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クオの別世界

学生時代に書いた初々しい小説、コピーライター時代を語る懐かしいエッセイ、そして文章家として活動する日々の合い間のエッセイや小説を掲載しています。


またも大山と激突


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 第2次世界大戦に敗れてから12年、昭和32年は日本が政治、経済、文化、あらゆる面で独立国家として生まれ変わり、人々が生き生きと働き始めた上昇期だった。

 首相は岸信介。五千円札を初めて発行。流行歌は浜村美智子の「バナナボートソング」や、フランク永井の「有楽町で逢いましょう」、石原裕次郎の「俺は待ってるぜ」。

 NHKがテレビ放送を開始したのが昭和28年で、ようやく家庭用テレビセットが売れ始めていた。そこで大宅壮一(評論家で将棋好き)が「一億総白痴化が始まるぞ」と警告して流行語になっていた。将棋のNHK杯はまだラジオ番組であり、テレビ対局になったのは昭和37年の第12回から。

 読売新聞の「全日本選手権戦」通称九段戦は、全棋士参加で名実共に備わって2年目の第8期。升田九段(名人・王将)への挑戦権を争う本戦トーナメントは次の16人で行われた。

 塚田正夫九段、大山康晴前名人、大野源一、灘蓮照、坂口允彦、丸田祐三、花村元司、松田茂行(茂役)、五十嵐豊一、松浦卓造、原田泰夫、二上達也各八段、本間爽悦、加藤博二、加藤一二三各七段、下平幸男六段。

 17歳でB級1組の新鋭加藤一二三は、坂口、丸田に勝ったが、準決勝3番勝負で塚田に敗れた。

 大山は原田、二上、五十嵐の順に破って塚田との挑戦者決定戦。2対1で大山が勝ち、升田三冠王との7番勝負になった。

 この7番勝負では、戦術的な意味で珍しいことが起こった。それまで大勝負では矢倉ばかり指していた二人が、兄弟子大野のお株を奪って、全局振り飛車で戦ったのだ。

 昔の将棋界は、トッププロの指す戦型が必ずアマチュア間の流行戦術になった。

 飛車を振る大家は「三間飛車の大野」と「ツノ銀中飛車の松田」くらいだったからファンは驚き、「振り飛車九段戦」と呼んで注目した。

 升田も大山もファンの声をよく聞く棋士だから、いわゆる「ア・ウンの呼吸」でどちらかが振る流れになったのではないか。さもなければ意地か。この二人の勝負の駆け引きは、だれに聞いても「よく分からん」と言う。

 持ち時間は8時間で、1日指し切り制。双方が一杯に使うと午前5時までかかることもあるが、気合を重視するタイプの棋士は、途中で一晩寝る2日制より良いと言っていた。

 私は昔から、いろんな持ち時間があるのは良いことだが、同一棋戦は予選から決勝まで同じ持ち時間で進めるのが理想だと思っている。たとえば、名人戦を2日制でやるのなら挑戦者を決めるA級リーグも2日制でやるべきだろう。

 もちろん、主催新聞社が“タイトルマッチ”を特別扱いする事情は十分に知っている。棋戦がふえれば必然、持ち時間を短縮しないと対応できないが、一方に、たとえば現役A級時代の加藤博二九段の意見に代表される「勝負の最中に休憩を設けるのさえ変だろう。腹が減ったら好きな時に好きなものを食えばいい」といった純粋な考え方もあった。

 升田の考え方は、

「持ち時間は少ないより多い方がいいに決まっている。体力負けがいやなら早く指せばいいし、相手が長考すれば横になって体を休めるのも自由だろう」であった。それを実行した升田は、団体としての将棋連盟にしてみれば横紙破りの“厄介な名人”だったが、将棋は間違いなく「個人戦」である。

 平常は連盟に迷惑をかけてはいけないが、一対一の勝負の場においては、ルールの許す範囲内で、自らの意思を曲げることなく行動する。そんな本音人間の升田に、人気が集中したのは当然だと思う。

 特に写真家は

「あれほど絵になる棋士は他にいなかった」

と言う。土門拳の肖像写真集にも、升田の対局姿が収められている。


(続く)



のぼせちゃいかん


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 大山康晴名人(34)の6連覇を阻み、念願の名人位に就いた升田は、王将、九段と合わせて、当時の全タイトルを独占した。“悲運の棋士”という呼び名はついに過去のものとなった。

