非常に参考になる「この街で生活するコツ」をZさんは教えてくれた。
Zさんは現地の子供たちにも大人気で、すれ違う子供がみんな彼に挨拶していった。そんな風景を横目で見ながら、こんな風に軽やかにインドの街を歩けたらステキだなぁと俺は思った。


Zさんとはバラナシで別れた後も、すぐにネパールのポカラで再会した。俺はその旅で初めて「ホテルひまり」に滞在したのだが、Zさんがわざわざ「ひまり」まで訪ねてきてくれたのだ。一緒にひまりで生活し、トレッキングに行ったり、ダムに遊びに行ったり、俺らは親友と呼べるほど仲がよくなっていた。

日本に帰国してる間も、Zさんとはたまに会ったりしていた。
Zさんは北九州に住んでいたのでなかなか頻繁には会えなかったが、彼が東京に遊びに来てるときなど、俺に連絡をくれたのだ。


そして今回の旅で、俺が日本を出国するにあたり船で下関から出ることになったので、「それなら北九州にいるZさんのところにも寄らせてもらおう!」と、出発前に連絡をしていたのだ。
しかしZさんの答えは意外なものだった。
「だいちゃん、実は俺もちょうどその頃から旅に出るんよ。だから日本では会えないけど、ベトナムか中国か、旅の間に再会しようや」と言うのだ。
「そうなんだ!それは偶然だね!じゃあ旅先で会おう!」と答えた。


そして、今回の旅の間、俺はEメールを通してZさんに連絡し、何度か接触をはかったのだけど、なかなかタイミングが合わずに会えずじまいだったのだ。


Zさんと俺はそんな関係だ。



話を本編に戻そう。



ある日、ホテルひまりの屋上で俺は洗濯物を干していた。
屋上つきのホテルは、洗濯物が広々と干せるという利点があるので好きだ。旅人にとって洗濯は大仕事なのだ。なるべくならカラッとした天気のいい日に一気にやっつけてしまいたい。その日も天気がよかった。


ホテルひまりの隣には、手を伸ばせば触れるくらいの近さでもう一つ3階建ての大きなゲストハウスが隣接されていた。
ひまりは2階建てなので、屋上に上ると、隣のホテルの三階部分が見える感じだ。
そこも日本人に人気のあるホテルのようで、いつも慌しく人が出入りしていた。



トランクスを干していると、突然隣のホテルの窓がガラっと空いた。


窓を開けた人物と目が合った。



Zさんだった(笑)。



「うをおお、Zさんじゃん!!!びっくりしたよ!!!ネパールにいるなら連絡してよー!」
「いやいや大ちゃん久しぶり。なんかライブやるとかメールで書いてあったから来たんだけど、ひまり部屋埋まってるっていうからさー」
「なに言ってんの!言ってくれれば部屋くらい空けるよー!移ってきなよー!」
「あ!そう?じゃあそっち行くわ」

と、Zさんは言い、なんとその部屋の窓から体を乗り出し、そのままジャンプしてひまりの屋上までやってきた。(どんなチェックインやねん!)


こうしてZさんとやっと再会を果たし、俺はとても心強い仲間を得たのだ。



そうこうしている内に、ひまりガーデンでのライブの2日前となった。


キーボードもキーを変えて楽譜を書き直し、全体的にもなんとか聞かせられるかな?という感じだったが、まだまだ不安は消えなかった。

そんな時、また一人、ひまりに旅人がやってきた。


Mさんだった。


Mさんを覚えているだろうか。
チベット・ラサで鳥葬に行く前にOちゃんらと一緒に呑み、パスポートを無くし占い師に相談して見つけたというエピソードを持つ大アニキMさんだ。
Mさんはあの後ネパールを超え、インドまで下りたのだが、俺らのライブがやはり気になり戻ってきたという。
一度通り過ぎた国に戻るのはなかなか出来ることではない。俺らは宴を開き、再会を喜んだ。


その時、Nさんが「こうなったら一緒にライブやっちゃいましょうよ!」と言った。
Oちゃんもそれに乗り、「Mさん一緒にやろうー!!」と言い出した。
ライブ直前になってメンバーになれと言われてもMさんにとっては迷惑な話だ(笑)。
Mさんは勿論「誘ってくれて嬉しいけど丁重にお断りします。」と言った。まぁそうだろう。


