大阪奥河内 金剛寺 ① 奥河内の古寺を巡る 南北朝時代の行在所 新西国33第7番

 

金剛寺は観心寺とともに河内長野市の名刹であり、南朝後村上天皇の行在所(あんざいしょ)ともなり、またその後北朝の行在所にもなった寺格のあるお寺である。

 

駐車場から川沿いに広い境内が続く。

 

 

寺務所横を通って

 

本坊表門  拝観料がいる。

1352年2月、足利氏の内紛によって勢力を盛り返した南朝軍の京都奪回の時に、光厳・光明・崇光上皇は拉致され、大和賀名生(奈良県五條市)を経て、1354年3月この天野山金剛寺で南朝方の軟禁下に置かれた。1357年2月に、帰京されたが、この4年の間、本坊・観蔵院客殿が三上皇の御在所となった。

 

 

本坊表門の中には北朝の御座所だった観蔵院客殿。正面になぜか蛙の置物が鎮座。

 

 

天野川沿いの道を歩くと、沢山の橋があります。

 

 

忍之橋を渡ると講堂、無量寿院

高野山が女人禁制だったのに対して女性も参詣ができたため、室生寺(むろうじ)などとともに「女人高野」と呼ばれている奥河内の名刹の一つ。

 

 

新之橋と食堂

 

 

右に南朝行在所摩尼院

足利氏の内紛よって勢力を盛り返した南朝の後村上天皇は、1354年10月、当寺院子院魔尼院を御在所とされ来山された。

 

 

摩尼院へ通じる路

以降、この魔尼院は、長慶・後亀山天皇と続く、約30年の間、南朝方の行宮となった。

 

 

楼門が現れた

 

楼門

創建は不詳。但し、建築様式から鎌倉時代後期の建造物と推定されている。また建築部材に慶長10年(1605)修理の銘文が残されている(重要文化財)。

 

 

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