「小百合の母の生家は山の手の上流家庭で、

                 兄弟妹は当時の著名人」

吉永小百合は1945年(昭和20年)3月13日、東京代々

木の産院で生まれた。敗戦の年の3月、大空襲の後に

疎開もせずに東京の産院で産む、ということはかなり少

数派であったろう。小百合の父・芳之(鹿児島出身、東大

法学部卒)はその時34歳、戦時下の統制団体・情報局

に勤務、紙の割当部門の経理を担当していた。母・和枝

は30歳、小百合は二人目の女の子だった。「戦いのさな

かに生(あ)れて小百合の崇き気負いを持ちて生き抜け」

は、作家になりたかったという母が小百合に送った短歌。

 父は終戦後、紙の統制に関していたからか出版社シネ

・ロマンス社」を経営。飯島正 双葉十三郎 らと映画ファン

雑誌「シネ・ロマンス」を刊行するも、事業に失敗、結核に

なり一家は母・和枝のピアノ教師としての収入によって支

えられた。母・和枝は多忙な中にも歌を詠んだり、新聞・

ラジオに投書することに励み、1976年にはそれまでの

手記を集めて「母だから女だから」(立風書房)という単行

本までだした。

 また母・和枝の父は、英文出版社の大観社社長の川田

友之。つまり小百合の祖父は、日本郵船の全盛期にその

英文出版を一手に引き受け、その代表的な出版物・豪華

本の英文年鑑「東方瞥見」などは、郵船所有の客船の船

室、ホテル、銀行、図書館などに置かれた。1970年代は

じめにいくつか短い吉永小百合論を書いた虫明亜呂無(

むしあけあろむ)は、少年時代に「学校で教える英語とは

けたちがいに上質で、高級な、しかも実用性の豊富な英

語」で記されたその年鑑の「フレーズや文章表現をノートに

書き抜いて暗記」した。

 母・和枝のすぐ下の妹に川田泰代は『婦人 画報』編集長、

戦後の一時期女性ジャーナリストとして名をなし、共産圏特

に中国との強いコネを持って活躍、「アムネスティ・インター

ナショナル日本支部」の創設メンバーのひとり。ただ和枝

と泰代は不仲で、小百合がすでにスターとなっていた

1963年には、和枝は実家である川田家そのものとも事実

上の絶縁状態にあった。祖父・友之は、和枝を兵庫の山寺

(母方の祖父母の家)に預けていた大正中期、一家を引き

連れ大阪から東京に移り、大規模に事業を展開した。彼が

関東大震災後に千駄ヶ谷駅近くに新築した家は大きな洋

館づくりで、「いかにも大正時代の成功者が、産をなし、財

を築いたのちに建てた建築の名残りらしく、どこかに成金

趣味と教養趣味の面影が適当に案配され」(「吉永小百合

の反庶民性」虫明亜呂無、婦人公論1972年8月号)たもの

だった。ここに子供7人を含む家族11人と数人の書生、女中

、それに運転手夫婦の合わせて20人以上が住み、30代で

すでに金と地位を得た友之が君臨していた。川田家の子ど

もたちは、父親の「ケトウに負けるな、たくさん食って大きく

なれ」「脚が曲がるから正座するな」「ピアノを習え」「スキー

をやれ」と言われて育ったが(現在でいえば、次第に高じて

会社や家の中で英語を話せ、ということであろうか)、 川田

家の7人兄弟の上から2番目で長女に生まれた小百合の母

和枝は、三歳の時に祖父母の播磨の山寺に預けられ、

6歳で小学校に入る時に東京の家に戻された。その後も夏

休みの度に播磨の寺へ「帰る」ぐらいにその土地と祖父母

の寺に馴染んでいたので、洋風に育った妹とは違った古風

面も持っていたようだ・・・続く(Wikipediaと関川夏央『昭和

が明るかった頃』より)