プロ野球カードとサイン

プロ野球カードとサインでは、BBM・カルビー・タカラといった、NPBを取り扱うトレーディングカードを中心に選手の経歴を紹介。

アメンバー限定記事は主に球場でサインを貰う(インパーソン)際に更新しています。

80年代〜90年代のOB選手を中心です。


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4つの記事に渡って紹介してきた、タカラプロ野球カードのデザインですが、今回が最後。


タカラプロ野球カードゲーム デザイン(1978年~1984年)編

タカラプロ野球カードゲーム デザイン(1984年~1988年)編

タカラプロ野球カードゲーム デザイン(1989年~1993年)編


1994年から、販売終了となった1998年までご紹介します。


●平成6年(1994年)版 

 セ・リーグにて、巨人・中日の2チームが同率直接決戦「10.8」が行われた年。その裏で、同率最下位決戦「10.9」も行われていたのはあまり知られていない事実。(横浜がヤクルトに負け、最下位に。)




この年からマイナー変更。「背番号と名前」の配置が変更しています。


写真は前年同様、動きのあるプレー写真が採用されています。


モデルカードは、オランダ代表の監督としても活躍している、ロッテ ヘンスリー・ミューレンさんと、2018年からソフトバンクホークスのコーチとなった、中日 吉鶴 憲治さん。


ミューレン選手は、1994年からロッテに加入。日本初のオランダ人助っ人として活躍しますが、翌年の監督交代により構想外に、1995年からヤクルトスワローズへ移籍しました。そのため、ミューレン選手のロッテ時代のカードは、BBM社とタカラのこの1枚。


続いて、吉鶴選手は、トヨタ自動車を経て、1992年にドラフト4位で中日ドラゴンズへ入団。ポジションはキャッチャー。


しかし、当時の中日捕手陣の層は厚い(正捕手:中村武志、二番手:矢野輝弘)

一軍での活躍の舞台が中々なく、1996年にトレードで千葉ロッテマリーンズへ移籍。翌年には98試合に出場するなど、トレードによる成功事例の一つとなりました。


タカラプロ野球カードは、「第三の捕手」までランクインしている場合が多く、吉鶴さんの様に1軍実績がなくても、カード化されている場合もあります。




●平成7年(1995年)版 

 1992年に開幕したJリーグと共に発売開始した、カルビーJリーグチップス。この売れ行きが好調な年となり、この年にプロ野球チップスを販売中止に追い込みます。(1995年、1996年はカルビー関連会社からプロ野球スナックとして販売)



モデルカードは、阪神 亀山 努 選手。 1995年のデザインは特に大きな変更はありませんでした。


亀山選手にとって、1995年からは選手生命のターニングポイントに。


他選手との衝突で、腰椎を骨折。その後、チャンスに恵まれず1997年に現役を引退します。




●平成8年(1996年)版 

 仰木 彬監督率いる、オリックスブルーウェイブが、19年ぶり4回目の日本一に。ホームラン王は、巨人:松井秀喜選手と、中日:山崎武司選手が争い、山崎選手が獲得しました。

その11年後の2007年に山崎選手は、楽天で2度目のホームラン王を獲得。このときには考えられない選手生活ですねw



この年から、タカラプロ野球カードのデザインは、大幅チェンジ!


・カード角の裁断の仕方が変化(若干の角切り)

・デザインの大幅変化(載っている情報には変化なし)


となります。


モデルカードは、近鉄 タフィ・ローズ 選手。


ローズ選手は、3色帽の藤井寺時代は、1996年の1年間だけ経験をされています。翌年からの大阪ドーム時代からのユニフォームの方が印象強いですね。


3色帽のユニフォーム姿の写真が写っている貴重なカードです。




●平成9年(1997年)版 

 1997年から、カルビープロ野球チップスが完全復活。また、タカラプロ野球カードゲームでは、「監督カード」が入り始めました。

このゲームのコンセプトは、選手カードを使いたいタイミングで使用者が出せる、「君が監督だ」でしたが、「監督でも人気のある人もいる。たとえば、長嶋監督になりきったつもりでゲームをやっていただくのもいいのではないか?」という当時の担当者の提案からスタートしたそうです。




