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クオの別世界

学生時代に書いた初々しい小説、コピーライター時代を語る懐かしいエッセイ、そして文章家として活動する日々の合い間のエッセイや小説を掲載しています。


大山に敗れる


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


王将戦第4局は2月20日から、名古屋市の「ホテル・ニューナゴヤ」で行われた。いわゆるシティーホテルで将棋を指したのは、これが初めてだったかもしれない。

 升田先番で相矢倉。大山が新手を指し、立会人の原田泰夫八段が「勝てば妙着、負ければ敗着」と言った。

 升田はまたも健康を損ねていた。第2日の夕食休憩の時、自室に運ばれた膳に箸をつけず、座布団を枕にひっくり返っており、立会人が医師を呼んだ。だが闘魂は火と燃え、9時間25分を使って詰まされるまで指した。

 2対2。互いに「香を引く」ことはなくなった。第5局は3月4日だが、その2日前に升田はNHK杯戦で灘八段を破って2度目の優勝をした。

 伊豆山(熱海市の温泉場)で行われた第5局は相矢倉模様になったが、升田は体調を考えた早指しで、中央に二枚銀を繰り出す速攻。これが鮮やかに決まって94手で勝った。消費時間僅かに3時間27分、一手の最長考慮は33分だった。

 第6局は16日に東京・赤坂の弁慶橋際にある「清水」で行われた。

 升田が勝てば王将位防衛の一局とあって多数の棋士と招待客が詰めかけた。升田の体調は良く、初日の夜に、名古屋からわざわざ来た奥山伍鹿(藤沢朋斎囲碁九段の岳父)、詩人の野上彰と碁を打った。大山も並んで打った。升田と大山は互角の腕自慢だったけれど直接対局はめったにせず、一方が打ち、一方が見てひやかすパターンが多かった。

 将棋は、後手番大山の陽動振り飛車。升田は今度も早指し。しかも居玉のまま右銀を繰り出す新戦法。

 たちまち2筋が破られ、封じ手をする時に大山が、「これじゃ、封じ手も何もあったもんじゃない」と言った。

 2日目、升田びいきの梅原龍三郎、角川源義(春樹、歴彦の父)も観戦に来て、控室は人いきれとタバコの煙でむせ返るようだった。

 観戦客の期待にそむいて升田は敗れた。持ち時間を5時間以上残し、134手。倉島は「第2日に入って升田は気力を喪失した」と伝えている。風邪をひいていた。

 社会党委員長の鈴木茂三郎も将棋好きの人だったが、偶然升田に会った。

「ある健康法をやっているが、私の隣に同じ格好で仰向けに寝ている人がしきりに将棋の話をする。オレはひげを家内に切らせると良い将棋が指せるが、なんかの都合で床屋にやらせるといかん。どうも気力が衰える、と言う」

 それが升田名人だったという話。この第6局の敗因は、ひげにあったのかも知れない。

 ついに3対3。

 第7局は、3月28日から長野市の「犀北館」で行われた。

 長野へ向かう車中、升田は快活で談論風発、ナポレオンを論じ、秀吉を論じ、また川中島の決戦を談じた。

 第7局は改めて振り駒。この規定が実行されたのは本局が初めて。運勢は大山に「吉」と出た。

 終盤、久々に「升田のポカ」が出た。一手勝ちを読み切っていながら、「手順前後」をやらかしたのだ。

「文字通りの惜敗であった。升田は残念ながら三位(さんみ)独占を維持できなかった。が、升田はそれでかえって肩の重荷がおりたといった恬淡(てんたん)たる態度で、弟弟子のカムバックを心から祝福していた。その潔さとおおらかさに感嘆せぬ者はなかった」

 倉島竹二郎の文章。「三位」は今でいう三冠(トリプルクラウン)のこと。


(続く)



 注目の第3局は有馬温泉の「古泉閣」で2月8日から。記録係は内藤國雄三段。

 内藤現九段に聞いてみたいのだが、私の感じでは升田の心の中に「これ以上大山に恥をかかすには忍びない」という憐憫(れんびん)の情が起きていたような気がしてならない。

 相手こそ違え、あの「陣屋事件」。次いで大山を指し込んで5―0とした後の第6局(再び香落ち)を、病気と称して(うそではなかったと思うけれど)棄権した事実が、どうしてもこの第3局にオーバーラップしてしまう。