 喜びに湧く広島の故郷の町には、神社の祭礼の時と同じ幟(のぼり)が立てられた。

 あいさつ回りに忙しかった。祝賀会などは関西方面で圧倒的に多かったが、東京でも、有名人からの招きが引きもきらなかった。

 この昭和32年ごろに「国民栄誉賞」というものがあったとすれば、単なる人気だけでなく、人脈の面からみて、升田は有力な候補であったはずだ。升田びいきは文化人や芸術家ばかりでなく、財界人、政治家の中にも多かったからである。まだ大阪にいたころに政治家の有名どころでは民社党の西尾末広、春日一幸らの知遇を得ていたし、東京では“青年将校”と呼ばれていた中曽根康弘と特に親しかった。

 中曽根は「他人の長所をうまく結びつける、コーディネーターとしての天才」と呼ばれる人である。昭和32年に、各界の達人を招いて「勉強会」というものを開き始めた。まっさきに招かれたのが、財界人では前野徹、市村清、中原功、五島昇、出版人の岩堀喜之助。ゲストとして山岡荘八、木村義雄、升田幸三、古賀政男、長谷川一夫ほか、肩書をつけなくても分かるメンバーで、1回に集まる数は12、3人を限度としたそうだ。

 また、海部俊樹の衆議院議員(愛知)初当選を祝う会にも出席して、

「海部君は、将来総理大臣になる大器だ」と激励した。升田には預言者の素質があった。

 私の手許に珍しい棋譜がある。それは東京の「山水楼」で催された「升田名人ヲ激励スル会」=32年10月3日=の席上対局。

 上手、升田名人(角落)。下手、オールスターズ。記録係は桜井昇、東公平。

 △8四歩に▲7六歩(志賀直哉)

 △8五歩に▲7七角(梅原龍三郎)

 △6二銀に▲7八金(高砂浦五郎)

 初めは一手ずつ。中盤からは腕自慢の永井大三(朝日新聞)や倉島竹二郎、吉野武雄(東大教授)、中島威(実業家)らが数手ずつ指した祝賀の連将棋で、63手までで下手オールスターズのぼろ負けになっている。悔しがって「もう1局」となり、名誉有段者抜きの4人チームが挑戦したが、85手でまたぼろ負け。

 発起人が村松梢風、指してはいないが久保守(画家)の名も記されている。

 また、8月11日に浅草の伝法院で開かれた「升田名人・王将・九段就位披露」の将棋大会には“塩釜の天才少年”9歳の中原誠が出場、その対局ぶりを升田が見ている写真が新聞や週刊誌、将棋雑誌に掲載された。この子供と、のちにA級順位戦を戦うことになろうとは、升田も思わなかっただろう。

 名人戦の終わった翌日、升田名人がまっ先に訪問したのは吉川英治の品川の自宅だ。

「よかったねえ、君、ちょうどいい時に名人になって……」

と言われた。「ちょうどいい時」に含蓄があると思う。おそらく吉川は、升田の人間的な大成長を祝ったのである。

 升田は言う。

「わたしは将棋は創作であると考えている。何はともあれ、一歩先に出た方が勝つ。もし一局ごとに新手を出す棋士があれば、彼は不敗の名人になれる。その差はたとえ1秒の何分の1でもいい。専門家というものは、日夜新しい手段を発見するために苦しまねばならぬ。

 常に動いてやまない――それが専門家である。将棋というものは無限に変わる余地がある。そうでなければ、なにもわたしたちが苦しんで将棋を指す必要がないではないか。

 梅原龍三郎さんとか、吉川英治さんとか、一流の人と接して感じるのは、やはり、どの道も命がけだということである」

 少年の日の夢がかなった。しかし升田は、国会議員になってやろうとは、勧める人があっても決して考えなかった。一歩でも多く、将棋という「道」を歩き続けることを自らに誓ったのである。「のぼせちゃいかん」と。

 升田は、後輩などに「のぼせちゃいかん」とズバリ浴びせておいてフッフッフと笑うのを得意としたが、それは、若い時からの自戒の言葉だったのである。


(続く)



升田、名人位に就く


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 第6局は梅雨明けの近い7月10日、11日に東京の「初波奈」で行われた。

「対局開始を待つ二人の様子はこれまでにない静かなものであった。升田は前の第5局で大げさな言い方をすれば“名人位を掌中”に入れようとする瞬間に誤算を演じたのだから傷心いとど生々しいものがあると予想したが、案外にも升田の顔は今度の名人戦の中に見られなかった健康を現して前局の痛手などはキレイにぬぐい去った落着きが見られた。一方の名人にも、“さあ盛り返したぞ”という気負った処が見えないで、羽織のヒモをもてあそぶなど淡々としている。張りきった弦は切れやすいことを、生命をかけるような対局で数々体験した二人だ。私はこれを今更らしく好ましくながめた」