1996年版同様、1997年版もデザインを変更。基本的にはプレー写真なのですが、モデルカードのお2人は、前年別チームのため、バストアップ写真でした。


モデルカードは、現在は楽天でコーチをされている、ロッテ 与田 剛さんと、独立リーグBC群馬でコーチをされている、高橋 眞裕さんです。

まず、与田さんは、中日時代、1990年50試合に登板。最優秀救援投手賞、新人王を獲得します。しかし、その後、故障もあり、1996年途中でロッテマリーンズへトレードに。


しかし、1996年、1997年と1軍登板はなく、自由契約に。その後、日本ハムへ。


ロッテ時代は中々活躍できませんでしたが、1997年版のタカラには「移籍後、期待組」の一人としてカード化されています。


続いて、高橋さんは、大洋ホエールズ、横浜ベイスターズの1番ショートのバリバリレギュラー経験者。


同様ポジションの、石井琢朗選手や進藤達哉選手の台頭もあり、出場試合数は減少。1997年にロッテマリーンズへ移籍します。


1999年まで現役生活を送り、そこからは指導者の道へ。


高橋さんのロッテ時代は、BBM社はカード化されていないものの、タカラや未来蜂にてカード化されています。



●平成10年(1998年)版 

 横浜ベイスターズが、38年ぶり2度目の日本一を達成。そして、この年を最後にタカラプロ野球カードの販売は終了します。「採算面で厳しい。」というのが理由の一つでもありました。

確かに、他商品と違い単年ごとでゼロから作っていくカードゲームであるが故かもしれません。



カード配色は、97年・98年と2年連続変更。載せている情報は発売当初から一環して変更はありませんでした。


モデルカードは、現在DeNAベイスターズにて国際担当スカウトを務める、ダイエー ルイス・ロペス選手。


前年までは広島カープで活躍したものの、オフに交渉決裂。


チームの主砲であった、小久保裕紀選手を欠いていた、ダイエーホークスへ入団します。


134試合に出場し、3割近い打率を維持し、活躍をしていたものの、1年で退団をしました。2000年から再びカープでプレーもしています。


ロペス選手のダイエー時代の姿(これは、キャンプ中の写真かと思われる)は、貴重です。



と、いう感じでご紹介してきました、タカラプロ野球カードのデザイン記事はこれにて最後。


実は、発売しているものではありませんが、当時のスポーツカードマガジン社が、勝手に99年度版カードを作成していたのですw


それが、こちら。



1998年に活躍した、6名の選手がカード化されています。


この中の3名がまだ現役!ってのも驚きです。(松坂、上原選手はまだ所属が決まってないですが・・・)


野球のカードゲームは、タカラ社が発売を終了したのち、


・ハドソン  「夢のスタジアム」

・バンダイ 「オーナーズリーグ」


などが商品化されてますが、タカラプロ野球カードほど長く続いた商品はありません。


今は、テレビゲームのほかに、スマートフォンのアプリゲームなどで、タカラプロ野球カードゲームと同様の役割を果たすものがありますし、復活販売まで至ることは中々ないのでしょう。アナログで楽しめる「カード」という文化も衰退が進んじゃいますね。。


このような記事を通して、少しでも発展に繋がればなと私は思います。

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時があいてしまいましたが、タカラプロ野球ゲームの記事


タカラプロ野球カードゲーム デザイン(1978年~1984年)編

タカラプロ野球カードゲーム デザイン(1984年~1988年)編


今回は、1989年~1993年までをご紹介。


●平成元年(1989年)版 

平成初年のデザインは、1987年版に戻りました。このデザインは1995年まで継続されます。

また、この年には、ロッテからも野球カードが発行されます(1990年まで)



カード背景は、1987年、1988年に引き続いて、謎のスタジアムw


カードモデルは、オリックスブレーブス門田博光さん。


1988年に身売りを決めた阪急は、オリックスへ。それと同時に、南海もダイエーへ譲渡されます。


その結果、子供のため単身赴任を避けたかった門田選手は、引き続き西宮球場に拠点を置いた、オリックスブレーブスへ移籍しました。


BBM(ベースボールマガジン社)がカードを発行し始めるのは、1991年。そして、オリックスが西宮に拠点を置き、ブレーブスと名乗ったのは1990年のため、「オリックスブレーブス」のカードが発行されているのは、カルビー、ロッテ、タカラプロ野球カードがメイン。


