奈良飛鳥寺④ 蘇我馬子飛鳥寺建立目的は 新西国第9番

 

用明2年5月、蘇我馬子は政敵であった物部守屋を河内で倒した。この戦いには聖徳太子も蘇我氏の陣営にあった。 この結果、蘇我馬子はほぼ全権力を手中に収めることになるが、それを確固たるものにするためにその強大な権力を皇族、豪族、民衆に誇示し畏服させる必要があった。


その一つの方法として人が驚きその力に畏怖するほどの巨大で斬新な建造物飛鳥寺の造立であった。


完成には約21年を要した。日本書紀には崇峻元年(588)造営開始、

 


再建された現在の安居院(あんごいん)中庭  旧法号:法興寺、元興寺

右上に飛鳥寺形石灯籠(南北朝時代)推古4年、一応の完成を見せ、馬子は息子の膳徳を寺司に任命し、僧を居住させる


この東面する門が現在の正門。創建時は南面に正門があった。

推古13年(605)、本尊の鋳造開始。高麗国、大興王から黄金三百両送られる。


推古14年(606)、本尊完成し金堂に安置し完成する


冬の雨に煙る境内。 正面に鐘楼。 右 弘法堂

法号は法興寺または元興寺


飛鳥寺は、蘇我氏と結びつきが強かった渡来人に繋がる朝鮮半島の百済国などから6人の僧、寺大工、露盤博士、瓦博士、画工などの派遣を受けたと記録(日本書紀)にあり、彼らの指導の下に建立されたと考えられている。


聖徳太子の師といわれる高句麗の高僧・恵慈など、既に日本に渡来していた僧もその指導に加わっていたであろうと推測されている。 なぜか本物の郵便ポスト。日本の激動の時代を偲ばせる忠魂碑。第二次大戦中の昭和18年(1943年)に鐘を供出させられ、以後、昭和33年(1958年)に新しく鋳造されるまで鐘楼には鐘がなかったという。


片隅に弘法堂。四天王寺にも弘法大使が熱心に訪れていたらしい。

 

 

次週は奈良飛鳥寺⑤ 入鹿の首塚 新西国第9番です・・・