昨年から霊界通信がたくさん降りてきているのですが、

イエス様や遠藤周作などの、キリスト教関係神霊が降りています。

私自身は日本人ですし、日本人なら神道! と思っています。

どうしてそんな私にイエス様が霊界通信を下すのでしょう?

 

≪神学研究の発端となった神秘体験★トマス・アクイナス霊≫

 

私は生前は、神学の研究者でした。

唯一絶対の神や、救世主であるキリストの正当性を探求していました。

でも、大分後になってから(1244年頃、死ぬ数ヶ月前ですが)、

「こんなことに意味は無い」と感じるようになりました。

だって、神は人間から独立して存在しているのですから、

神の正しさを証明する必要はないわけです。

逆に人間の存在意味を、神に対して証明しなければならないでしょう。

そう思うと、自分が今まで取り組んできた研究が無意味だったことが判明しました。

自分は、神に必要とされていたのだろうか?

学問の世界、人間からは認められていましたが、人間に認められていても

神に必要とされていないなら無意味です。イエス様に適う人間になりたい!

死の直前まで、そう考えていました。

 

神の力は、宇宙の法則としての働きと、愛の救済の働きの二つの働きがあります。
「宇宙の法則のままに生きる」と言うのは、霊性のままに、と言うことですが、
頭の中では分かっていてもこの宇宙の法則に身を任せることは、物質人間には難しいです。

出家し修行僧となっても、神に適う人間であるかどうかは、神にゆだねられているので、

修行僧の側が精進しても、神の許しが無いと意味が無いのです。

何事も、神のご意思に依るのですが、人間はその霊的真理に気が付かずに

独りよがりな信仰をしています。


私は自分の信仰心と、神学の研鑽には自信がありました。

自分の精進は神に適い、祝福されているのであると、勝手に思い込んでいました。

日本では、独りよがりでプライドの高い修行者の霊を「天狗」と言いますが、

それは正に私です。自分は立派な神父で、誰と議論しても負けない、と。

神様がもっとも嫌う人間ですよね、しばらくそれに気が付きませんでした。

しかし、そのおろかな人間も救わなければならないのが神様の御業です。

 

自分が死ぬ何か月か前のことですが、ある修道士がこんなことを言いました。

「私は神から必要とされているのでしょうか?」

この吾人は、とても誠実で立派な宗教者で、何も問題は無い様に見えました。

「私は貴方を尊敬しています。貴方は神に適う神父と思いますよ」と答えると、

「それが問題なのです」とおっしゃいましたが、その会話はそれで終わりました。

その時、私は気が付きました、この吾人は故人であると。幽霊だったのです。

驚きで、声が出ない私の顔を一瞥し、吾人は静かに去って行きました。

 

何故、この吾人は幽霊になり現れたのでしょう?

私は、吾人の言葉が、妙に心に引っ掛かり、それを考え続けました。

何が問題なのか?

 

「私は神から必要とされているのでしょうか?」

 

その疑問を自分に対して投げかけた時、戦慄しました。

どうなのか?神はどう思っているのか、わかならい。。。

物心着いた時から、ずっと神を信じて、イエス様を求めてきました。

人一倍精進してきたつもりですが、その神が私をどう思っているのか、

ということは考えたことが無かったのです。それは、厳密には、不遜な行為です。

尊い神の御心を推し量るなどとは、人間には出来ない事ですから。

しかし、神を想えば想うほど、純粋な要求となるものです。

 

自分は、本当に神に適う人間であったのでしょうか?

それは、私にとっては深刻な問題です。実は、私は少し偉い立場の神父でした。

大学の教授を拝命し、神父の教育者でした。キリスト教には¨秘蹟¨という儀式があります。

神父は神の代理者として、その秘蹟を執行し、信徒に神の御力を与えます。

絶対なる神の御力を、信徒の魂に注ぎます。それはキリスト教徒にとって

最も重要な儀式です。私は、神父たちの教師として、秘跡の正当性や、

神の偉大さを説いておりました。もし私のその言動が、神のご意向に背くものなら

私が生きている意味はありません。これまで精魂傾けてきた研究が無駄になります。

 

キリスト教(カトリック)では、教会と神父は、神の代理者としての権威を

キリストから下された、という前提があり、私はそれを無条件で信じておりました。

そして、神学者である私の使命は、神の代理者である教会と神父の正当性を異教徒に示し、

自明のものとする事でした。一言で言うと、教会権威主義ですね。

今にして思うと愚かしい。。。

教会と神父の権威を論理武装することが、神に適うことであると思い込んでいました。

間違った信仰でした。神は絶対者なら、人間からの権威付けなどは必要ないのです。

権威が欲しかったのは、教会と、他ならぬ私です。

当時の私は、神学者としての地位に安住したかったのでしょう。

そのような訳で、教会と、その中での自分の地位のために、神学の研究をしておりました。

そうした中で、彼の吾人の「私は神から必要とされているのでしょうか?」

という言葉は、私の心に重くのしかかりました。

しかし、このように、神の御心や、教会の権威に疑問を持つというのは、

自分の信仰の姿勢に問題があるのではないか?

