「ただ大切な人を守りたい」。歌に込められた原発避難者のいま~京都の上平知子さん作詞「あなたへ」 | 民の声新聞

「ただ大切な人を守りたい」。歌に込められた原発避難者のいま~京都の上平知子さん作詞「あなたへ」

2011年の原発事故による放射線防護のため京都に避難した人々の間で、「私たちの想いをリアルに表現している」と話題になっている歌がある。「あなたへ」。避難者支援活動を続けている「京都ピアノとうたの音楽ひろば」代表・上平知子さんが、ピアノ教室などを通じて避難者と交流する中で完成した曲は、21日に京都市内で開かれた「京都と東北をつなぐ私たち・僕たちのコンサート」で披露された。3番まである歌詞に沿って、避難者のいまと、伴走してきた上平さんの想いを伝えたい。避難も支援も現在進行形。


【「支援者ではなく伴走者に」】

1)もう何度、満開の桜を見ただろうか

揺れるブランコ、絵本とおもちゃ、かすかなピアノの音

もうこんなに大きくなったと、

クローバー摘む子どもたちを見つめるお地蔵さま

ただ大切な人を守りたいと、ふるえる心でこの町に来た

私は今日も、この町で生きてゆきます

いつもいつも思っています。大切なあなたへ、あなたへ


 「心の傷は癒されることはありません。そこに寄り添いたいんです。支援者ではなく伴走者として。一つ一つは小さいけれど、それの積み重ねなんです」

 京都市・伏見区役所4階の青少年活動センター。コンサート準備の手を休めて、上平さんは語った。ここは2年前、ピアノ教室を始めた〝原点〟だ。

 2013年5月、ボランティアグループ「京都ピアノとうたの音楽ひろば」を結成。11月から、避難した親子を対象にピアノ教室を始めた。昨夏からはバイオリンも加わった。現在、ピアノ25人、バイオリンは5人の生徒がいる。

 京都府職員として20年以上、働いてきた。避難をためらう男性の気持ちは痛いほど良く分かる。「自分が福島県庁の職員だったら…。やっぱり動けないと思う」。福島に残って働く裏には、生活を支えるという覚悟があるのかもしれないとも考える。事情はそれぞれの家庭で異なる。だから、避難者には定住も帰還も促さない。「つらいと思うけれど、それは家族で決めることです。他人がとやかく言うことではない」。阪神大震災後には、公務員として、ボランティアとして被災地に赴いた。

 ピアノ教室に通ってくる子どもたちにも、自分から話してくれるまでいろいろと尋ねることはしなかった。話してくれるのを待っていた。信頼関係が出来ると、子どもたちは家族のことや学校のことを話してくれるようになった。福島に1人残った夫を想う妻の気持ちを耳にした。一部の避難者が参加している原発賠償集団訴訟も何度か傍聴した。こうして昨年10月、オリジナル曲「あなたへ」は完成した。

 一口に「避難者」と言っても十人十色。歌詞に描かれた風景が全てではない。そっとしておいて欲しいと話す人もいる。「何かをアピールするための曲ではないんです」。上平さんが出会った等身大の避難親子を綴った。京都府には約700人の避難者が暮らしており、うち7割が福島県からの避難。しかし「そういう現状を知らない人も多い」と上平さんは話す。

 「いま、お母さんたちは来年4月以降の住まいで頭が一杯。中には福島に戻るという選択をする家庭もあるでしょう。今後の支援活動はどうなるか具体的には分からないけれど、避難者と伴走していきたいです」

 コンサートでは、ピアノ教室の生徒たちも練習の成果を披露した。一人一人のそばに「知子先生」はいた。子どもたちの伴奏をしているかのようだった。
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(上)「あなたへ」を作詞した上平知子さん。

ピアノ教室などを通じて避難者支援を続けている
(下)作曲を担当した重吉和久さんとのユニットで

曲を披露した=京都市・伏見区役所


【避難者同士つながり、故郷とつながる】

2)たくさんの住宅の群れにも慣れてきた

お茶とお菓子とミシンの音。つながる笑顔の部屋

もうこんなにも時が経ったと

遠い町へ祈りこめて、ともす灯篭の火

あの町で生きるあなたに毎朝、心の中で「いってらっしゃい」と

離れていてもあなたは私の誇り

いつもいつも想っています。愛するあなたへ、あなたへ


 福島県から京都に避難中の母親らでつくる「笑顔つながろう会」。代表の高木久美子さんは昨秋、上平さんから受け取ったCDで曲を聴き「涙が止まらなかった」と話す。「私たちの気持ちを汲んでくれている歌詞で、ジーンときちゃいました。絶望でも希望でもなく、今を歌にしてくれています」。

