冷たい風が冬木立を通り抜けて行く。私は、緑色のコートの前ボタンを全部留めて、赤い手袋をした両手をこすり合わせると息を吹きかけた。吐く息は白く、済んだ青空に消えていく。


 もう2月も半ば、キャンパス内の木々はすっかり葉を落とし、寒空に細い枝を頼りなげに伸ばしている。


 私はちらと傍らに置いた紙袋を見た。白い小花模様の、少しかさばる紙袋。今日のために、何度も練習して一生懸命焼いたガトーショコラだった。丁寧にパラフィン紙に包んで、細いピンクのリボンをかけ、小さなハートのカードまで添えて持ってきたのだった。私はそっと紙袋を覗きこんだ。「教授へ」とだけ書かれたカード。思わず大きなため息が出た。


「安藤さん!」


 ふいに後ろから声をかけられ、飛び上がりそうになる。慌てて紙袋の口を閉じ振り向いた。そこには、陽気な笑い顔。


「なんだ、二ノ宮くんか、ビックリさせないでよ」


「ごめんごめん。こんな寒いところに、随分長くいるなあと思ってさ」


 多分、私は不思議そうな顔をしたのだろう。二ノ宮くんは向かいのガラス張りの建物の一角を指差した。


「おれ、学食でソバ食ってたんだ。そしたらさ、ちょうど安藤さんがこのベンチにいるのが見えて。ずっとボケーって道行く人を見てるから、どうかしちゃったんじゃないかと思ってさ」


 二ノ宮くんは無造作にダッフルコートを羽織って、ボサボサの頭の後ろで両手を組んでいた。その出で立ちがいかにも寝起きな感じで、私はなんだか笑ってしまった。


「すっごく遅い朝ごはん?昨夜も研究室に泊まったの?」


 もう陽はすっかり西に傾いていた。早い学生なら、そろそろ授業も終わりバイトなどに向かう時間だ。だけど、二ノ宮くんの所属する理工学研究室の学生には夜も昼もないらしい。皆、研究に疲れたらそのまま構内に寝泊りし、気が向いたときに適当にアパートに帰ったりマージャンしたりしているのだった。


 二ノ宮くんは笑いながら言った。


「あ、バレたか。昨夜は結構寒くてさぁ。教授の椅子にかかってたコート、ちょっと拝借して寝袋の上に掛けて寝たよ。さすがカシミアはあったけーな」


 私は、教授、という言葉に身を固くした。そっか。やっぱり、昨日学会から帰ってきたんだ・・・。


 そんな私の様子に気づいたのか、二ノ宮くんは困ったような顔をして頭をボリボリ掻いた。


「あ・・・えっと、教授、昨日帰ってきたんだ。今日の予定は確か・・・」


 私の気持ちを知ってか知らずか、二ノ宮くんはモゴモゴと口篭った。私は二ノ宮くんを見上げた。改めて見ると、ダッフルコートの下は紺色のスウェットの上下。分厚いスポーツ用ソックスにサンダル履きという出で立ち。そして、なんだかとっても困っている。悪いと思いながらも、また私は笑ってしまった。


「ねぇ、それってさ、パジャマなの?」

 二ノ宮くんははっと我が身を見下ろし、慌ててコートの前を合わせた。


「ま、まあそんなとこ。安藤さんはなんだかトマトみたいだね」


 私は座ったまま手足を前に伸ばしてみた。スタンドカラーの緑色のコート。ポンポン付きの赤い手袋。茶色のブーツ。そうかも。なんだか、季節外れのトマトみたい。熟しきれない青いトマト。


「ふふっ、そうだね」


 私は笑った。夕暮れの冷たい風が、乾いた梢を揺らして澄んだ音を立てた。私達は陽の傾きかけた冬空を仰いだ。ふと途切れる会話。私は冷たい空気を胸いっぱい吸い込むと、弾みをつけて立ち上がった。


「じゃあ、私、行くね」


 二ノ宮くんは戸惑うように、お、おう、とだけ言った。どこへ、とも聞かず、何をしに、とも聞かず。それから、やっぱりすごく困った様子で両手をコートのポケットに突っ込んだ。じゃあ、と別れを告げて去る私の背中越しに。二ノ宮くんのボソッとした呟きが聞こえた。


「そういえば、教授の奥さんが、娘さん連れて来てたっけな・・・」

 ただ、それだけ。でも、私にはそれで十分だった。

                                  (1/2)