ところがみんな引き下がらない。


きっと、ライブ直前で本当に自分達でライブなど出来るのか?という不安故、最年長の落ち着きのあるMさんを仲間にして、自分たちも落ち着きを取り戻したかったのだろう。

俺は、みんなの気持ちも察してMさんに話しかけた。「シェイカーとかならリズムに合わせて振ってもらえればいいし、座ってくれてるだけでもいいので、Mさんやってくれませんか」
Mさんもさすがに根負けしたようで、「そうですか。では力になれるかわかりませんが参加させてもらいます」と言ってくれた。
無理に誘って申し訳ないという気持ちが強かったが、Mさんも男気のある人で「引き受けた以上は楽しむ!」と言った感じで練習に参加してくれ、俺はほっとした。



こうして「菩提樹の実のビッグシェイカー奏者」として、MさんがTHE JETLAG BAND!!!のメンバーとなった。




そしてついに、満を持して「ホテルひまりガーデンライブ」当日を迎えたのだ。




続く

rainmanになるちょっと前の話。20





ホテルひまりオーナー、ラジューの粋な計らいでゲストハウス全体を占領できることになった我々THE JETLAG BAND!!!。


ホテルひまりは2階建ての屋上つき。玄関を入ると正面に中庭があり、その庭をコの字に囲むように宿舎が建っている。
1階は、ラジュー家族の部屋や食堂などが入っていて、ホテルの客はほとんど2階に滞在する形になる。屋上にも一つ部屋があった。
俺ら7人は各自好きな部屋に陣取った。



俺は前回ひまりに滞在していた時に泊っていた部屋を希望した。
一番広く、日当りのいい「角部屋」である。
みんなが集まることも多いと思うし、一応今回のバンド遊びの発起人でもあるので、みんな俺がそこに陣取ることを了承してくれた。



俺の部屋の左隣の小さな部屋はC君が入ることになった。
C君ルームは2階の一番左端の部屋にあたり、部屋の真下は、ホテルの出入り口でもある受付のある部屋にあたった。
自分の部屋より、俺の部屋にいるほうが長いのでは?と思うくらい、C君は俺の部屋にいた。
帰るのは眠るときくらいだった。


俺の部屋から右側は、庭を囲むように5つ部屋が並んでいる。
すぐ隣はキーボード担当の女の子Oちゃんの部屋になった。
女の子らしく、いつもきれいに使っていた。



その隣は、S君が陣取った。
S君は「この部屋、カフェにするわ」と突然言いだし、毎朝「仕入れ」と称して買い物に行き、お菓子や軽食類、水やお茶やジュース等をまとめ買いするようになる。


最初はみんな「S君いったい何を始めたんだ!?」と物珍しそうに見ていたのだが、後々この「カフェ」がとても便利で役に立つ場所だと痛感させられる。


「ちょっと水が切れちゃったけど外に買いに行くの面倒だなぁ」なんて時や、「小腹が減ったけど深夜だし食堂は閉まってるなぁ」なんて時は、S君カフェに寄れば大体の要望が叶うのだ。勿論料金はカフェマスターのS君に払うのだけど、外で買う値段と変わらない。まとめ買いするので少し安いくらいだ(笑)


このカフェは、日が経つにつれどんどんクオリティがあがり、「LAG TIMERS CAFE」という名前まで出来、看板やメニューなども作られた。
ときどき他のホテルに泊っている旅人なんかもカフェの客になっていた(笑)。


色んな旅人に会ったが、ゲストハウスの自分の部屋を「カフェ」に改造したやつは後にも先にもS君ただ一人だ。こういう柔軟で遊び心のあるやつが俺は好きだった。



S君の部屋の隣は、階段とシャワールームのスペースがありそこが建物のコーナーになっている。
各部屋にシャワーは付いているのだがドミトリー客(共同部屋)用のシャワーがここにあるのだ。


階段を超えて、次の部屋がNさんの部屋だ。
Nさんの部屋のドアには、いつのまにか「N整体研究所」とかかれた札が貼られてあった。
まったくどいつもこいつもホテルの部屋を勝手にいろんなものに改造したがる(笑)