 後手番升田は、▲7六歩△8四歩のあと、矢倉にしないでツノ銀に構え、22手目に△3二飛と振る新戦法を見せた。今でいう「陽動振り飛車」である。

△3二飛と指す前に升田は倉島に、

「ゆうべはまた変な夢を見た」

と話しかけた。「また」と言う訳は以前、初日の夜に「立会人が来て、升田君、この将棋はあんたの負けだよ、と言った夢」を話したことがあったからだ。

「将棋が済んで帰るところで、ヤレヤレと思ったが、目が覚めたらまだこれから指すんで、がっかりした」

 序盤は歩を前線に並べた持久戦。千日手が予想されていたのだが、升田は「皆に心配かけちゃ悪い。ええい、どうなるか、行っちまえ」とさけんで歩を突っかけた。続いて桂の高跳び。さらに飛銀交換で瞬間的には飛の丸損になるほどの強襲。大山は丹念に受けて115手で勝ち、カド番をしのいだ。

 升田は10時間のうち3時間半しか使わず、第2日の昼食前の局面がすでに“投了図”だった。再開後、升田は記録用紙を見て「115手になったか。ここまで指せば」と倉島の顔を見て微笑し、1手も指さないで投了した。

「2度目の香落ち戦」は実現しなかった。

 ここで、記録をご紹介してみる。

 昭和32年度、升田は37戦して22勝15敗。そのうち19局が対大山で、11勝8敗。塚田正夫と5局指しているから、他の棋士との対戦は13局しかなく、下平幸男六段との記念対局を除けばすべてA級かB1の相手である。

「升田・大山時代」をシンボライズする数字がある。31年12月から34年6月までに升田は97局指したが、対大山がなんと過半数の51局、しかも全部、タイトルマッチ。升田の25勝22敗1持将棋、千日手3局(当時は即日指し直しでなかった)

 升田はよくこう言っていた。

「女房の顔を忘れることがる。めったに正面から見たりしないからな。しかし大山の顔は死ぬまで忘れんだろう、ふっふっふ」

 井伏鱒二が升田・大山戦(産経臨時棋戦)の観戦記を書くとき、当時連盟の事務局にいた何でも屋の私はデータを提供した。

「過去101局の対局時間(休憩や感想戦を除く)が総計

1407時間」

 電卓なんて物はない時代。下手なソロバンを入れたのである。話のついでに書いておくと、将棋連盟が全棋譜を保存し、個人対戦成績などを記録し始めたのは昭和

29年から。

 よく「記録は加藤一二三以後」と断り書きがしてあるのはそのためで、升田の生涯対局数は、実は「不明」である。連盟がルーズだったとは言えない。第一に、戦争があった。新聞社ですら終戦前後のバックナンバーが完全に揃っている社は少ないのだから。

 今のような“データ時代”の先駆けとなった方々の名を記そう。加藤治郎、田辺忠幸、越智信義、丸田祐三。


(続く)



升田大山時代


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


「大山升田時代」と書く人が多い。名人になった順を重んじてのことだろうが、私見では、やはり師匠格の兄弟子だった升田を先にすべきである。昭和23年の『サンデー毎日』に載った菊池寛との対談に次のようなやりとりがある。当時29歳で八段。

「君は昔の棋譜を研究するか」

「しますね。三代宗看とか、天野宗歩。これを仕込んだところの大橋宗桂」

「天野宗歩はどう思う」

「大したものですね。ああいう人がいま出て来たら容易じゃない。素質が違う。奈良の東大寺を見て、あの当時の職人がいま出て来たらどんなことをやるだろうかと思うです。あるいは大阪城。彼らに現代科学を仕込んだらどんなすごいものを作るか……構想が違いますよ」

「君の将来の敵手といったら誰かね」

「大山七段が強くなると思うんです。最近(将棋に)幅がついてきましたね。これは、どうしてもやる(戦う)ようになって来るんじゃないかと思っております」

「私は東京の棋士では、度胸の良い松田茂行が一番好きだ」

「松田君は環境が悪い」

 菊池もそれを肯定し、生活がきちんとしていなければ将棋は勝てまい、と言っている。升田も、大山のまじめな生活態度には一目も二目も置いていたようだ。高野山の対局寸前の「新春対談」であった。

