<あらすじ>

子供の頃に、事情により兄妹のように育った黒木聡志と白井優奈。二人は十三年の時を経て、優奈が就職のために上京した東京で再会する。密かに惹かれあいつつも、過去の出来事に縛られる二人。また、黒木の恋人・美和子も優奈の存在に気づき、ある計画を企てる。そんな中、黒木は過去との決別のために、長い間音信不通であった母との再会を果たすため金沢へと向かい、母の友人・坂井志乃宅を訪れる。志乃から聞く、秘められた過去の出来事とはー。



夜明けのひかり 第二部 二十五話



志乃の声には、どこにも詮索するような声音などもなく、ただ、ぽつりと呟いた独り言のような趣さえあった。或いはその無心な様子は、志乃が気を使ってくれているのかもしれなかった。志乃は知っているはずだ、黒木が――たった一人の息子である自分が、母から逃げるように東京へと転居してしまったことを。あの大きな屋敷に一人ぼんやりと佇む母を、志乃はどう思っていたのだろうか。薄情な息子と思われていただろうか。黒木は箸を置いて言った。

「母は……元気にしています」

多分、と心の中で付け加えた。母が入居する施設から、毎月のレポートが届けられていた。それによると、母は大きな病気をすることもなく、日々穏やかに過ごしているらしかった。定期的に開かれる家族会の知らせも何度もあったが、黒木が出席したことは一度もない。それでも、それに対する批判のような手紙も電話も、母から届いたことはなかった。

丼からはうっすらと湯気が上がり、この古ぼけた室内の空気に溶け込んでいった。ふと目を上げると、湯気の向こうに、志乃のしわくちゃの笑顔があった。

「なぁに、むずい顔しとるんがいね。聞くまでもなかったわいね、靖子なら元気に違いないけぇ、うちも心配しとらんて」

志乃は、さ、はよおあがり、と言って丼に箸をつけた。昔から志乃はこうだった。女将という立場上だろうか、相手の表情をよく汲み取り、決して無駄な詮索や余計な口出しはしない。今はその心遣いが、有難くもまた心苦しくもあった。もし、志乃がもっと突っ込んでくれたら。今日ここに来た本題も、堰を切ったように自分の口から流れ出してくるのかもしれないのに。いや、それは全く自分勝手な、子供じみた希望だ。秘密を知りたいならば、自分の手で、長い間閉ざされてきた扉を開かねばならないのだ。もう自分は、あの時のような子供ではない。ずっと長く、心の奥にしまってきた秘密の扉がまさに、開かれる時が来ているのだ。

黒木は箸を置き居住まいを正すと、一呼吸おいて、静かな声で切り出した。

「志乃おばあさん。教えて頂きたいことがあるのです。私の……黒木の家で、十四年前に起こったことを。私は当時まだ高校生だった。だから、あの時のことを全て理解しているわけではありません。けれど……けれど、私は本当のことを知りたい。例えそれが、どんな事実であっても」

黒木は小さな湯呑に入ったお茶を一口飲んだ。やけに、喉が、乾く。これまでずっと疑念に思っていたこと、けれど誰にも言えなかったことを、今ここで口に出すのが恐ろしかった。声にすると、それがまるで本当のことになってしまう気がするのだった。

古ぼけた室内の空気が、体にまとわりついてくる錯覚に襲われる。黒木は言い終えると、口を噤んだ。その質問に対する明確な答えを、自分は望んでいるのだろうか?分からなかった。いやそもそも、明確な答えなど得られないのかもしれない。何しろ、当事者は……父である宗一郎も、白井徹也、詩織夫婦も、既に故人なのだから。当時の関係者で生きているのは、もはや母だけだ。きっと全てを忘れてしまった母、あの時から、自分の世界でただ一人、無邪気に暮らしている母だけなのだ……。黒木は真っ直ぐに志乃を見つめた。

志乃は何度も、小さく頷くような仕草をしてから、微笑んで言った。

「そうやねぇ~、いつか、聡志くんがこうして来るんやって思うとったがねぇ、いざこうしてみると、よう喋られんがいね」

志乃はふふふ、と小さく笑い、箸を置いた。そして、湯呑のお茶をゆっくり啜ると、少し考え込み、思案しながら口を開いた。

「あたしが知っとることもちょっこしやねんけど、ええがいね。このまんま、棺桶まで持ってこう思うとったげんけど。聡志くんの、心の中にだけしまっといてま。今思っても、あれは夢だったのかと思う時があるさけ」

黒木は頷いた。もちろん、他言するつもりなどなかった。志乃は、空になった二つの丼を脇のお盆に載せながら、一瞬、昔を懐かしむように目を細め、口を開いた。


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