ある日、「Nさん、整体研究所ってなんすか?」と俺が聞くと、「私は昔から『微動術』というマッサージを研究しているのです。是非、体がお疲れの時はご予約いれてください」と言われた。
「微動術??なんすかそれ??あの、いま予約していいっすか?(笑)」
「わかりました。では楽な服装でベッドに横になってください」


何が始まるのだろうと、どきどきしながらNさんの部屋のベッドに仰向けになっていたら、いきなりNさんは俺の両足首をつかみ、そして俺の体をとても細かく揺すってきた。


最初は戸惑ったが、しばらくして慣れてくるとこの細かな揺れが心地よいことに気付く。全身の力が抜けていき、頭がまっしろになった。リラックス効果絶大だ。
俺は気付いたら眠ってしまっていた。起きたらすでに窓の外は暗くなっていて、俺の体には毛布がかけられていた。「あ!すいません。いつのまにか寝てしまって…」と言うと、Nさんは「構いませんよ。お疲れになっているのでしょう。」と言いながら横でお茶を飲んだりしている。


うーむ。。恐るべし微動術!おそるべしNさん…。


「変な部屋ばっか…」とつぶやきながら、カフェを横切り俺は自分の部屋に戻ったのだった。



Nさんの部屋の左隣がTの部屋だ。

Tも、C君と同じようにほとんど俺の部屋にいた。
TもC君も、ブルースハープだけでは飽き足らず、ギターも教えてほしいと言い出し、俺は基本的な音の構成やコードの押さえ方なんかを彼らに教えた。
相変わらず二人とも上達は早かった。



Tの部屋を超えた先にある部屋が、2階の一番右端の部屋にあたる。
大部屋になっていて、ベッドが4つほどあり、ドミトリーとして使われていた。
ここにK君が陣取ることになる。


ここはあまり日当りがよくないせいか、K君は、昼間はほとんど、屋上か、S君カフェにいた。
天気がいいと屋上からは大きく連なるヒマラヤの中の「アンナプルナ山脈」が見渡せた。
アンナプルナ山脈の中で一際目立つのが「マチャプチャレ」である。
マチャプチャレの頂上付近はフィッシュテールとも呼ばれ、まるで魚の尻尾のようにとんがっていてかっこいい。


俺は富士山の次に好きな山だった。



俺らは毎朝10時に食堂に集合し、バンドの練習をしようということにした。
食堂を練習スペースとしてラジューが提供してくれたのだ。
広くて、椅子やテーブルもたくさんあるし、音が響くので練習には最適な場所だった。

午前中精一杯練習をして、午後は各自自由に自分の旅の時間を過ごした。



ポカラの町で旅人が拠点とする場所は、「レイクサイド」と「ダムサイド」の二つに別れる。
レイクサイドは、欧米向けのレストランや土産物屋、ホテル等が多くたくさんの白人さんたちで賑わっていた。
ダムサイドは比較的田舎風景で、小さな食堂やリーズナブルなゲストハウスが多かった。日本人はダムサイドの方が性に合うらしく、多く滞在していた。


ホテルひまりも、ダムサイド側にあった。


ダムサイドもレイクサイドも、大きな湖「フェワ湖」で繋がっている。湖沿いを歩けば30分くらいで行き来できる距離だ。



俺はよく、午後はフェワ湖にボートを浮かべ、ゆらゆら揺れながら過ごした。
マチャプチャレに見下ろされながら、緩やかな午後の日差しで湖の水面がキラキラ光るを眺めるのが、たまらなく好きだった。




ある日、ラジューが俺を呼び止めた。
「だいちゃん、ちょっとレイクサイドまで一緒にいかない?紹介したい友達がいるんだ」
暇だったので俺はその誘いに乗った。ラジューのバイクの後ろに乗りレイクサイドまで向かった。

ラジューは「クラブ アムステルダム」という名のレストランに入っていった。いい名前だ。
レイクサイドの町のど真ん中にある、大きなレストランだった。
店はウッディーな感じで統一されて雰囲気があり、店の奥はテラスになっていて、その向こうにはフェワ湖も見えた。


