再往Ⅴ
レストラン入り口の自動販売機で、煙草を購入した。店内には一組の中年カップルと受験生が数人、ばらつきながらいる。その多くが、お替り自由のアメリカンコーヒーだけを手元に、くだらない話やぶ厚い教科書を主食にしている様子だ。でもそれが”深夜の物語”なのだろう。何十時間かカーテンが締め切られ、時計もなく、時間が確認できないとしても・・・この風景は、間違いなく夜特有の静けさであり、暗さなのだ。
「なんか、いちいち細かいんだよな・・・」
店内にそうつぶやいた。
「どうかされましたか?」
「いえ。なんでもありません」
と、僕は頭を震り、問題点を切り替えた。そして彼女と向き合う格好で、窓際の隅の席に腰掛けた。
「とりあえず、注文しましょうか?」
彼女は、恋人のような振る舞いで、メニュー表を二人の中間に置く。僕は、彼女の言葉に顔をしかめる。”とりあえず”とは、まず初めに起こすアクションのことだろう。つまり、本来の目的を彼女は見失っている。
僕は握り締めている小さな箱を、それとなくテーブルの上に転がし、
「でも、とりあえずは・・・」
と、 さりげなく言った。
「とりあえず、注文しましょうか?」
彼女はまったく質問を変えず、煙草を隠すようにメニュー表を広げる。
「あのう・・・」
テーブルの下で上下する足が、何よりもそれを求めている。しかも、急ピッチに震えが増していくのだ。それもこれも、美味しそうに煙草を吸う中年カップルと受験生が、彼女越しに映っているせいだ。ほんのすぐだった。カラッカラの口の中に、唾液が沸き始める。
「ご飯でも食べましょうか?」
彼女は、僕を掌に転がすように淡々と言った。ある意味では当然の会話だ。でもその一方では、的確に追い詰められて行く僕がいる。
”ご飯が煙草なんだ”と大声で叫びたい。”なんのために来たんだ”とも怒鳴りつけたい。しかしそこは
”大人なんだ”とグッと堪え、目を細くして灰皿を探す。そしてすぐ見つかった。煙草と同じ状態で、メニュー表の下敷きになっている。
「ううっ・・・」
思わず声をあげてしまった。
「そんなに吸いたいんですか?」
彼女は、冷静沈着な態度でそう言った。
「いえ、別に大丈夫ですよ」
初対面の人に、今以上の弱さを見せるわけにはいかない。ごく小さな僕の抵抗だった。しかしそれは反射的なもので、何分も我慢できなかった。
「えっと・・・たばこ吸ってもいいですか?」
僕は勇気を奮って、声を大にして言った。
静まり返る客のざわめき・・・遠ざかる店員の足音・・・バラード調に流れゆく淡い音色・・・。甘く、胸がギュッと苦しい。息をしているのだろうか、なぜか鼓動は高鳴るばかりだ。
彼女は向日葵のような笑顔で、ただ口をゆっくりと開いた。
「はい。もちろんです」
そのなんとも言えない答えに・・・ただ愛を感じた。初めて誰かとの繋がりを感じたのだ。孤独な自身の心が、胸の奥深くで嘆いている。きっと、その想いに共鳴したのだろう。一粒ずつ零れ落ちる涙が、なによりも透明だからだ。そしてその涙は、僕だけのものではなかった・・・。
彼女もただ泣いている。マスカラ色の少し黒い涙が、やさしい感じに頬を伝って行く。その黒ずんだ涙が僕の目に映ると、延々と霞がかり、透明にしか見えない。
「なんか、かっこ悪くてごめんね」
と、僕は目を擦り、スムーズに煙草を一本だけ取り出した。そして泣き笑いを浮かべ、カチッと火をつけた。
「私の方こそ、なんだかごめんね」
彼女はそう言った途端、指に挟んでいた僕の煙草を鷲掴みにし、さらに続けて言った。
「余韻にも浸れないの?なんのための涙だったの?それをちゃんと考えて下さい・・・」
と、化粧を乱しながらも、しとしと涙を流し続けている。
「分かった。ちゃんと考えるから。とりあえず、これで冷やさないと」
僕は慌てふためき、お絞りを彼女の掌にあてた。
それからしばらくは、二人して黙ったままだった。
30分ほど膠着状態が続き、落ち着きを取り戻した彼女が沈黙を破った。
「とりあえず・・・お絞りになっちゃったね」
「そうだね。なんだか笑える話だよ。でも、どうして急に泣いたり、たばこを握り潰したりしたの?」
「貴方の代わりって言ったら怖いかな?ただ、状況がなんとなく似てたんだ。昔の私と・・・」
「昔の私とは・・・。あっ、そういえば、自己紹介まだだったね。鈴木純、31歳です。よろしくね」
「えっ、まさか・・・」
と、彼女は、一瞬だけ目をパチッと大きく開いた。
「んっ、どうしたの?」
「ううん。なんでもないの気にしないで・・・。私は高木文、って言います。”あや”って呼んでね。ちなみに同い年だよ」
「分からないけど、気が合いそうだね。それで・・・突然で悪いんだけど、今日これからどうしようか?明日会社もあるし・・・」
作戦的かもしれない。しかし、孤独な自身の感情をなぜか抑えられ切れない。
「じゃあ、こうしようか?一緒に私の家まで行って、駐車場にある車に乗り込み、速すぎる夜景を何度も楽しんだ後、無事に純君の家に辿り着く」
「ありがとう。そうしようか」
ちょっぴり残念な感じがした。でも、”傍にいれるだけでいい”それが本音だ。席を立ち上がり、テーブルの上を見つめると、灰皿には煙草が”一本だけ”ぐちゃぐちに千切れていた。心が晴れたのかもしれない。嬉しくて全身で笑えるかもしれない。
だから僕は、テーブルの上に、煙草の箱を置き去りにしたのだ。そして、ただの一回も振り返らなかった。