そして、門田さんは、1990年まで在籍し、翌年からダイエーへ移籍するため、数少ない「オリックスブレーブス時代の門田選手カード」なのです。




●平成2年(1990年)版 

1990年にデビューした選手といえば、ソウルオリンピックで日本代表として、銀メダルに貢献した、近鉄 野茂英雄投手。この年、カルビーは野茂選手をカード化せず。「90年の野茂ルーキーカード」は、タカラのみの収録に。



1990年は、背景が真っ青に。これは、全球団真っ青デザインでした。


そして、この年日本球界最後の在籍となった方、巨人 ウォーレン・クロマティさんです。


ジャイアンツ至上最強助っ人と呼ばれてもいるクロマティ選手は、1984年からジャイアンツに在籍。


オールスターゲームに出場はするものの、打撃は低迷。この年限りで退団し、翌年はロイヤルズへ。


BBMでの現役カードはなく、カルビーとタカラのみ発行です。


また、こんなカードも・・・。



ダイエー 有田修三 選手 なんか変・・・。


実は、有田さんのこの写真は、「 顔 」だけを別で貼り付けしています。


前年まで巨人に所属し、1990年からダイエー。写真が間に合わなかった関係かと思います。


このように、「顔だけ合成(このほかに、1980年の阪神:デーブ・ヒルトン)」や、「全部イラスト(1987年の中日:落合)」みたいなイレギュラーカードが幾つかあります。これを探すのもタカラの楽しみ方ですね!



●平成3年(1991年)版 

セ・リーグでは、5年ぶり6度目の広島カープが優勝。この年限りで、阪神甲子園球場のラッキーゾーンが撤去されます。

そして、シーズン途中にベースボールマガジン社からBBM社からベースボールカードが発売スタート。


そして、タカラカードは1991年から、



バストアップの正面写真ではなく、プレー中の写真が導入されます。


しかし、写真管理は球団によってまちまちのため、中には前年同様のブルーバックでのバストアップ写真のカードもありました。


モデルカードは、近鉄 赤堀元之投手。赤堀投手は、1991年までは背番号「40」で、翌年から「19」に変更されます。


赤堀さんのBBMカード化は、1992年からなので、背番号「40」時代は、タカラのみとなりました。




●平成4年(1992年)版 

 ヤクルトスワローズは、野村克也監督率いる、14年ぶり2度目のセリーグ優勝。90年代の強いヤクルトへ導いていきます。



モデルカードは、2018年ヤクルトスワローズの監督へ復帰する、日本ハム 小川淳司 さん。


ヤクルトの控え選手だった小川選手は、現役最終年の1992年 日本ハムファイターズでプレーしました。


「日本ハムの小川淳司」をカード化しているのは、タカラのみです。



●平成5年(1993年)版 

 サッカー「Jリーグ」が開幕し、この年の流行語大賞がJリーグになるほどの、サッカーブームに。

前年から発売開始していた、カルビー「Jリーグチップス」もサッカー人気と共に、順調な売れ行きになりました。

その結果ではありますが、プロ野球は縮小傾向に。タカラにとっては、テレビゲームに続いて、Jリーグも天敵に。。。



モデルカードは、現在チームの編成部長を務める中日 松永 幸男さん。


松永さんは、1990年にドラゴンズへ入団。1992年に19試合登板し、1993年にタカラプロ野球カードへランクインしました。


松永さんのBBMカード化は、1996年。そのため、1993年のタカラがルーキーカードですね。


このサインは、インパーソンで頂いたのですが、


「このカードは見たことない。珍しい。」


と話をされていました。


今では、1選手・OBカード化につき、選手に何百枚か渡るようになっていますが、タカラはカードゲームなので、選手へメーカーから直接渡すことはなかったようです。


門田選手のような現役時代成績を残された選手の晩年カードや、現役時代の成績はなくても、球界で仕事をされている元選手の貴重なカードが発行されているシリーズがタカラプロ野球カードゲームですね。



次回は、1994年から、発行終了年となる1998年までご紹介します。

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「久々にBOX開けをしたいな。」と思い立ち、落札したのが、こちら

