大阪奥河内 大聖勝軍寺④ 奥河内の古寺を巡る 大聖勝軍寺門前の「守屋池」
 

日本書紀用明天皇2年(587)7月の条で、物部守屋大連と蘇我馬子大臣との間で軍事衝突が起こったことを寺伝は伝えている。丁未の乱(ていびのらん)である。そして、この戦は、多くの皇親と豪族を取り込み支持を得た蘇我馬子が勝利し決着した。

寺伝では、この戦いの原因を、崇仏派蘇我氏と敬神派物部氏の宗教戦争とするが、実際上は新興豪族蘇我氏と名門豪族物部氏との覇権争いが主たる原因であったことは多くの歴史家が認めるところである。

 

丁未の乱の主戦場となった大聖勝軍寺周辺

この戦について日本書紀は、蘇我馬子の軍が「志紀郡から澁河の家に到った。大連は自身で子弟と奴軍とひきい、稲城を築いて戦った。」と伝えている。
 志紀郡とは今の大阪府八尾市であり、澁河とは東大阪市に該当し、この地域一帯は名門豪族物部氏の本拠地であり館もあった。

大聖勝軍寺の所在する一帯は、この丁未の乱の主戦場となったのである。

 

門前にある守屋池 この池は迹見赤檮( とみのいちい )が鏑矢(かぶらや)で守屋をを射落とし、秦河勝がその首を取って、 この池で洗ったとの伝えがある。 

 

 

大聖勝軍寺の近くに 迹見赤檮( とみのいちい )が 守屋を射落とすのに用いた鏑矢を埋めた 「鏑矢塚」がある。

 

 

竜華中学校の南に 「迹見赤檮発箭地(とみのいちい はっせんち)史跡 弓代」と書かれた 弓代塚(ゆみしろ)塚がある。

 

迹見赤檮( とみのいちい )は 物部軍壊滅のきっかけとなった 軍功に対して
「田一万頃を以って( たよろづしろをもって ) 迹見首赤檮( とみのおびと
いちい )に賜う 」と日本書記に書かれている。

 

 

次週は 大阪奥河内 大聖勝軍寺⑤ 奥河内の古寺を巡る 排仏派が破れても神道を崇敬する人々がいた物部守屋の墓 です