 毎月開いている「お裁縫会」で手芸品をつくり、販売した収益で西日本の米や野菜を福島に送り届けている。「安全な食」を届けることが主眼になっているのはもちろんだが「届けることでつながりが生まれるんです」と高木さんは話す。特に政府の避難指示が無いというだけで〝自主避難〟と分類される人々の場合、放射線防護に対する考え方の違いから、避難を機にそれまでの友人関係が壊れてしまうケースも少なくないからだ。「食材を通して京都を感じてもらい、それが『京都に遊びに行ってみようかしら』という促しになれば良いですね」(高木さん)。

 昨年の発送後、福島や茨城などから「たくさんの野菜をありがとう」とメールや電話で寄せられた。避難中の妻からは「福島の夫からメールが届いた。ちゃんと食べているのが分かってうれしかった」との報告もある。南相馬市の幼稚園は「園児たちに食べさせたい」と喜んだ。二本松市の女性は「子どもが甲状腺疾患の経過観察中」と不安を吐露した。避難先から須賀川市に戻った女性は「地元の食材しか手に入らないからありがたい」と感謝の言葉を綴った。

 米や野菜、味噌と一緒に「あなたへ」のCDも送った。「歌詞を読んだだけで泣いてしまった」というメッセージが返ってきた。二番の歌詞に登場する「お茶とお菓子とミシンの音」は、まさに「笑顔つながろう会」のことだ。避難をしても、故郷を捨てた訳では無い。わが子や夫。それぞれの「あなた」を想いながら、避難生活は続く。
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(上)「常磐炭鉱節」など福島民謡を歌った

日本民謡若竹会

(下)京都の路地には、至る所にお地蔵様が

祀られている。福島からの避難母子もお地蔵様に

見守られている


【救われた老夫婦の声がけ】

3)1週間が10日になり、気が付けば5年が過ぎた

原告席で仲間と一緒にこぶし握る私

なぜ今、私がこの場所にいるのか

自分でも分からない。ただ普通の母親だったのに

悲しい時も辛い時も、そばには私を支える人が居る

私はいつも信じてる。ひとりじゃない、と

いつもいつも思っています。あの町のあなたへ。この町のあなたへ

愛するあなたへ。あなたへ
 

 「上平さんの歌詞には、私たち母親の気持ちが具体的に、リアルに表現されていますね」

 京都府内の公営住宅に住む30代のAさんは2012年6月、福島県いわき市から2人の子どもと共に避難してきた。「子どもの身体への悪影響が心配で離れることにしました。原発事故もいまだに収束していないですしね」。息子は小学校5年生、娘は3年生になった。

 見知らぬ土地での子育て。「何かあったら遠慮なく言って」。隣室の老夫婦がかけてくれた言葉は、何よりも心の支えとなり、孤立せずに済んだ。今ではカギを預けるほどになった。母子家庭で働きながら子育てをし、「原発賠償訴訟・京都原告団」の1人として国や東電と争っている。頼れる人の存在は何物にも代えがたい。

 「家賃を払うので、今の住まいで暮らし続けたいんですけど…」
 当然の願いはしかし、福島県が2017年3月末で住宅の無償提供を打ち切る方針を決めたことで、叶わなくなってしまった。転居すれば、ようやく築けた人間関係を失うことになる。京都府は、公営住宅からの退去期日を「避難による入居から6年」と定めている。Aさんは2018年6月までは猶予があるものの、それでも1年間延びるだけ。「新たな住宅支援策」の説明会のため京都を訪れた福島県職員に「何があっても、絶対に絶対に方針は覆りませんか?」と迫ったが、職員はあっさりと答えたという。「絶対に覆りません」。
 いわき市には帰らない。「今まで全てが事後報告でした。まだ国や行政、東電の言うことを信用できないんですよ」。京都での定住を考えているだけに、住まいへの不安で頭が一杯だ。原発事故さえなければ、Aさんも
避難や訴訟をする必要のない「普通の母親」だったのだ。


(了)