 大山前名人は、王将戦リーグを勝ち抜いて升田三冠王への挑戦権を取った。32年12月に「九段」のタイトルを防衛したばかりの升田に、僅か半月しか休息のひまを与えぬ猛反撃である。なお、この第7期王将戦は二上、加藤一二三が予選落ちし、大山門下の新鋭有吉道夫五段がリーグ入りしてA級陣と肩を並べて戦った。

 3番手直り指し込みの7番将棋第1局は、1月15、16の両日、東京・本郷の「竜岡」で行われた。

 倉島竹二郎の観戦記には、升田がこの正月、マスコミから殺到した取材依頼や後援者の招待などを一切断り、ひたすら心身の静養につとめたこと、2年前とは完全に逆の立場になって、升田が香を引かれるかも知れない「恐ろしい勝負」であることなどが独特のやわらかい調子で書き込まれている。倉島は京都の生まれだ。

 相矢倉戦。後手の升田は新趣向の急戦含み、大山は得意の銀矢倉で受けに回ったが、9時間59分を使い果たした前名人の粘りも空しく、142手で升田が快勝した。

 第2局は27日から山口県湯田温泉で。

 この勝負は凄絶だった。角交換から升田の棒銀で始まったが、もつれにもつれた271手。大山は再び1分まで粘りながら升田の怪力に屈した。

 参考図が投了の局面である。大山は大駒1枚、小駒18枚。播州皿屋敷お菊の場――と升田がおちょくったが、持将棋には1枚足りない。

 2連敗で次はカド番。

 倉島は最終譜の見出しを「大山のよろめき」とつけた。私の考え過ぎかも知れないけれど、この少し前に、升田びいきの五味康祐が文藝春秋発行の雑誌に、大山の女性関係を実名で露骨に書きつらね、大山が怒って訴訟寸前にまでなった話は前に記した。五味が謝って示談で収まったが、その事件を暗示したタイトルではなかったろうか。

 この第2局終了の翌日、山口市で大盤解説会が開かれ「千人を越える超満員の聴衆が、大山の悪びれぬ態度に万雷の拍手を送った」と観戦記にある。勝った升田でなく、敗れた大山が出席したのであった。そしてすぐさま、山口県に連盟支部が作られた。あのころの将棋界の活気が思い起こされる。“羽生フィーバー”がこれに似ている。



クオの別世界


やさしい父親


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 昭和33年。升田名人(王将、九段)は、3月の誕生日で満40歳。不惑の年である。

 この年は明るい話題が多かった。相撲では若乃花が横綱に昇って「栃若時代」。野球では長嶋茂雄が新人王。しかしジャイアンツは日本シリーズで三原監督の西鉄ライオンズに3連勝後の4連敗を喫し、鉄腕投手稲尾和久は「神様仏様稲尾様」と呼ばれた。升田は別に野球好きではなかったけれど、金田正一や長嶋とは対談などで交際があり、面白い話が残っている。

 長嶋にはこんなことを言った。

「君たちの世界では、4割打つ者がおらんそうだな」

「ええ、3割打てれば、その、まあ一流で」

「楽な商売やなあ。わたしらの世界では、7割5分以上勝たんと給料が上がらん」

 東京タワーの完工でテレビ放送本格化。皇太子(今上天皇)の婚約で「ミッチーブーム」。そして初の一万円札発行。新幹線のさきがけとなる「特急こだま」が、東京―大阪間を6時間50分の新記録で走った。

 将棋界も各新聞の競争激化の恩恵で棋戦がどんどんふえた。かなり広い二階建て(元横綱照国の道場)だった東京・東中野の連盟本部も手狭になり、新会館建設の構想が生まれ、3年後には千駄ヶ谷移転が実現する。

 政、財界にまで顔の利く升田は、募金活動など経営面においても20代から常に中心人物であった。升田の晩年しか知らない棋士は「威張るばかりで、仲間の面倒を見てくれなかった」などと言うけれど、とんでもない偏見である。

