通称、選挙でえらばれしもがとりあえずの正義となる。しかし、一方でせっかく選挙人が登場しその小さな声のする意見も、とても信ぴょう性に富んだ、しかも新鮮な意見もあるだろうと思う。そうしたことを一気にふるいにかけ、反対意見のするものは、どちらかといえば、排除されてしまう。そこで、政府与党に対して、とりあえず、いじでもしがみついていこうとする人材が増えてしまう。政府与党とすれば、それがしいずれ公務員様、第一党ということで日本の中枢を担い、無論意見は、間髪入れずに浸透させる力をもっている。ただ、やはり、公職選挙法。されど、選挙となれば、その偏り方は、憲法上に照らし合わせるともはや、選挙法は、なにかしら傾いた傾向でその内容を変化させてしまい。どうしても、公務員様の力は、国民の意思とは、乖離してしまう傾向にあるということだ。常にえらばれしもは、第一党の政党、もしくは、それに追従する政党所属者にしかおよそ、チャンスは、まわってこない。その内訳とすれば、本来あるべき姿の公職選挙法とは、国民一人一人に対して、みな平等で差別化する必要はないところ。ところが、選挙戦モードに入る以前には、もとより、事前運動とかされ。一般庶民の力では、その広告塔すら持ち合わせることができない。その効力の一つとして、ポスター張りである。本来は、顔写真などは、選挙戦に入った際。所定の掲示板にしか、取り扱いは、許されない。しからば、正党所属議員様になると、その常に一年中顔写真が張り巡らされている。一度見た顔より、なんども見られた顔のほうが、おのずと性格とか表情とかでとても、親しみやすくなっている。ところが、これを個人でやろうとすると即座に公職選挙法にイエローカード、そして、レッドカードの対象となってしまう。つまり、政党所属義委員でなければ、選挙戦で勝ち得る情報は、とてもとぼしく、ほぼ、無理な形でしか選挙には、登場することができない。であるからして、常にお役人様向けの義委員様の意見しか、採用されず。にっちもさっちもいかないのが、やはり、一般庶民の中の貧乏人様たちなのである。一方、特に選挙にも興味もなく、なんら隔たりない世界で暮らせる者たちは、しいては、中には大賀る餅になり、悠々自適な暮らしを手に入れている者たちも、多数おるのではなかろうか。むろん、日本のトップ企業、二百戦の代表者たちは、それらになっている状態であると予想される。ならば、特に企業人様たちは、現状維持に対して、それだけの心得で十分なところであり、特に選挙で変化を求めることは少ないと思われる。ならば、最終ね一般庶民の中でも、情勢人様たちのその小さな声の意見こそ、聞いていただきたく思うところではあるものの、やはり、政党維持費、その他、もろもろでなんといっても、宗教改革のものとしての君臨し続ける理由図家を怠ってはならないということだろうと思う。かつての教祖様たちも、いずれ、自分たちの信者様たちの行く末を案じ、せめてもの償いとして、バイトで稼いだ沈金をみなに分け与えようという奇遇はあるものの、一日、一円募金程度のあり様では、やはり、みなを幸福にしていくのは、難しそうである。そこで、再び再浮上してきたのが、宗教の自由。かつてのお寺様のおっ省様たちが立ち上げた、日本の仏教徒は、およそ、死者の霊をみなから取り除くという。とても小難しい任務をこなし続けている。そんなおり、みなにもできるかなと、かつての教祖様がそうおっしゃったかどうかは、えらく、時代の錯誤があり。あらためて、みなに本当の宗教の自由を与えてみたいと思いますが。いかがでしょうか。宗教の自由とは、いつでも、脱退可能。さらに波紋なんてとんでもありません。みなね自由と平等の中。過去から現在、未来に至るまでの人間のつらみや、怒りをどうぞ、その磨かれつつある。法力でことをおさめしたるや。見事、悟りの境地に入ることでせいじゅくするのである。ありがとうございます