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クオの別世界

学生時代に書いた初々しい小説、コピーライター時代を語る懐かしいエッセイ、そして文章家として活動する日々の合い間のエッセイや小説を掲載しています。



クオの別世界



 参考図の△4四銀が名手といわれている。

 ぼんやりした手である。

 巻末棋譜を見てほしい(※棋譜省略)。大山陣は無防備都市になっていて、升田の角がブンブン飛び回るのを黙って見ているしかなかったのだ。しかも何と▲7七歩と打たされてしまう。屈辱的な手だ。これが「作戦負け」の正体である。

 どうしてそうなったのか。升田は、

「△4四銀の一手によって先手のあらゆる攻め筋が封じられた。しかも私の陣形には寸分のスキもない。先手が▲4五歩と突けば、喜んで△3三銀と戻り、3七の桂が絶好の標的となる」と解説している。

 アインシュタイン博士が「特殊相対性理論」を発表した時に、ある新聞記者が「素人にもわかるように説明してほしい」と言った。

「説明しても、わかる人は世界に3人しかいないだろう」という返事だったとか。

 将棋の難しい手に出くわすといつもこのエピソードを思い出してしまう。

 だが、今の社会はあまりにも「わかりやすい話」「やさしい遊び」に満ち満ちて来て、つまらない気がする。小さい子供さんを持つ方に特に考えて頂きたいのだが、恐ろしく難しく見える将棋の手――たとえば升田の妙手、あるいは宗看、看寿の詰将棋――を、自分の頭で、何時間かけても解いてやろうと挑む積極性が人間には必要ではないだろうか。

 将棋がコンピューターゲームの一つとしてまた、インターネットで世界中に普及するのは時代の流れであり、それはそれで非常に結構なことだと思うけれど、

「棋は対話」

もまた永遠の真理だと思う。だからこそ私たちは棋譜を通じて升田とも大山とも話ができる。阪田三吉とも、天野宗歩とも、語り合うことができるはずである。


(続く)


名人位を死守


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 升田3連勝のあと、持将棋をはさんで大山が2勝した。

 4月に始まって7月にまで持ち込まれた長丁場の名人戦。「升田危うし」の声がついに出始めたのも当然である。

 このころの私は将棋連盟の職員を兼ねた奨励会員だった。王将戦や九段戦の記録係は数多く務めたが、名人戦に限っては一度もないと記憶する。いつも、朝日へ“出向”の形で学芸部や対局場の電話係をしていた。

 当時の朝日新聞ほど将棋好きの多かった会社は、古今に類がないのではあるまいか。嘱託(社員)に升田名人と新鋭加藤一二三八段を抱えていたせいであることも確かだが、たとえば私が学芸部で継ぎ盤をやっていると背中に両手をかけて「どや。升田は勝つか」と聞く人がいた。二、三度同じことがあるまで、白髪のその人が上野淳一社主であるとは知らず、いつも永いこと盤を見て何かしゃべっているので、ひまな重役さんかと思っていた。

 2日目の午後ともなると、社内の将棋好きが学芸部へ集まってくる。そればかりでなく、毎局、同時進行で“有楽町名物大盤解説”が行なわれた。本社前の路上へ数百人を集めてしまうのだから大変で、警察がうるさかった。

 初日は封じ手までだが、2日目は深夜になっても終了まで解説していた。A級の原田泰夫、松田茂行、五十嵐豊一各八段が交替で担当し、終了の翌日は木村十四世名人の出番。一流の話術で人気があった。時には対局者が壇上からあいさつすることもあった。雨が降っても中止せず、解説の棋士も聴衆も、つり込まれて見る通行人もみな傘をさしていた。

 また、名人就位式は毎回朝日講堂にファンを集めて催され、A級の全棋士が出席し、棋士紹介や紅白リレー将棋などが行なわれた。

 本題の升田―大山へ戻ろう。

 第7局は、7月7、8の両日、三たび東京の「羽沢ガーデン」で行われた。

 この将棋は升田が、

「わが最高傑作」

と言っている。

 スポーツや芸能と違い、将棋や囲碁などは見て楽しむのにも実力が要ると言われる。

 確かにそれは事実だが、私見では、升田の妙手や新手はアマチュアにも分かりやすいという特質があった。たとえば前述(※第79話)の参考B図における桂の空成り。この手なら、5級10級の人が見ても驚く。「すごいことを考えるんだなあ」と直ちに反応する。棋士升田の頭抜けた人気の一因がこれだ。

