「生きる意味」を自分に問うとき「生きること」を諦めたくなる事がある。

今の私が何を持って生きているのか。

今の私に何ができるのか。

今の私はどう生きていきたいと思っているのか。

そういうことを考えたときに、自分は汚い思考や感情を持っている人間だと認めざるを得なくなる。


色々なことから逃げるために過食という道を選んできたわけだけど、

「過食をする」ということがあまりにも自分の中で大きな問題になってしまい

過食の裏側にもともとの不安や焦り、後悔すべての感情が置き去りにされたままだった。


生きる意味を自分に問う暇があったら、一生懸命働けば良い。

それも大いに筋の通った考え。

しかしどうしても向き合わなければならない感情を抱いたとき、

生きる意味について考えなければいけない感情をもったとき、

今の私はぶつかっていけるのではないだろうか。

幼稚な思考を持った自分を恥じることなく、自己開示できるのではないだろうか。

余裕も環境も全て整っている。私の状態も落ち着いてる。

今が時期なのではないだろうか。


何が良いか悪いか、上品か下品か、可愛いか不細工か

全ての評価を取り払って丸裸になって、その私を頭から潰す人と私は一緒にいるわけではない。

多分、大丈夫。

きっと、うまくいく。


死にたいと思うことも、人をうらやましく思う事も、劣等感をもつことも全て恥ずかしいことではない。

隠さずにいればいい。隠したいと思ったときは黙っていればいい。

自然に任せれば良い。

たとえ物事に1から10まで、始まりから終わりがあったとしても、私はその順を追って最後まで

行く着く必要はない。決まった順序などないし、評価も結果もなくていい。


真面目すぎるくらい真面目な自分に「いつも頑張ってる」と言ってあげてもいい。

言ったから次の瞬間に私は怠け者になんてならないのだから。

自分を信じて生きたなら、生きることが生きる意味になるかもしれない。

洗面所で自分の顔を見るのが怖いのも、

太っていく自分の体型から目を逸らしたくなるのも、

そして太ることに恐怖を感じることも、

無気力感や不安を感じることも、

全て本当は違うはず。

何か本当に怖いと思っていることや不安に思っている問題と

すり替えて、食べることや食べ物に問題を作っているはず。


不安をそのままの不安で置いておけたなら、

寂しさをその寂しさのままで置いておけたなら、

悲しみをその悲しみのままで置いておけたなら、

食べる理由も、鏡に映る自分を怖がる理由も、

体型の変化に対する恐怖も、ないのではないだろうか。


物事をそのままの状態にしておく勇気。

何も一つのことをひっくり返したり横や斜めから見る必要なんてない。

ただそのまま放っておけばいい。

不安なら不安だといえばいい。

悲しいなら悲しいといえばいい。

泣きたいなら泣けばいい。

それ以上でもそれ以下でもない。

後ろを振り返ることは怖い。

振り返った瞬間、過去に飲み込まれる気がして。


一人であることは怖い。

必死に「自分」を保っている自分自身に気がつく。

しかし、それと同時に自分の強さにも気がつく。


食べてしまって精神的に不安定になるから、

何をするにも自分の能力は不十分な気がしていた。

食べてしまう事実は変わらないけれど、

それが私の能力を劣らせる要素にはならない。


何が普通とか

何が可愛いとか

何がいいとか

常にそれらは動き続ける。

その軸に自分を合わせようとすれば、

合わせられない自分に落胆することになる。


でも、本当はそんなものはなかった。

今の私には、何で痩せているのが可愛いのか

痩せているのが何でいいのか、さっぱりわからない。

もちろん、痩せたいという気持ちは十分わかるけれど。

だからといって太っているのがいいとか、気にならないとかそういうことではない。

ただ、体型や容姿を一番のポイントにして生きていく必要が私にはないだけ。

沢山の人に見られ、評価されて生きる人生を私は歩んでいない。

ただ、自分の居心地の良いように生きれば良い。


食べる私も、食べない私も

何一つ特別なことはなくて、ただ平凡な日常の一部。


たとえ食べることしか考えていなくても

食べて悲しくなったとしても、

私には感情があるのだから悲しくなるのは当然だし、食べることしか考えられないくらい

食べ物で物事を解決したくなるときもある。

全て自然なことなんじゃないだろうか。


本当は後ろを見た瞬間、過去に飲み込まれて前に進めなくなり

誰かに助けられることを期待しながら、後ろを振り向くのかもしれない。

それでも私は、振り返った後、目の前の道をしっかりと見つめながら、前に進んでいる。