 以上、原文のまま金子観戦記を引用した。

「大勝負に名局なし」という。が、私にはその通りだとは思えない。将棋を「ゲーム」と捉えて内容を分析するなら、今の若者たちが毎日創作し続けている将棋の中にも、いいゲームがあるだろう。

 私の考える名局は、最高の「志」を抱いた二人が、最高の「場」に臨み、そして敗者が「負けはしたが、悔いはない」と語る、全人格を賭けた戦いである。

 若手の諸氏が主張しているように、確かに今の谷川浩司、羽生善治、森下卓ほかの俊英の指す将棋は、昭和32年の升田―大山の棋譜をテクニックでは超えているだろう。

 だからと言って、マスコミ中心の一般社会にあのころの熱気がよみがえるか。

 升田幸三という人には、将棋など無縁の人々までも強く引きつけてしまう、人間としての魅力があった。

 升田は私にこう言った。

「僕の棋譜で百年、千年、残るかも知れないのは40歳までのものだな。あとは、おまけだよ」

「しかし先生、その後にもひねり飛車とか、升田式石田流とか、ありますが」

「ある。あるけどもだな、自分で納得できる将棋は、いくつもない。相手が弱すぎたり、悪い手を指してくれたり、自分にポカが出ちゃ、指しとって面白くないよ」

 名人戦第6局は、升田王将・九段にとって非常に「面白い」将棋であった。強い相手の激しい抵抗が連続したからである。

 升田は今まで「角使いの名人」と言われているけれど、この将棋をはじめとして中段に飛車が浮く(一見アマチュア的だから妙手とは言われない)技法にも他の追随を許さない迫力があると思う。さらに言えば、駒に対して「働き以上の働き」つまりハードワークを要求するところがある。

「おれがにらめば、横には動けぬ銀でも横に動くのだ」と言ったことがあった。

 終局は、7月11日の午後4時29分。

 升田はこの瞬間、新しい棋界で初めて「名人・王将・九段」の三タイトルを制覇した。“独占三冠王”になったのである。

 局後の両雄の談話を一部ご紹介する。

 升田 「勝負を念頭に置かず、私の将棋を打ち出したいと願っていたので、優位に立った▲4八飛のとき最短距離と信ずる▲4五歩に踏み切った。最も緊張したときは、▲5九金と一息入れるところであったが、これがよかったと思う。▲6一角で勝った、と思った。とにかく名人位を頂く最後の将棋を、どうにか立派に指せてうれしい。大山氏とは新たに対戦を望んでやまない」

 大山 「指し掛けの際の△8六歩に疑問は残るが、ほかは最善をつくしたと思う。升田新名人に対し、おめでとうの言葉を捧げたい」

 木村十四世名人は次のようにほめた。

「ながい間、実力を持ちながら、と惜しまれていたが、ここ二、三年の充実ぶりは、成績が立証する如く、驚異的だった。従って今期の名人戦には勝つべくして勝ったともいえる。内容的に特筆すべきは、従来あまり見受けなかった辛抱強さが加わったことだと思う」

 対局終了後、升田新名人は喜びに湧き立つ朝日新聞関係者にただ頭を下げるだけで、打ち上げの宴会を辞退して消えてしまった。

「升田君は早く女房を喜ばせたいんだ。いい奥さんだもんなあ」


(続く)




第5局は、6月29日から東京の「羽沢ガーデン」で行われた。立会人は加藤治郎会長、原田泰夫八段。記録係は芹沢博文四段、剱持松二四段。私は有楽町の朝日新聞社で電話係をやっていた。当時は記事も指し手も図面もすべてが電話送稿であって、「クロ、ヨンパチシルバー、シロ、サンニイゴールド」という調子。

 またも相矢倉。意地っ張り大山、後のない一番は得意の守勢陣。この時の観戦記にも「升田の新構想」という文字が躍っている。

 当時「升田・大山矢倉12連戦」と話題になった。ただし1月の王将戦第5局から7月の名人戦第6局まで、全局形が違っていた。「矢倉の24手までは誰が指しても同じ」などと言われ出したのはずっと後のこと。そして、振り飛車が主軸になる升田―大山戦は、同年秋の九段戦7番勝負からである。

