読書は果たして「毒」であるのか | フォノン通信

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読書は果たして「毒」であるのか


☆今年3月16日に詩人・評論家の吉本隆明氏が亡くなった。87歳であった。私は、吉本隆明のよい読者ではなかったが、1970年代から吉本氏の著作を何冊か読み、かなり影響を受けてきたことは確かである。吉本隆明は、1960年代、70年代に学生運動の活動家から強く支持された評論家・思想家であった。吉本氏の著作、『擬制の終焉』、『共同幻想論』などを当時の活動家はよく読んでいたと記憶している。私は、全共闘世代に属するが、学生運動の活動家のような眼で吉本隆明の著作に接したことは当時はなかった。詩人としての吉本隆明に出会ったことが、氏の著作を読み始めるきっかけであった。


☆私は、吉本隆明の代表的な著作である『共同幻想論』、『言語にとって美とは何か』、『マス・イメージ論』などは読んでいない。そういう意味で私は、吉本隆明の思想の核心を理解してきたわけではない。1970年代に『吉本隆明詩集』に出会い、吉本氏の詩の世界にひきつけられた。特に、詩集『固有時との対話』や詩集『転位のための十篇』に衝撃を受けた。その詩は、「思想詩」とでも呼べそうな独自の世界観を表現していた。以来、吉本隆明の代表的な詩は、ほとんど読んできた。その後、詩以外では対談集やインタビューをもとに活字化された著作を何冊か読み、吉本隆明の思想の片鱗を垣間見てきた。


☆吉本隆明は、著作や対談の中で何度も「読書は毒になる」と述べている。私は、この「読書は毒にもなる」というアンチテーゼがずっと気になっていた。そこで、読書の毒について私なりに考えてみることにした。

☆以下、吉本隆明の著作からその該当箇所を引用する。

僕は小さい頃は世間的には悪童で活発に外で遊ぶような子どもでしたが、青春時代になってから文学書の類を読むようになりました。そうすると親父に「おまえ、この頃覇気がなくなった」と言れるようになりました。そう言われると、たしかにそうに違いないかなと思いましが、それが文学の毒だったという自覚をしたのはもう少し後からです。
             (中略)
 世の中の一般的な価値観で言うと、本を読んだほうが本をあまり読まないよりも教養が身につき、思考が深くなって、人生が豊かになると考えられています。
 でも、僕は小説や詩を読むことで、心が何かしら豊かになるということを妄信的に信じている人がいたら、少し危険だと思います。「豊かになる」という言葉ほど、あてにならない言葉はないからです。もちろん、本を読むようになって、世間一般の人があまり考えないことを考えるようになったという利点はあるでしょう。でも、そうした利点を得ると同時に、毒も得ると考えた方がいいと僕は思っています。
(以上、『真贋』より引用)

☆吉本隆明は、他のいくつかの著作でも同様の主旨のことを述べている。読書がときには毒にもなるという吉本の読書論は、けっして文科省が検定する教科書に掲載されることはないだろう。私は、「読書の毒」について書いている評論家や作家を吉本隆明以外に知らない。一般に読書は、知識を増したり、教養を高めたり、ときに人生を豊かにするものとして積極的に勧められている。


☆私にとって読書は「精神の薬」であったし、また時に「心の滋養」でもあった。読書によって「現実の生活では得られない世界」を見たり、「今まで知らなかった世界」を見ることができるという意味で読書は十分に「有益」であった。
 この社会を生きていく中で辛いことも多い。そんな中で書物を読む習慣があったおかげで、精神の糧になるような本に出会い、救われたということがたびたびあった。それは時に小説であったり、宗教書であったり、精神世界の本であったりした。
 これだけインターネットが発達したといっても、ネット上の情報の多くの信用度は低い。それに比べて信頼できる出版社から出された書籍の信頼性は、ネット上の情報よりはまだ高いといえるだろう。

                                      (次回につづく)