皆さま

 

日向は神話の里とも言われ、古墳も数多くあることから、日本の形成プロセスにおいて重要な役割を果たした勢力の拠点となっていた地域ではないかと思います。

 

今回は、海人族の祭祀と関係のある神社や、日向の古墳探訪など、時間をかけてこの地を回ったときの記録をご紹介したします。

 

よろしくお付き合いくださいませ。

 

 

鵜戸神宮

所在地:宮崎県日南市大字宮浦323

祭神:彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)




宮崎県は神話の里とも呼ばれ、神武天皇東征の神話や皇室に関連のある古墳群などもあって、興味の尽きないところです。


鵜戸神宮は、典型的な海神祭祀の神社です。山幸彦・海幸彦の神話は、穀霊神(天孫族の祀る日神)と海神(海人族の祀る龍蛇神)の交流を描いたものであり、この神話の原型は、インドネシアの島に伝わっているものと同じパターンであるともいわれています。

 

というのも、この神話を伝承してきたのは、日向地方に定住した海人=隼人族のものだといわれており、彼らはインドネシア方面から琉球諸島を経て南九州にやってきた海の民だと考えられるからです。

 

鵜戸神宮から見た海

 

階段をどんどん下っていくと、洞窟の中に300坪ほどの広さの社殿が建っており、それ自体が異様な雰囲気を醸し出しています。

 

岩窟内にある鵜戸神宮の社殿

 

また、社殿の裏側には、母君の豊玉姫が御子の育児のため、両乳房をご神窟にくっつけて行かれたと伝える「おちちいわ」がある。いまもなお絶え間なく玉のような岩しみずを滴らせて、安産・育児を願う人々の信仰の拠り所となっています。


ちなみに、瓊々杵尊の天孫降臨から、彦火火出見尊、そして神武天皇の父であるウガヤフキアヘズをまでの三代を「日向三代」といいます。日向三代の神話はいずれも、穀霊と海神の結婚という形を取っています。


「火のないところに神話はできない」……神話、それは1つには何某かの歴史的な出来事を神聖化、権威づけして出自を神格化しようとした王族たちの物語であると考えられます。


たとえば、中国東北地区を出自とする扶余族の神話は「卵生神話」といって、天から大きな卵が降ってきて卵が割れて生まれたのが初代の扶余王であったというようなストーリーになっており、以後朝鮮半島の扶余系王統(百済)に共通の神話のモチーフになって受け継がれています。


日本神話も後世の書き換えが甚だしいと思われますが、その鋳型となっているエピソードはあるわけで、国産み、国譲り、太陽神アマテラススメラノオオカミのお隠れ事件、素戔鳴命のご乱行などなど一見荒唐無稽のストーリーの中に、歴史的イベントが隠されているのでしょう。

 

その中でも日向神話は具体的な記述が記紀に残されており、歴史的事実との接点も見つけやすいといえます。


とはいうものの、神話に登場する神々は特定の歴史的人物の行動を表したものとはかぎりません。自分たちの先祖(祖霊)のイメージを神話の人物として投影しているかもしれないし、人々の崇拝の対象を神格化している場合もあります。それに、日本では人も死して守護神となり、ときに祟り神にもなるという霊魂観があります。

 

したがって、人、モノ(魂を意味する古語)、カミ(自然)が渾然となったのが日本神話であろうと私たちは考えています。



サイコメトリー(高千穂にて)

のちの天皇家につながる祖先が九州に上陸してきて、その後各地を転々と移動していった。

 

放浪の末、やっと見つけた場所が高千穂だった。

 

高千穂で先住民と交流してしばらくそこを拠点としていたが、長期間滞在することなく、今度は南に向かい、海の民と交流の輪を広げていった。

 

高千穂の山並み

 

国見の丘

 

山の民と海の民が協力関係を持つようになって、大きな勢力にまで発展していった。

 

東征と呼ばれているものは、一筋縄ではいかない大事業であり、一気に成功したわけではない。

 

何段階もの準備をして、この地(九州)での地位を確立した後、東に向かって多くの豪族を味方につけ、最後に彼らは大和の地に王朝を築いた。



このように、神話には隠された事実があることは確かですが、他方でこのようなメッセージも受け取っています。

 

 

神話は人間が勝手に作り上げたものである。

 

後世の歪曲や改竄が甚だしく、事実関係を反映しているとは限らない。

 

人の意識が神のイメージを作り上げ、自分たちの行いを正当化するように神話は作り上げられた。

 

だから、神話にとらわれるのは意味がない。


 

古事記や日本書紀に書かれている神話は、いわば天孫族の「物語」として読んだ方が妥当であるという意味でしょう。

 

記紀が編纂される以前には、各部族の神話があったはずです。

 

後になって抹消され、歴史の闇に葬られてしまったものもたくさんあります。

 

「海幸彦と山幸彦」の神話にしても、ある程度の事実関係が反映されているのは間違いないでしょうが、どこが正しくてどこが間違っているのか、今となっては検証するのは容易ではありません。

 

私たちは、宮崎県の主な古墳も見に行きましたが、西都原古墳群の鬼の窟古墳は、この地の首長クラスの墳墓として異彩を放っていました。

 

鬼の窟古墳

それ以外にも、宮崎県には比較的初期に築造された大規模な前方後円墳も多く、宮内庁の陵墓参考地になっているところもあります。

 

 

 

後のヤマト王権の大王家とのつながりがハッキリと確認できます。

 

もう少し、深読みしてみれば日向を拠点として幾内方面へ展開していった勢力が故郷の地にヤマトと同じ規格の古墳を作ったとみるのが自然な捉え方だと思います。

 

大王家につながる部族の本来の拠点だったのが、この地だったと私たちは「視て」います。ヤマト国(邪馬台国)からヤマト王権への移行プロセスをたどるときに、宮崎県の遺跡の存在は無視できないと思います。

 

研究者たちは畿内説Vs.北部九州説の2択でとらえがちですが、見落とされている重要な場所の一つが日向の地です。彼らの主張する「定説」にとって何か不都合なことでも隠されているのでしょうか?

 

参考文献

(1)次田真幸(全訳注)「古事記(上)」 講談社学術文庫,1977
(2)青島神社 「日向神話-誰でも分かる解説書」 青島神社
(3)梅原猛 「天皇家の”ふるさと”日向をゆく」 新潮社,2000


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