完全な片思いなんだから。私は心の中で呟いた。
サークルの友達だった二ノ宮くんの誘いで、何気なく顔を出した飲み会の席。彼が、いた。法学部の私にはさっぱり分からない話ばかりだったけど、物静かで、とても落ち着いた口調の彼は、同年代の男友達しか知らなかった私にとっては、とても魅力的にうつった。それからは、何かと託けては、研究室に顔を出した。大抵は、二ノ宮くんに忘れ物を届けたり、メールでも済むのに、わざわざサークルの飲み会の場所を伝えに行ったり。そんな私の気持ちに勘付いているのだろうか、二ノ宮くんは、いつも誰かから私との仲をはやし立てられると、笑って否定していた。
二ノ宮くんは、いわゆるイケメンではなかった。自分の容姿にも無頓着なようで、いつもなんとなくサエない服を適当に着ていた。でもそのどこか飄々としたキャラが憎めず、皆から(特に男性から)とても慕われているのだった。
そんな二ノ宮くんに甘えてしまって、私はいつも、二ノ宮くんをダシにしては彼に会いに行っていた。物静かな声、優しい口調が大好きだった。ある時、たまたま訪れた午後の研究室で、彼は、キミも良かったら、と言って、学生にお土産で買ってきたのであろう、外国のチョコレートを差し出した。僕は恥ずかしいけど、これに目が無いんだよ、と言って。私はその言葉を忘れなかった。これでバレンタインにチョコを渡す口実が出来た、と思った。当日には無理でも、学会から帰ってくるのを待って、こっそり渡そう、と思った。
そう、完全な片思いだったんだから。私はもう陽も暮れて青白い満月がうっすらと浮かぶ空を見上げた。頬を刺すように空気は冷たい。小花模様の紙袋がカサカサと音を立てた。
二ノ宮くんと学食の前で別れてから、重い足取りで、でもとりあえず研究室の方へ向かった。目的の階でエレベータを降りたところで、走ってきた小さな女の子とぶつかった。少女は、ごめんなさい、と丁寧に謝って、廊下を奥の方へと消えていく。扉の軋む音と共に、私の耳に、静かに響く大好きな声が届いた。廊下を走ったらだめだぞ、と。
私はくるりと踵を返した。エレベータに乗って、でもどこへ行けばいいか分からず。とりあえず人気のない屋上へ出たのだった。
「やっぱり、だめ、だよね」
私は膝を抱えて座り込んだ。行き場を失ったガトーショコラ。そして、私の気持ち。額にかかる、少しカールしたショートカットの髪をわしゃわしゃと指先で梳いた。
突然、ガチャっという音と共に、古いステンレスの扉が開いた。私は顔を上げた。
「あ」
口を「あ」の形のまま開けて固まってしまっているのは、他でもない二ノ宮くんだった。まさかこんな寒空に、しかもこんな殺風景な屋上に人なんかいるとは思わなかったのだろう。片隅で膝を抱えて縮こまっている私を呆然と見つめたまま、二ノ宮くんは微動だにしなかった。やっぱりいつもと同じ、ボサボサの頭で。スウェットで。サンダル履きで。無造作にコートを羽織って。その手にはなぜかワインを持って。私はやっぱり笑ってしまった。
「ゴメン、先客がいて」
二ノ宮くんは、咄嗟には何と言っていいのか分からなさそうに、いや、とだけ言って。ドアノブに手をかけたまま、バツが悪そうに再度言った。
「いや、全然。ってか、おれもいていいかな」
「もちろん。でもすごく寒いよ」
私は肩をすくめた。二ノ宮くんはドアを閉めると、さみーなあ、と言いながら私の隣にドカリと座った。すごく近いわけでもなく。でも遠くもなく。微妙な距離。
暫しの沈黙。二ノ宮くんは何も言わない。そうだ、この人は知っている、私の気持ちを。きっとずっと前から。もしかしたら最初の飲み会の日から。
私は、神妙な顔つきで俯いている二ノ宮くんを見ていたら、なんだか突然、とっても可笑しくなってきた。それで、笑った。
二ノ宮くんは怪訝そうに私を見た。私は笑いながら手元の紙袋からケーキを出した。チョコレートの甘い香りが、冷たい冬の空気の中に優しく流れ出した。しっとりと重厚なチョコレート生地の上には真っ白い粉砂糖が雪のように降りかかっている。
「ね、二ノ宮くん、これ一緒に食べない?」
ナイフもフォークも無いし、クリームも、お皿すら無かった。でも、ハートのカードを剥がして。ピンクのリボンを解いて。私はケーキを取り出すと、おもむろに半分に割った。二ノ宮くんが目を丸くするのが分かった。でも私は、それを更に半分に割ると、二ノ宮くんにハイ、と差し出した。
「手づかみで、しかもボロボロになっちゃって、悪いけど・・・」
二ノ宮くんは、やっぱり神妙な顔つきでその一部始終を見ていたのだけど、差し出された私のケーキを、両手で大事そうに受け取って。少しの間の後、何も聞かずに、笑って言った。
「うまそーだなあ、これ」
そして、思いついたように、手に持ったワインを開けると、一つだけ提げていた欠けたグラスに、赤い液体を並々と注いで私に渡した。
「実家から差し入れで送ってきたワイン。ちょうど今、一段落したからこっそり飲もうと思って。せっかくだから、乾杯しよう」
と言って、二ノ宮くんはボトルを突き出した。私はグラスを掲げた。
「何に、カンパイ?」
二ノ宮くんは、暫し考えて、真面目な顔をして、言った。
「新しい、安藤さんに、乾杯」
私はちょっと驚いて、でも、すぐに笑って頷いた。そして、欠けたグラスを二ノ宮くんが差し出しているボトルに合わせる。カチン、という綺麗な音がした。二ノ宮くんはボトルのままワインを飲み、頂きます、と言ってケーキにかじりついた。
「うんめー!おれ、手作りのケーキなんて、始めて食ったよ」
フォークもお皿も無いのに、手づかみで嬉しそうに食べている二ノ宮くんを見ていたら、私はなんだかとても暖かい気持ちになってきた。私は笑って、ワインをちびりと飲み、4分の1のガトーショコラにかじりついた。口の中でほろり、と崩れるガトーショコラ。それは、少しほろ苦く、でもとても甘かった。
こんな綺麗な満月の宵に。冷たく澄んだ夜空の底で。ガトーショコラにワインで乾杯。うん、悪くないかもしれない、と、私は心の中で呟いた。
Fin