ベースボールマガジン社 1996年版です。

今から21年前のBOXを、ほぼ定価で入手しました。

おそらく、どこか倉庫の奥底に封印されていたのでしょう。上から物が置かれたようなつぶれ方をしていますw

この頃のBOXパッケージには、前年活躍した選手が、

まず、BOXの顔になる正面には、

オリックス イチロー選手、広島 江藤 智 選手。

1995年 イチロー選手は、首位打者、打点王・盗塁王・最多安打・最高出塁率を獲得。チームのリーグ優勝に貢献。

江藤選手は、本塁打王と打点王の二冠を達成しました。


側面には、

ヤクルト オマリー 選手ロッテ 伊良部 秀輝 選手

オマリー選手は、阪神から移籍後、ヤクルトで活躍。1995年は打率.302、打点87を記録、31本の本塁打を放ちます。日本シリーズでの、オリックス 小林 宏 投手との14球の勝負は手の汗を握る勝負でした。

伊良部 選手は、最優秀防御率と、2年連続の最多奪三振のタイトルを獲得し、チーム2位の躍進に貢献しました。


開封し、早速、「あ、昔のBOXはこれが入ってたな。」と思ったのが



カードリスト です。

今は、パッケージの裏などに掲載されている一覧ですが、丁寧に同封されていました。

老舗のおもちゃ屋に、毎日のようにカードをパック購入しに行っていた、小学校の時に、

「これあげるよ」

と店員のおじさんに渡され、「すごい!こんなリストがあるのか!」と驚いたのを思い出します。



パッケージはこのような形。ぱっと見た感じ。

日本のプロ野球のカードだっていうのが伝わってこないですねw

また、同封で、スクラッチカードを入っております。これは、この時代の定番でした。

1996年は、大塚製薬 エネルゲンの広告が。


さて、同封されているカードですが、実に懐かしい。

当時、巨人戦は地上波でしたし、食い入るようにみていたのを思い出します。



ダイエー 監督、近鉄 中村 紀洋 選手、巨人 松井 秀喜 選手、オリックス イチロー選手

皆さん、若いです!!


ちなみに、インサートは、


ロッテ 伊良部 投手の3Dホログラムカード でした。

サインネタも増えた旧ボックス開封、楽しい機会でした。

そのうちまた行います。
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前回投稿した、タカラプロ野球カードの記事  の続きです。


●昭和59年(1984年)版 

この年から長年このデザインが採用され、伝統を積み重ねることになります。

微妙な変化なのですが、選手の背景が年度ごとに変わっていきます。



この編集技術は、クロマキーといい、ブルーバック合成を模したもので、均質な色の背景の前で人物を撮影し背景に別の映像をはめこむなどの使い方です。なので、青背景で選手の写真を撮影したと思われます。