ラジューはその店のオーナーだという男性を俺に紹介してくれた。ラジューとは幼馴染だという。
「だいちゃん、ライブやりたいって言ってたよね?この店どうかな?と思って」とラジューは言った。
え!ここ?こんな立派な店でやっていいの?!と俺は思った。
「今、オーナーと話したんだけど、ぜんぜん使ってもらって構わないって。アンプやスピーカーも一通りあるし、たまに地元バンドがライブやってるんだよ」とラジューは言う。
オーナーの男性はニコニコしながら頷いている。


俺らにこの店に相応しいほどの演奏ができるかなー?と少し不安もあったが、せっかくのラジューの好意だ。俺は「ありがとう!ぜひやらせてもらうよ!」と言った。


いつにする?というので、練習期間ももらいたかったし約2週間後の週末を押さえた。


というわけで、いきなりライブをする場所と時間が決まってしまった。
ラジューに相談すればなんとかなると思っていたが、まさかここまでスムーズにいくとは。
俺はオーナーと握手をして、店を出た。



ラジューのバイクに乗りホテルまで戻る間、徐々にライブが決まったという実感が沸いてきて緊張した。


その夜、メンバーに「日にちと場所が決まったよ!」と、報告した。


みんな喜んではしゃぐというよりは、「ついに具体的に動き出したか!」と、気合を入れてる感じだった。


次の日の朝練習からは、前日までとは比べ物にならないくらいみんなに集中力があったのは言うまでもない。


練習を終えて、みんなで色々とミーティングをしていると、ラジューが食堂に入ってきた。
そしてラジューは、俺らに思いがけない提案をしてきたのだ。




「みんな!今度の週末、練習がてら、うちの庭でライブやってみない?」





続く。

rainmanになるちょっと前の話。19




ネパールの首都カトマンズでの生活は心地よかった。



S君の合流で、ゲストハウス屋上でのバンド練習にも刺激が加わり、みんな下手くそだったけど真剣に取り組んでいた。


何かを覚えたり習ったりする時、「旅」ほど最適なものはないのでは?と思う。
旅の間は、「やらなければいけない事」っていうのがないので、やりたいことだけを好きなだけやれる。お腹が減れば飯を食いにいって、眠かったら寝る。それ以外は好きなことだけに時間を使えるのだ。
そういう生活の中で、好きで孤独になり、好きで過酷な移動をする。本当に旅は「贅沢な遊び」の一つだなと、つくづく思う。



S君の合流の数日後、ついにOちゃんがチベットからネパールにやってきた。


重いキーボードを持って、あの崖を渡り、国境を越えてきたのだ。
俺ら男の子たちはみんな、紅一点のOちゃんの合流を心から祝し歓迎した。女の子が一人加わるだけでこうも違うのか!?とびっくりする程、メンバーみんなの生活に潤いが出たように思えた。女子はやはり偉大である。



これで、俺がここまでの旅で声をかけたバンドのメンバーは、カトマンズでついに全員揃ったことになった。


俺はこの「マンガのような展開」にニヤニヤしつつも、胸が熱くなっていた。
約7ヶ月前、日本を出国したばかり頃は、まさかこんなことになるなんて思ってもいなかった。
思えば、ベトナムでたまたまギターを買ったあの日、なにかが動き出したような気がしたのだ。
各国でギターを通して出会った旅人達が、今こうしてネパールに集結し、俺が作った曲を一緒に演奏してくれている。こんなステキなことってあるだろうか?「出会い」と「音楽」が俺を救ってくれたのだ。


そして俺の旅は今、自分でもまったく予想の付かない方向に流れている。
これからどうなるんだろう。本当にライブできるのかな?
そんなことを思いながら日々を過ごした。
「いくところまでいってみるか」そんな気持ちだった。



ある日、一人で夕暮れのタメル地区を歩きながら、シルバーショップにふらっと寄った。


そのショップには、シヴァリンガを象った珍しい指輪が置いてあった。
シヴァリンガというのは、ヒンズーの神様シヴァ神のシンボルで、男性器と女性器の性交をモチーフにした形だ。
実は俺は、「ヒンズー教の神様」オタクなのだ。数多いヒンズーの神々の生い立ちやエピソードを調べたり、町で子供たちが売り歩いている神様ポストカードを集めたりするのが大好きだった。
レアなポストカードがあれば、高値でも迷い無く手に入れる(笑)。
今までの旅で200枚くらいの神様ポストカードをコレクションしていた。


