1990年に起きた渋谷のチーマー連合VS関東連合・三茶愚連隊で三茶愚連隊が敗北して以降、渋谷のチーマーたちは数百人規模にまでふくれあがり、集団で暴行する、未成年の少女をレイプする、妊婦を暴行するなど傍若無人な言動を繰り返していました。

 

そのことに怒りを覚えていたのが三軒茶屋のS49の初代ブットバース総長の松浦英樹さんでした。

 

松浦英樹さんは三茶愚連隊のメンバーに対して、「なぜ渋谷のチーマーたちに返しをしにいかないのか、三茶愚連隊のメンバーだけでなく三茶の一般人まで多数やられてるじゃないか!」と詰め寄りました。

 

しかし三茶愚連隊は渋谷のチーマー軍団にビビッてしまい下を向いて無言となってしまいました。

 

松浦英樹さんは「三茶愚連隊がやらないなら、俺がやるしかない!」と渋谷のチーマー軍団の征伐に乗り出すことを決めました。

 

松浦英樹さんは世田谷区の番長7人を集めて打倒渋谷のチーマーを掲げます。

 

その中の番長7人のうちの1人が新宿とも繋がっていて、新宿の人たちも渋谷のチーマーたちに酷い目に合わされている、渋谷のチーマーたちは許せない!ということで、新宿の番長たち15人も加わることになりました。

 

その時の新宿を締めていたリーダーが初代ブットバース副リーダーの藤田さんでした。

 

そこに松浦さんの友達の朝鮮学校の番長のチュンシンさんも加わりました。

 

世田谷区と新宿区の番長23人、朝鮮学校の不良グループは渋谷のチーマー征伐に動き出しました。

 

まず23人は渋谷のセンター街からマクドナルド、宇田川交番前、西武デパート前などチーマーがいそうなところを見つけては根こそぎぶっとばしていきました。

 

そして瞬く間に初代ブットバースは渋谷のチーマーたちを制圧することに成功しました。

 

しかし、2代目、3代目になるとブットバースは松浦英樹さんが嫌っていた渋谷のチーマーたちと同じような集団になっていきました。

 

また揉め事が起きると、自分たちでは解決できず松浦さんが解決するということになってしまっていました。

 

そのため松浦さんは「お前らもう解散しろ!」ということになり、ブットバースは解散することになったのでした。

 

渋谷はその後、松浦さんの世田谷の後輩のPBB、トップJが渋谷を支配していくことになりました。

 

松浦さんの仲間の初代ブットバース幹部の高村有柾さんは用賀に関東連合・用賀喧嘩会を設立します。

 

すぐに三茶愚連隊をしのぐ関東連合一の武闘派組織を作り上げました。

 

高村有柾さんは現在は稲川会佃政一家の本部長です。

 

松浦さん、高村さんの後輩のPBBの代表の天野信也さんの下で世田谷支部長をやっていたのが堺組組長代行の原田さんでした。

 

原田さんの下にいたのが見立派関東連合の見立さん、柴田さん、松嶋重さん、小池さん、石元太一さん、伊藤リオンさんたちでした。