 私の知る限りでは“孤高の人”になってしまったのは

50を過ぎ、連盟の方針決定などで他の幹部との対立がひどくなってからである。

 確かに、もともと人の好き嫌いがはっきりしていて、敵対する者には恐ろしく手厳しい人だった。しかし、金銭面でも升田の世話になったり、迷惑を掛けっ放しの不心得者が何人いたことか。むしろ、底抜けのお人よしであって、政、財界に顔が利く反面、悪い奴にだまされたことが一再でない。論より証拠、升田の自宅は“豪邸”には程遠かった。

「息子二人にはキンタマを二個ずつやってある。それでたくさんだ。家は女房のもの。オレの物といえば、まあ、表札一枚だな」

 三冠王升田は、すっかり健康を恢復しているように見え、言動にゆとりがあった。

 和服の着流しで長男の晋造くん(29年生まれ)を軽々と片手に抱き、にこにこ顔で、散歩がてら連盟本部へやって来る。当時の事務職員はみな棋士の兼務、4、5人の女子職員も縁故採用の腰掛けばかりという家族的な団体だったから、名人の姿が前庭に見えると「あ、いらっしゃったわ」と2、3人が玄関に出迎え、晋ちゃんを抱かせて下さいと言ったりした。倉島竹二郎とは特に仲が良かったので、王将戦の観戦記にはしばしば「良きパパ」が登場した。

 囲碁は無類に好きで、アマ七段。ますます腕を上げていた。もう一つの趣味は剣道。これも五段の免状を贈られている。

 名人になって間もなく志賀直哉の家を訪れた折、請われて色紙を書いたが、賀の字の最後の一画をピンと右へはね上げてしまった。ところが志賀は喜んで、

「升田君は私の名前にヒゲをつけてくれた」

と笑い、書き直してくれなどと言わずに仕舞い込んだそうである。

 そんな調子でも筆を持つのは決して嫌いではなく、自宅の屏風とか、陶芸家の富本憲吉(升田・大山戦の観戦記を書いた)などに頼んで、あるいは頼まれて、焼き物に何やら難しい字を書いている。

 大山名人に香落ちで勝ち、さらに名人位を奪取した時の記念の盤には「大名人升田幸三」と署名してある。また、内藤國雄に贈った色紙は、

「研精不倦/覃思惟深/名人の上/幸三」

である。たゆまず技をみがき、池を眺めて深く考える――。


(続く)





 第6局は、32年も押し詰まった師走の27日、神奈川県・鶴巻温泉の「陣屋」で行われた。升田の対局拒否事件から6年近い歳月を経て、不祥事も酒の肴になっている。記録係は“将棋界の皇太子殿下”と呼ばれていた

21歳の芹沢博文四段。

 升田が勝ち、九段のタイトルを守った。

 自戦解説を引用する。

「大山君は、こういうカド番の瀬戸際になってからがしぶとい。彼の二枚腰には何度も痛い目にあっているので、気持ちを引き締めて向かった。前局までずっと振り飛車が続いて、本局も振るのかどうかと話題になった。当時の掲載紙の宣伝文句が『振り飛車九段戦』。それに合わせるかのように、もう一丁ときた。

 このシリーズ後、私も大山君も振り飛車を多く指すようになり、振り飛車ブームが起きた。棋界のトップによって、振り飛車の面白さと優秀性が証明されたからだ。

 最近は居飛車側の作戦も、玉を固める洞(ほら)囲い(穴熊)や左美濃などが幅をきかせて、戦い方もせちがらくなったようだ」

 升田はいつも「洞囲い」とか「ホラ」と言っていた。穴熊の関西での名前が獅子舞いの芸に見立てた「獅子の洞が入り」だからである。

 後手の△5四銀から△6五銀を誘っておいて▲3八飛と指すのは升田の発明ではないが、一歩入手の手段を残す▲1五歩が新手。これに類する振り飛車破りの決定版と呼ばれたし、やや有利にしてからの自陣飛車▲2八飛も盤上この一手という感じで、「構想派・升田」の会心譜の一つである。

 独占三冠王の地位はゆるがない。昭和33年の正月は「オラが春」となった。


(続く)