●昭和60年(1985年)版 

この年、テレビ朝日ニュースステーションがスタート。おニャン子クラブの「セーラー服を脱がさないで」がヒット。

プロ野球では、阪神タイガースが日本一に!タイガースフィーバーに湧いた年でした。




前年とデザインを比較すると、背景が地味に。

この色は、チームによって分かれており、様々なカラーがありました。


カードのモデルは、現在DeNAベイスターズのGM補佐(ファーム担当)を務める、竹田 光訓 投手と、

ニコニコ動画の生放送でも活躍されている、ロッテ 愛甲 猛 内野手です。


竹田投手のカード化は、タカラプロ野球カードのみ。1984年のドラフトでは、明治大学の同期 広沢 克(広澤 克実)選手と共に注目されました。


入団2年目に32試合に登板したものの、あとは「・・・」でした。


愛甲 選手は、投手から転向し、前年は2試合に留まりますが、ここからオリオンズを代表する選手と駆け上がります。



●昭和61年(1986年)版 

7月に行われた総選挙では、自民党が圧勝。中曽根 康弘が3期目の首相を務めることが決定します。

プロ野球では、ロッテ 落合博満、阪神 バースが3冠王を達成しました。



カードのモデルは、ヤクルト 鳥原 公二 投手、南海 佐々木 誠 外野手です。


この年の背景デザインは、実際の球場が使用されました。


セ・リーグ全球団→横浜スタジアム

パ・リーグ全球団→西武ライオンズ球場


です。


なぜこのチョイスかを考えてみたのですが、


横浜スタジアム→1978年開場

西武ライオンズ球場→1979年開場


「セ・パそれぞれで新しくできたスタジアム」を採用したのかもしれません。


本来ならば、ヤクルト、南海ともにビジターユニフォームになりますが、ホームユニでそれぞれの球場にいるのは違和感がありますねw


鳥原 投手は、この年に現役生活を終え、2016年までヤクルトの裏方として活躍されました。サインを頂いた時は、「こんなカードあるんだ!」とおっしゃってました。


佐々木 選手は、この後南海・ダイエーを代表する選手に。92年には首位打者になります。背番号「0」の前は、このカードの「57」でした。



●昭和62年(1987年)版 

国鉄が民営化され、JRに。

日本一は、西武ライオンズ。桑田投手がいたジャイアンツを破り日本一に輝いた清原 選手の涙が印象的なシーンでした。



この年の背景画像は、セパ両方とも球場に。 どこの球場か不明です。


セ・リーグ球団 → 左スタンド/右ダグアウト

パ・リーグ球団 → 左ダグアウト/右スタンド


になっているようでした。これは細かいこだわりです。


カードのモデルは、中日 宇野 勝 選手と、阪急 今井 雄太郎 投手です。


ドラゴンズのユニフォームは、この年の開幕戦にお披露目。製作の都合上、それに間に合わなかったため、前年までのウルトラマン隊員ユニフォームに。


宇野 選手は、前年83試合に留まるものの、この年はフル試合出場。

昭和最後の完全試合達成者 今井 投手は、この年から陰りが見え始め、その後ダイエーにて現役生活を終えます。



●昭和63年(1988年)版 

今にも続く、朝日放送「探偵ナイトスクープ」がスタート。8cmシングルCDが登場。光GENJIが、ガラスの十代などのヒット曲を連発します。高卒新人だった、立浪選手の応援歌として使われました。

この年も西武ライオンズが中日ドラゴンズとの日本シリーズを制し、日本一。



この年のデザインにはマイナーチェンジが。全球団グレーをベースに、選手写真がブラウン管のテレビ画面型に。


子供の玩具としては、ファミスタなどのテレビゲームの全盛期。それへの対抗意識(むしろ寄せてる?)感が否めないデザインにw


また、東京ドームがこの年から開場。ドームの基本色彩が「グレー」なため、その色を採用したのかもしれませんね。


カードモデルは、現在はジャイアンツの3軍監督を務める、川相 昌弘 選手。


入団から背番号が「60」だった時代は、1988年までのみ。翌年から「0」に。

60のカードを発行しているのは、タカラ社のみです。


っと、記事が長くなるので、今回は区切りのいい昭和時代で終了です!


タカラ社としては、テレビゲームとの戦いがこの時代あたりからスタートしておりました。

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私の収集対象で、選手紹介記事にもちょくちょく出てくるのが、



プロ野球ゲーム (プロ野球カードゲーム)です。

このカードは、タカラ社(現:タカラトミー社)が、1978年(昭和53年)から1998年(平成10年)まで販売した、ボードカードゲームです。


タカラ社といえば、ロングセラー商品が有名で、「リカちゃん人形」や「チョロQ」、「人生ゲーム」など手にとって遊べる玩具が強いイメージがあります。


1983年に、テレビゲームファミリーコンピューターの発売から、子供の玩具=テレビゲームが主流となっていき、プレイステーションが生産7,000台を突破した1998年に、タカラカードは生産終了を迎えました。


