月曜日の朝礼はこれといった緊急連絡もなく、優奈は自分のデスクに戻ると週末たまっていたメールをチェックした。注文していた事務用品の納期だとか、社内会議室の予約依頼。そんな、ありふれたタイトルのメールがいくつか、受信ボックスに入っていた。古いものから順に開けていこうと思った時、一番上に、無題のメールがポン、と入ってきた。送信者名は、「小林リカ」だった。

『おはよ!ねえ、あれから大丈夫だったの?週末、連絡が取れないから心配したんだよ!!ごめん、前島のバカをブロックできなくて。今日ランチ一緒に行ける?いつものイタリアンでどう? リカ』

ちらり、と目を上げると、遠くの席で、机に置かれたパソコンのディスプレイに隠れながら小さく手を振っているリカと目が合った。優奈がこくん、と頷くと、リカはにこっと笑ってディスプレイの向こうに消えた。

今日は月曜だからか、優奈達のいる総務部はとても静かだった。たまに内線が鳴って誰かが出ているが、会話の内容が筒抜けだ。こんなに静かな時は、ファイルをめくるだけでもなんとなく気を使ってしまう。

「白井さん」

優奈がなるべく静かに書類をファイルしていると、急に声をかけられた。ぱっと顔を上げると、廊下へ続くドアから、部長が顔をのぞかせていた。走って来たらしく、肩で息をしていた。

「あ、はい」

「ごめん、お茶入れてもらっていい?B会議室。受付の子が他に行っちゃってていないんだ、今。ええと、六人分ね」

「はい、分かりました。お持ちします」

この静かすぎる空間から抜け出せることに少しほっとし、優奈は席を立った。会議室へお茶を届けると、中央に座っていた人の良さそうな部長は、にこりと笑って手を振った。

「あ、ありがとう。テーブルの上、資料の山だからその辺の空いている所に置いておいて。あと適当にやるから」

「はい」

そう言うと、部長はすぐに話に戻った。話し合いの声が飛び交う中、良く見ると、室内にいるのはみんな社内の人間のようだった。社内の打ち合わせだったのかと納得し、壁に寄せられたテーブルの上にお盆を置こうとした時。ふと視線を感じて顔を上げると、前島裕明が端の席に足を組んで座っていた。優奈と目が合うと、前島はふっと笑った。反射的に目を伏せる。お盆を置いて急いでドアに向かった。一礼してドアを出るとき、前島の姿が目の端に入った。もうこちらを見てはいないようだった。少しほっとしてドアを閉めた。




「やっぱり!!アイツ無理やりホテルに連れて行ったんだ!!」

昼時のイタリアンレストランで、リカの声が大きく響いた。優奈は思わず周りを見回してしまう。リカはおっと、と取ってつけたように言いながら口に手を当てた。右隣の席に座っていた綺麗な女の人がちらり、とこちらを見たが、ざわついた店内では、それほど目立ってはいないようで、二人揃ってほっと息をついた。

「ごめんごめん。だって、道ではぐれちゃうから……。営業部のやつら頼りないし。前島、強引だし。優奈、あいつが先輩だからって遠慮したらだめだよ!」

「うん、ありがとう、リカ」

「それで……」

リカは、周囲をきょろきょろ見回しながらテーブルに身を乗り出してきた。

「まさか……本当に、つまりその、そういうこと、されちゃってない……よね?」

優奈はごくんっと変な音を立ててオレンジジュースを飲みこんだ。むせてしまう。

「ごほっ!……う、うん、あ、ありがとう。大丈夫」

「本当にほんと?嘘、ついてない?私には、隠さなくてもいいんだよ?」

リカは潤んだ瞳で優奈の顔を覗き込んだ。そのあまりにも真剣な様子に、笑ってしまう。

「本当に、ほんと!大丈夫だったの」

リカは大きくため息をついて椅子にもたれこんだ。

「ああ、良かった。もしそうなったら、前島のやつ、人事に訴えてやろうと思ってた」

リカは言いながら、口をすぼめてコーヒーを飲んだ。途端にぶっと吹き出す。優奈は驚いて腰を浮かせた。

「だ、大丈夫っ?リカ」

「あ、あづづっ!あっちぃ~。熱すぎるよ、これ!……ね、でもさ、どうやってあいつから逃げたの?ホテルまで行ってみすみす逃がすなんて、前島らしくないよ」

「え、えっと……その……途中で、帰っちゃったの、前島さん」

「ええ?!帰った?なんで?なんで帰ったの?」

「それは……」

黒木が――。でも、なぜか、素直に言葉に出来なかった。確かに、黒木のことを言わない限り、前島が突然帰った、とは理解しがたいだろう。だが、そもそも、リカにも誰にも、黒木のことを言ったことはなかった。大体、黒木との関係を説明するところから始めなければいけない。ただの年の離れた幼馴染?古い知り合い?そう、そうかもしれない。けれど、単純にそう紹介するには割り切れないものが、自分の中にあるのだった。

優奈は何と説明したらいいものかと、ストローでオレンジジュースを無意味にくるくるとかき混ぜた。カランカラン、と氷の鳴る音がした。リカが、不思議そうな顔で優奈を見ている。リカなら――リカになら、黒木のことを、話しても、いいかもしれない――。

「えっと……あのね……」

優奈が顔を上げてリカの瞳を見た時。すっ、と隣の席から白く細い指が伸びた。

「すみません。これ、落し物ですよ」

はっとして横を見た。隣の席に座っていた綺麗な女性が、にっこりと微笑んで優奈の水色のマフラーを手にしていた。先ほど驚いて腰を浮かせた拍子に、椅子から落ちてしまったらしい。優奈は慌ててマフラーを受け取り、ぺこりと頭を下げた。

「あ、ありがとうございます!」

優奈が顔を上げると、女性はいいえ、と言って微笑んだ。その女性は深緑のワンピースにゴールドのネックレスをしていて、髪は綺麗に巻かれており、いかにもお嬢様という雰囲気を醸し出していた。男性なら、きっとこういう綺麗な人に憧れるんだろうな……などと優奈が思っていると、ゲッ!というリカの声が耳に入った。

「やばいよ、優奈!会社戻らなきゃ。昼休み終わっちゃう!」

ガタガタとリカが伝票を持って会計に向かった。優奈も慌てて椅子から立ち上がる。すると。

「……優奈ちゃん。と言うのね」

「え?」

ぽつり、と呟かれた言葉。優奈が振り向くと、マフラーを拾ってくれたその女性は、優奈と目が合うとにっこりと微笑みかけ、それから何事もなかったかのように、テーブルに向き直り食後のコーヒーを飲んでいた。

「?」

気のせいだろうか?彼女に、名前を、呼ばれたような気がしたのだけれど。優奈は不思議に思いながらも、リカの待つ会計に向かった。財布を出しながら、何気なく彼女の方を見ると、やはり先ほどと同じように、優雅な仕草でコーヒーを飲んでいた。やっぱり、気のせいだったのかもしれない。優奈は慌ててお金を支払うと、リカと共に店を出た。その女性が、岩薗美和子だとは、この時の優奈には知る由もなかった。


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