ヒンズー神の中で、特に俺は「シヴァ」という神様のファンだった。
だから、そのシヴァリンガをモチーフにした指輪を見たときは震えるくらい嬉しかった。

早速、店の人と値段交渉したら意外と安かった。しかも在庫が15個くらいあるという。
俺はその時、思い立った。「この指輪をTHE JETLAG BAND!!!の仲間達全員に付けてもらおう!」と。


「沢山買うから、もう少しディスカウントしてよ!」とお願いし、店にあるその指輪をすべて買って帰った。
宿に戻り、早速メンバーに見せると、みんな気に入ったようすで指にはめてくれた。
後々その指輪は「ジェットラグリング」と呼ばれ、仲良くなった旅人達に俺が渡し、少しずつ広まっていく。ちなみにrainmanのメンバーもみんな持っている。



カトマンズでは、他にも「ジェットラグTシャツ」を作ったりした。
ネパールでは、Tシャツにミシンでオリジナルの刺繍をする店が多く、デザインを描いて持っていけばその通りに作ってくれるのだ。みんな各自好きな色で「THE JATLAG BAND!!!」という文字が刺繍されたTシャツを作り、それをライブのときに着る衣装にしようと話した。



演奏の上達よりも、こういう「形から入るバンド活動」に俺は力をいれていた(笑)。
肝心の演奏はというと、全員で合わせてみるとあまり上手くいかず、まだ手ごたえは無かった。でも、「なんとなく楽しい」という感覚で、毎日をやり過ごしていた感じだった。



カトマンズでの生活で、もうひとつ記しておきたいのは、俺の「母親」が日本からやってきた事だ。
俺がしばらく旅から帰ってこないので、いったい息子はフラフラと海外でなにをしているのだ?と思ったらしく、航空券を予約してここカトマンズまでやってきたのだ。
今、俺も子供を持つ親となり、少しはこの時の母親の気持ちがわかるような気もするが、この時の俺はただただ母の行動力にびっくりするばかりだった。
母親は5日間ほどネパールに滞在し、俺の旅での生活に密着し、裏も表もすべて見て、そして帰っていった。
(※その時のエピソードの1つはこちら。→ http://ameblo.jp/rainman2009/entry-10205180009.html



そんなこんなのカトマンズライフを過ごし、そろそろ「ポカラ」にみんなで移動しよう!ということになった。

俺は、ライブはポカラというネパール第二の街でやるつもりでいたのだ。


ポカラには、「ホテルひまり」というゲストハウスを経営してる俺の友達「ラジュー」がいた。
以前の旅でポカラに寄った際、とてもお世話になったネパール人で、その後もちょくちょく日本ネパール間で連絡をとっていたのだ。
ラジューはやり手のホテルオーナーで、日本語も達者だった。
ポカラでライブをすることについて具体的になんの計画もなかったのだが、彼に相談すればライブをやれる場所くらいスムーズに確保できるのでは?と俺は思っていたのだ。


俺らは、7人分のバスのチケットを取り、約6時間の移動の末、ポカラにたどり着いた。


事前に連絡してあったので、バスターミナルまでラジューは迎えに来てくれていた。


ラジューは日本語で「いらっしゃい!!だいちゃんひさしぶり!」と言って握手をしてきた。
俺も「ラジュー、世話になるよ!」と手を伸ばした。「これが、先日話をした、俺のバンドのメンバーだよ。みんなをよろしくね」と紹介した。


ラジューは、「ホテルは全室空けてあるよ。好きにつかってくれていいよ!」と言った。
なんとも頼もしいやつである。

俺らはホテルひまりに移動し、各自好きな部屋をとった。
友達だけで、一つのゲストハウスを占拠できるなんて夢のようだった!
ラジューありがとう!!



こうして、俺らTHE JETLAG BAND!!!の、「ホテルひまり」での摩訶不思議な共同生活が始まったのである。



続く。



※写真はシヴァとシヴァリンガ