 第3局は12月2日、四国・道後温泉の「寿園」で。升田びいきの間では「大山はもう升田には勝てなくなっている」と言われていた。

 後手番の升田が向い飛車に振る。この時代はどちらも穴グマは全く考えていない。左美濃のように居飛車側が厚く固める作戦も、上位棋士はめったに採らなかった。

 3、4筋からの大山の攻めが厳しく、飛車を徹底的にいじめられて升田は敗れた。121手で終局は午前3時27分。升田は残り2分、大山は1時間以上余していた。

 第4局は11日、東京・紀尾井町の「福田屋」で。

 またも振り飛車だが、手順は▲7六歩△8四歩▲6八銀△3四歩▲7七銀△4二銀で始まる後手番大山の陽動三間飛車。これに対して升田がまた新作戦を見せる。▲6六銀から▲7五銀で、歩を取りに行ったのだ。

 大山はあっさり▲8四銀と取らせて銀に手損をさせ、悠然と玉を固めた。珍局に属する。升田に辛抱が足りず、強硬な玉頭戦を仕掛けて104手で負かされた。

 これで2勝2敗。すでに名人5期の規定により33歳の若さで兄弟子升田に先んじて「十五世名人」の資格を得たヒーローには、故郷の倉敷市をはじめとして各地に強力な後援会ができていた。

 大山の復調に歓声を挙げたファンは多かっただろう。

 第5局は12月19日に茨城県・笠間の「井筒屋」で行われた。今度は▲7六歩△8四歩▲5六歩のスタートで、先手番大山の中飛車。

 後年の話だが、名人戦記事の「見出し」について大山から、笑顔の抗議を受けた。

「朝日新聞は、いつも『大山、また振り飛車』と見出しつけるでしょ。あれ、なんとかならんもんかね、東さん。あれじゃあ、大山の将棋にはなんにも工夫がない、という感じを与えるでしょ。私なりに一局一局、新しい手を考えてるのにね……」

 さて、九段戦第5局は大山の中飛車に対し升田は5筋位取りの“逆ねじ戦術”に出る。若手の山田道美六段が研究テーマとして重視していた序盤戦だ。そのころ山田はよくこう言っていた。

「升田さんと大山さんは、対照的な棋風だと言われているが、実際に僕が対局してみてそうじゃない、と思う。手応えがまるで同じなんですよ。同質の将棋ですよ」

 腰掛け銀戦法で大山が、果敢な攻めの新手を出したことがあり、観戦記で加藤治郎名誉九段が「大山のと金が敵玉の命取りになった。マムシのような猛毒を持ったと金だった」と書いたことから、と金をマムシと呼ぶようになった。

 若いころの棋譜を見ると、どちらが升田か大山か、分からなくなることが多い。

 参考C図は、九段戦第5局、升田の△9四歩に対して大山が、7七の角を歩の頭に出した局面である。これなども、名前を伏せておいたら「升田の鬼手か」と思う方が多いだろう。たしかに大山らしくない強襲だが、升田の受けが見事。まず△同歩と角を取り、▲7四飛△7三歩▲6四飛に、手をしなわせて△6三角と打った。消費時間は▲8六角が10分、△同歩が79分、あとはノータイムの連続。△6三角以後の変化を升田が読み勝ちし、▲8六角が敗因とされている。90手、午後9時少し前に終局。




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振り飛車九段戦


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 7番勝負の第1局は、32年11月14日に東京・芝明舟町の「福田屋」で始まった。観戦記は「北斗星」の後継者、「陣太鼓」こと山本武雄七段。独特の面白い文体はファンが多かった。

 後手番の升田が四間飛車。大山は当時としては目新しい▲6五歩の位取り。持久戦を嫌った升田が激しく反発し、126手で升田が勝った。終局は午前0時40分。

 第2局は、11月21日、京都市の「花屋敷」。

 大山の中飛車に対し、先手番升田は▲4六金戦法。参考A図から次のように進んだ。

 ▲3五金△同飛▲同歩△7三角▲3八飛打(参考B図)

 大山は△7四歩と突けば、▲3五金はないと見ていた。ところが升田は、局面を深くえぐった。

 絶妙の一手、▲3八飛打で、大山には指す手がなくなってしまったのである。

 しかし本音を吐いたのは局後のこと。

 大山は角で飛を取らずに独特の粘りを発揮、混戦に持ち込んだが137手で升田が押し切った。




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