寒い安曇野
有明山の雪化粧はまだ続いている
阪神淡路大震災から30年
時の政権は自社さきがけの連立で村山首相(社会党初の首相)だった
災害時の混乱でに政権に被害状況は正確に伝わらず初動は失敗
自治体、自衛隊、政府の連携はある程度混乱が収束するまでうまく行っていたとはお世辞にも言えない
被災地の医療現場でも、負傷者は医療機関に選別(トリアージ)されずに運び込まれ、救える生命もとりこぼしていったという
この災害が『ボランティア』という言葉と行動を日本に根付かせるきっかけとなったが、受け入れる体制も整っておらず善意が混乱の元にもなった
たが、
この災害の教訓は東日本大震災に確実に活かされていた
発災時の3月11日14時46分、自衛隊は災害に即応
発災とほぼ同時に防衛省内に災害対策本部が設置され、訓練飛行中だった海自のP3C哨戒機に状況確認の指令を発し、18時には大規模震災災害派遣命令を、19時30分には原子力災害派遣命令を発し、以降長くも短い自衛隊の奮闘が始まった
自分が南相馬市にボランティアに行った5月中旬
受け付け事務所は実に機能的に運営されていた
南相馬市の職員と自衛隊員は連携し、ボランティアを必要とされている個人宅への人員の割り振りはパソコンで管理され、自分が事務所で受け付けてから1時間もしないうちに現場に派遣された