 けれども今、升田が「最高傑作」とみずから称するこの局の急所は実に渋い。



大山の頑張り


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 第2局は5月7、8の両日、兵庫県宝塚の「松楓閣」で行われた。現代ではほとんど見られなくなった「▲4六歩△6四歩から腰掛け銀模様」の相矢倉戦。この将棋も升田の技が冴えて、粘る大山を127手で振り切った。升田8時間20分、大山は9時間24分を使った長い戦いだった。

 仏法僧の観戦記によると、終局後の感想戦を見ていた招待客の一人が、

「今日は特別慎重に指されたようだが」

と尋ねた。升田は当意即妙、

「名人戦ですからな」

と答えて満場笑いに包まれたそうだ。

 第3局は5月20日から、東京・代々木の「初波奈」で行われた。観戦記で金子八段は、「円熟の升田」と題し、「前2局における升田の勝ち方が今までとまるでちがっている」と論じている。

 金子八段の観戦記は数多いけれど、最も人気があり、すばらしかったのは「升田論」である。もともと金子は木村、花田と並んで“昭和の三雄”などと呼ばれた最高実力者であり、升田は金子の将棋理論を継承していたと自ら言っている。

 大山の頑張りはものすごく、升田のお株を奪って先制攻撃を仕掛けた。「受けの大山」というが、窮地に立たされたときは別人の如き猛攻を見せる。升田は金銀4枚の銀矢倉形で受けに回り、大山の玉飛接近形をたくみに衝いて反撃、128手で勝った。消費は升田9時間31分、大山8時間38分。

 第4局。大山早くも後のない3連敗。対局は往年の阪田三吉対花田長太郎の一戦でも知られる京都の「天龍寺」で行われた。

 この将棋は相矢倉模様から、後手番大山が升田創案の陽動中飛車を採れば、なんと升田も▲7八飛と振る珍無類の駒組みだったが、2日目の6月4日午後11時少し前に持将棋になった。173手で引分け。

 流れが変わった。16、17の両日、再び東京の「羽沢ガーデン」で行われた第5局は、大山に受けの絶妙手が出て143手で升田は敗れた。相矢倉だった。

 この強敵との長期戦は、病体の升田にとっては厳しかった。早く決めて楽になりたい……というのが升田の本音である。

 第6局は6月26日から第3局と同じ「初波奈」で行われた。もう夏になっていた。対局場には大きな氷柱が立てられた。

「大山の血色のよい顔色にひきかえ、升田のそれはよくない。乳色のホヤをかぶった電灯のかげんでないことは、ほお骨のとんがりや、精気のない座り具合でそれとわかる。すする鼻音がしゃがれている」

 軽妙な語り口で人気のあった観戦記者の仏法僧は本名永沢勝雄、戦前のプロ四段だが、戦後「順位戦の主旨に反対」という理由で引退し、雑誌を発行したが人にだまされて失敗。文才のある棋士で、加藤治郎(三象子)がやめたあと、朝日の観戦記を書いた。

「突然カラスが鳴き出す。今朝のやつだろう。声も節も同じだ」

 などとユーモラスな描写が多い。

 この7番勝負では升田も大山も、しきりにタバコを吸って戦った。

 中盤で升田に錯覚があり、銀損。得たりと大山は升田の竜を追いまくり、ついに取ってしまうという得意技で2勝目をあげた。

 146手で、升田は5時間36分しか使わず、2日目の午後4時すぎに投了した。升田の消費時間が少なくて手数の長いときは、体具合が悪いのだ。


(続く)




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2日目の午後、羽沢ガーデンには200人近いファン(招待客)が詰めかけ、初級向き解説上手の五十嵐豊一八段の大盤解説を聞いていた。

「対局場から刻々と指し手が知らされてきますが、正直なところ私(五十嵐)は、升田さんが何か勘違いをしているのではないかと思った。このあと△5四馬には▲7六桂△8一飛▲5五歩△5三馬▲2六飛がある」