真に神に全託していれば、何も疑念は起こらないはずですから、

日々の暮らしの中で、神を信じて行けばよいのですから。

心の葛藤は、とめどなく、私の魂の中を駆け巡りました。

 

実は、私には二十歳くらいの時に、天使の訪問が在りました。

啓示と言うか、霊感ですね、天使の言葉を受けました。それは、出家した時のことで、

家族が猛烈に反対し、私を監禁したのです。家族は、私に出家を諦めさせようと、

非常な美女を次々と連れてきて、陥落させようと謀りました。

私は、彼女たちはとても美しいと感じましたが、それよりもキリストへの思慕の念が勝り、

彼女たちとは何事もなく、断りました。私は、無理解な家族への失望を振り切り、

神への忠誠心を示すために、より一層研鑽に励みました。

 

天使が訪れたその時は、夕刻でした。外は徐々に薄暗くなっていきます。

私は、日々繰り返される性的な試練と、家族の愚かさに憔悴していました。

表面的には平静を装っていましたが、心の中は、言葉も失うくらい孤独でした。

夜になっても、灯りをともす気力も在りませんでした。身体が動かなかったのです。

眠っていたのか、金縛りだったのか。。。

気が付くと、室内がぼんやりと明るくなっていました。灯は無いのに。

その時、背後に大きな存在を感じました。振り向くことは出来なかったので、

確認はしていませんが、何故か天使様だと思いました。

天使様は、私の腰に御手を回し、錦の帯を締めてくださいました。

その帯も、肉眼では見ていませんが、金糸で織られた見事なものでした。

私は、初めての神秘体験で、只々方然としておりました。

すると天使様が「この帯は、神と貴方の約束です。貴方はもう迷うことは無いでしょう」

とおっしゃいました。それは、神のご意思、と受け止めました。

「招命」だったのかも知れません。私の神学者としての使命です。

結果的に、その使命は生前は果たせなかったのですが。。。

この神秘体験は、世間では¨貞操の誓い¨という逸話として知られていますが、

修道士として、魂の誠を神に捧げるという意味ですが、

それ以上に、研究者としての在り方を、神から認めていただいた、と感じました。

 

その研究の内容ですが、簡単に話しますね。

 

 

≪神への信仰の在り方について≫

 

西洋では、伝統的に、理性は神聖なものと考えられています。

しかし、キリスト教は宗教なので信仰を誠義(ソンイ)しなければならない。

信仰と理性は、神に於いて一致するものであることを論証したかった。

 

どの宗教でも同じと思いますが、信仰と学問は別のものと考えられていますよね。

信仰心は、神への愛や忠誠心ですから、理屈ではないですから、

学問が口を挟むものではないのです。

でも、それで済まないのがこの現世というもので、私が生きていた時代は、

イスラム教の学者が大変活躍し、各分野でとても優秀な研究者が居ました。

そのイスラム系研究者はギリシャ哲学に精通し、特にアリストテスの手法を取り入れて、

イスラム神学に役立てようと企てていました。私は単純に、焦りを感じました。

イスラム教が、アリストテレスの鎧を着て、キリスト教に挑んできたと。

 

当時のイスラム世界は、ヨーロッパよりもかなり進んでいました。

最も脅威を感じたのは、その信仰姿勢、神学です。

イスラム教の教えの特徴は、神と信徒が直接的に結びつくことにあります。

だからこそ、ムハンマドは神の子ではなく、預言者なのです。

一方、キリスト教は、イエス・キリストを神の子としていて、神と交流できるのは、

神の子であるキリストのみです。しかし、イエス様は昇天されているので、

霊的には復活していますが、物質的実在という形でのイエス様は居られません。

唯一の神の子であるイエス様が居られないのでは、

信徒と神を結びつける事ができないので、キリストの代理者としての教会と神父が

権威付けられました。こちら(霊界の愛の家)に在ってわかりましたが、

教会も神父も、人間の側が神から離れて作ったバベルの塔なのです。

信仰の在り方に関しては、どう考えてもイスラム教が正しいのです。

信仰は、人と神の全く個人的な結びつき、魂の絆です。教会は必要ありません。

神に、人間個人が真摯に向き合う、それだけで良いのですから。

 

しかし、現世の私は、「キリストは神の子である!」と固く信じておりました。

ですから、私はキリストのみが神の子であることの証明をしなければならなかったのです。

そのために、奇異なこじつけを考案しました。

 

   ①無原罪のマリア→夫が無く受胎

   ②復活のキリスト→永遠の命

   ③三位一体→唯一の神を担保

 

この三つは、神理ですが、現世の私は正しく示すことができませんでした。

現世的思考にとらわれていたため、神に適う道を、世に示すことができなかった。

無原罪のマリアは、地球太母を示していて、

復活のキリストは、同行二人であるところのアガペーとしての実在

三位一体は、宇宙の霊的生態系を示しているのです。

いずれも、現世では全く分からなかった神理です。

 

次の記事に続く

 

 

 

 

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