時代の流れと共に衰退していっていたカードゲームだったのですが、このカードはゲームをしなくても非常にみていて面白い。


今回は、そのデザインを、私の所持しているカードにてご紹介します。



●昭和53年(1978年)、昭和54年(1979年)版

ヤクルトスワローズが創立29年目で初の日本一に輝いたのが1978年。

ピンクレディーが全盛期で、UFOやサウスポーなど今でもポピュラーな曲が流行ります。




今回ご紹介するカードは、1978年 巨人 篠塚 利夫 選手、1979年 ヤクルト 水谷 新太郎 選手です。


篠塚さんは、1978年まで背番号「37」。翌年から期待を込め、「6」に変更されます。


そこから篠塚さんは巨人が誇る、ヒットメーカーとして成長していくのでした。


このカードデータを見ても、出場試合数18、守備ランク「B」と、これから首位打者2回、ゴールデングラブ賞4回、さらに無失策記録を続けた選手とは思えませんねw


そして、水谷さんは、1978年の日本一へ特に守備の要として貢献しました。


昨年、インパーソンでサインを頂いた際には、「おっ、めちゃくちゃ懐かしいカードだな。」と反応されていました。


1979年までは、選手の写真は小さいデザインでした。


選手にとっては、当時の表情がはっきりと分かる、人によっては恥ずかしいカードですねw



●昭和55年(1980年)版

この年は、王 貞治 選手が現役を引退。

国勢でいうと第一次湾岸戦争(イラン・イラク戦争)が9月に勃発しました。



モデルカードは、前年一軍未出場でカード化された、巨人 鈴木 康友 選手です。


この年から、一軍の試合に出場し始め、中日→西武と渡り歩きました。


篠塚さんをはじめとして、ブレイク前の選手をなぜカード化できていたのかというと、


タカラ社のプロ野球カード担当者はカード発行前年に、1チームごと球団担当者と打ち合わせをはじめ、


①翌年30名の人選(トレードなどを含め予備選手をピックアップ)

②4月から選手データの収集

③80試合くらいから選手の特徴の割り出し


を行っていたそうです。


12球団×30名=360選手分ですから、途方も無い作業です。ましては、当時はエクセルなどのパソコンでの管理もできなかったでしょうし。


1980年(昭和55年版)から、選手写真が大きくなりました。



●昭和56年(1981年)版

前年に藤田 監督に代わった、読売ジャイアンツが8年ぶりの日本一を達成。

ピンクレディが年度末に解散コンサートを後楽園球場で行いました。



この年のモデルカードは、当時1,2軍を行き来していた、中日 川又 米利 選手


川又さんといえば、背番号「23」の印象強めですが、入団から1982年まで背番号「46」


1985年にレギュラーを確保し、1988年のリーグ優勝に貢献します。現役晩年は、代打の切り札をまかされていました。


この年のデザインから、選手写真が丸型になり、


上部:年度、チームロゴ

中部:選手のバストアップ写真

下部左:名前、背番号

下部右:プロフィール詳細


と、デザインの基本体系が決まったように思われます。



●昭和57年(1982年)、昭和58年(1983年)版 

マイケルジャクソンが「スリラー」を1982年に発表。ダンスが流行りました。

プロ野球では、所沢へ移転した西武ライオンズが24年ぶりに日本一。ここから西武黄金期が訪れました。



カードモデルは、


現在ソフトバンクホークのプロスカウトをされている 南海 藤田 学 選手(1982年)


今年から日本新薬の監督をされている 近鉄 吹石 徳一 選手(1983年) です。


BBM(ベースボボールマガジン)社のトレーディングカードが発売されたのは1991年。


お二人の引退はそれより前のため(藤田さんは1986年、吹石さんは1988年)


現役時代のカードを発行されているのは、カルビーのプロ野球チップスかこのタカラ社のプロ野球カードのみなのです。


藤田さんは、新人王の活躍もありカルビーでカード化されてますが、吹石さんはタカラではほぼ毎年ランクインするものの、カルビーでのカード化は実現していないようです。この辺も収集意欲を掻き立てる要員ですね。


この2年間は、選手のバックカラーがイエローと、中々奇抜な色が採用されていました。



●昭和59年(1984年)版 

映画ターミネーターが発表されたは、この年。

阪神 掛布選手と中日 宇野選手がホームラン王争いをし、直接対決の際、両者とも5打席連続敬遠。さらに、2試合目も敬遠をし続け、両者とも10打席連続敬遠記録を樹立しましたw


モデルは、サッシーこと、ヤクルト 酒井 圭一 選手


甲子園での活躍で、超高校級選手として、1977年にヤクルトスワローズへ入団。


度重なる怪我で好調を維持できず、1984年から背番号は23に変更されます。


この年は奮起!中継ぎとして42試合に登板しました。きっかけ年のカードです。


背番号「18」の頃の酒井さんはカルビーで発行があるものの、「23」はタカラのみとなっています。


この年から、デザインを一新。このデザインが1995年まで採用されます。選手の背景が謎のボカシになりましたw



と、第一弾のデザイン編はここで紹介終了。


中途半端な年ですが、この年から発行終了年直前まで、マイナーチェンジがされていきます。


それを次記事の機会でご紹介できればと思います。

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