 参考B図で、タイム僅か1分、升田は△3七桂成と指した。絶妙の一着だ。

 先の△2八銀打のときに描いた遠大な寄せの構図が、みごとに実現したのである。

 △3七桂成に▲5五銀と馬を取れば、△7七歩▲同桂(または同金寄)△2四飛で、角の丸損であっても升田の必勝形になる。

 大山はこの桂成りを全く身落としていたのである。さすがの粘りで17分考えて▲3八桂としのいだが、時すでに遅かった。130手までで初戦を失った。

 木村義雄十四世名人も△3七桂成の妙手を絶賛し、「この一戦には升田氏の棋風と、その冴えた技が実によく出ている」と評した。


(続く)



ご両人ともおめでとう


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 升田名人に大山九段(王将)が挑戦する、第17期名人戦。

 升田の健康状態はまずまずだし、王将位を奪われたことが、升田の性格からしてかえって良い方に作用するだろうと観測されていた。

 第1局は、33年4月22日、東京・渋谷の「羽沢ガーデン」で開始された。

 金子金五郎八段の観戦記から。

「私はふと前年の名人戦での両人の死闘を思い出した。升田は疲労が濃く精神力だけでようやく身体をもたせ将棋の鬼と化した。最後の第6局の日に私は升田の心情を思い心から祝福しながら、善戦して敗れた大山にも来年再びこの名人戦に雄姿を現わしてくれるようにという言葉をささげ、かつ祈ったのである。そこでまずこの観戦記の初めに御両人ともおめでとうと申し上げたい。升田名人の健康と大山前名人のカムバックを祝して――」

 大山先番で相矢倉模様になったが、升田はこの日も新趣向を見せ、居玉のまま△7三銀から△6四銀と繰り出し、大山に2筋の歩交換を許し、△5五歩▲同歩△同銀とさばいた。

 この将棋は「升田の名局」の一つだ。サワリの部分をご紹介しよう。

 参考A図は、激しく戦った78手目。升田が△2八銀と打ち込んだところである。

 この銀打ちの意図が、控室にいるA級棋士たちにもよくわからなかった。

 以下▲4六銀打△3七銀成▲同玉△2五桂▲4八玉△5五桂▲同銀△3七角(王手銀取り)と進んだ。この時に大山が、数手先の升田の妙手に気付いていれば▲5七玉と逃げていたろうと後で言われているが、本譜は▲5八玉△5五角成▲4六銀打(参考B図)と進行した。



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九段贈位規定


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 大山前名人は、A級順位戦でも粘り強く戦っていた。リーグ戦を終わって6勝3敗。大野源一八段、丸田祐三八段と3者同点である。まず大野と丸田が戦って大野の勝ち。明治生まれの大野だが、鍛え上げた振り飛車の至芸は衰えを見せていなかった。これで同じ木見門下の3人が名人位を争うということになる。

 挑戦者決定3番勝負は大山前名人のストレート勝ちになって、升田名人・九段への挑戦者は大山と決定したが、今でもそうであるように「王将」はタイトル名であって段位とは関係がないし、前名人という呼称は一年限りだから、大山は厳密にいうと八段に戻ることになる。

 ところが大山はすでに名人在位5期で「永世名人」の有資格者であるし、塚田正夫は「九段3期」の規定により段位としての九段を持っていた。昭和33年4月、将棋連盟は新たに「九段贈位規定」を作って発表した。

 つぎの項に該当するものは、九段の資格を得るものとす。

 一、名人に3期以上在位したもの。

 二、名人在位2期以下でも、順位戦における成績抜群なもの。

 以上により大山と升田が有資格者とされ、大山は塚田に次ぐ2人目の九段に昇った。

 上の新規定は読売新聞の「九段戦」の看板に大きく影響したし、棋士総会にはからず、理事会がこんな大切な規定を作ってしまってよいのかという問題を内部に残した。けれども大山を九段にすることに升田も反対はしなかった。

 升田は現名人・九段であったため新規定は直ちに適用されていないが、当然、大山と同時に九段に昇っている。


(続く)