 升田はこの朝、ヒゲをさっぱりと剃り落として盤の前に座り、ふところからタバコの箱を取り出した。久しぶりに禁煙を解いたのだ。

 この一番に勝てば名人。

 升田は朝から落ち着かず、火鉢の灰をやたら突っついてみたり廊下のガラス戸を閉めるように言いつけたり、しばらくは盤面に打ち込めぬふうであった。

 参考図は大山の▲1八飛まで。これに対し升田は3分考えただけで△2二金。かつて升田が「スズメ刺し」を創案し、原田泰夫八段が▲8八金と受けた将棋と部分的には似ているけれど、相矢倉の序盤戦はこの時代に日進月歩で研究が深まり、やがて二上達也、加藤一二三、芹沢博文、山田道美、米長邦雄、中原誠と続く棋士群に研究のバトンが渡されている。

 第5局は、背水の陣をしく大山の気力が升田を誤らせたようだ。149手までで升田が駒台に手を置いた。

 その終盤、副立会人の原田八段が「報道関係以外の方は、ご退室願います」と告げたとき、青白い顔の升田は、

「全部だ」

と、刀で斬り込むように言った。

「不覚の一局というよりない。まだ至らない点を痛感した」と升田。

「まったく、幸運でした」と大山。



クオの別世界


(続く)






名人戦に思うこと


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 名人戦第1局は32年5月7、8の両日、東京・代々木の「初波奈」で行われた。

 先番大山。相矢倉で後手升田の5筋位取り。

 仏法僧(永沢勝雄)の観戦記を拾ってみる。

「座に着いた升田が局面を凝視しながらひとりごとをいう。それに節がついてうたのようになる。なにか元気が出てきたように思える。大山がもどって席に着くとき、ハカマの前をぽんとたたく。すその開きをていねいに直してから煙草を一本ぬきマッチの裏表をながめてからつける。升田は節をつづけている」

 観戦招待客の中には例によって升田びいきの梅原龍三郎、志賀直哉の姿もあった。

 第1局は168手の白熱戦。大山懸命のしのぎも効なく升田が攻め倒した。

 第2局は21、22日、大阪の「鉢の木」で行われた。観戦記で金子金五郎八段は升田将棋の変化を次のように説明する。

「升田の独り走りの棋風が病気のためそのテンポが遅くなり、これまでの“相手から早く駆け抜けよう”という調子が、“将棋は二人で作られてゆくもの”棋士仲間でいう「待つ」の味を加えた。待つということは「横」を見ること、これまでの前方の「縦」に走らせた思考を横に変えたことになる。由来、棋風の転換は少しでも至難だが、病気に適応する必要のまえには実戦に移せた。しかし、それに耐えたのは天才の力か」

 この勝負は第1局と反対に、大山が攻め、△6三桂の妙手が出て、160手で雪辱した。両者9時間59分を使い切る力闘だった。

 最終譜には、藤沢桓夫の感想文と木村義雄十四世名人の講評が掲載されている。時代の違いを考慮に入れても、昔の朝日新聞将棋名人戦記事には重厚味と格式があったなあ、と懐かしむのは私だけだろうか。

 第3局は6月4、5の両日、福岡市の「萩の宮山荘」で行われた。人気は高く、両雄の登場から開始の情景をとらえようとしてニュース映画、テレビや新聞、雑誌社のカメラマンがひしめいて待った。

 この対局には、社会党の重鎮で部落解放運動などでも有名な松本治一郎秘蔵の駒が使用された。その盤駒一式は、阪田三吉翁が、世話になった礼として贈った逸品である。

 三たび相矢倉。升田が、わざと飛車先の歩を切らせる新構想を打ち出し、禁煙中のためアメをかじりながら攻めまくり、110手で快勝した。講評の木村十四世名人は、「この第3局は、升田九段が誇示してもいい代表作になると思う」と、往年の憎い敵をほめちぎった。「従来の棋士の通念を打破した、おそらく何人(なんびと)にも考え及ばぬ着想といえよう」

 “新手一生”の升田だが、新手のほとんどが対大山戦において示されていることを再認識したい。後年、大山が「死ぬ前に一局だけ将棋が指せるとしたら、相手は升田さん(すでに故人)」という意味の、辞世の言葉ともとれる発言をしたと聞いている。

 第4局は6月18、19日、名古屋市の「八勝館」で行われた。升田が尊敬していた金子金五郎八段の観戦記はすばらしい。

 後章でも記したいが、大山は、金子観戦記を嫌っていた。当然だろう。名棋士金子は、自らの提唱した将棋理論を完成の域にまで高めてくれた升田に感謝し、惚れ込んでいたのである。

 この第4局も相矢倉。3局続けて後手勝ちだったシリーズで、初めて升田が先手番145手の「会心譜」を作った。消費時間は升田5時間6分、大山9時間14分。大山は「リードされた弱みで硬くなったのかもしれない」と局後に反省している。