すっかり暗くなった空から落ちてきた雪が、泊まっている部屋から漏れてくる薄明かりの中に一瞬だけ白く輝くと、立ち上る湯煙の中に舞い込んでは消えていく。

 

「ほんと、いい湯だなぁ」
後藤真彦は背を肌触りのよい滑らかな岩にあずけてすっかりとくつろいでいた。
「来てよかったでしょ」
すぐ傍でやはり湯につかっている妻の明菜が笑みを浮かべてそう言った。偶には一緒に旅行でもしようと言いだして、この宿を決めたのは明菜の方だった。
 

「ああ、偶には身体もゆっくり休めないとな」
明菜に感謝するつもりなどさらさらなかったが、確かにこの露天風呂は絶品だった。
舞い落ちてくる雪がまた風情があっていい。

離れの和室の軒先に設えられた部屋付きの露天風呂なので、誰に気兼ねすることなくゆっくりと浸かっていられるのも有難かった。

 

「あら、現金なものね。あんなに来たくなさそうだったのに」
笑ったままではあったが、明菜がちくりと棘を含ませて言った。真彦はこの旅行を直前まで散々渋っていた。
「仕方ないじゃないか、仕事の予定が入っていたんだから」
本当は、秘書の今日子と秘密のデートの予定だった。

今日子は明菜のような美人ではなかったが、よく気のつく女で、真彦は明菜と別れて今日子と結婚することを真剣に考えていた。
 

「ほんとうに仕事だったのかしら」
どきりとするようなことを明菜が口にする。
「あたりまえだろう」
さすがに視線をそらせて真彦はとぼけた。
 

今日子は社長秘書として一日中真彦の身近にいる。

疑うことは出来るだろうが、たとえ興信所を使ったとしても決定的な現場を押さえるのは難しいはずだった。今日子には不自由をさせていたが、関係を持つときはもしもがないように常に慎重に慎重を重ねている。

今回の旅行も明菜に余計な疑いを持たれないためにはしょうがなかった。

 

「あら、やっぱり何かやましい―― 何?」
明菜が言いかけて、言葉を止め、小首を傾げた。
 

がさがさ、と露天風呂を囲んでいる植え込みが音をたてて、積もっていた雪が舞い散りながら落ちてくる。
(なんだ?)
真彦が言葉を止めた明菜を見てから、その視線の先に同じように頭をめぐらせたときだった。

 

「悪い子はいねぇかぁ」
植込みが割れて、赤い何かが姿をあらわした。
 

「きゃぁっ!」
真彦があっけにとられている内に、明菜が小さく悲鳴を上げ、赤い何かは機敏に動いて植え込みを抜けると露天風呂に飛び込んできた。

明菜を羽交い絞めにするように後ろから抱えると立ち上がらせた。

 

「でけぇ声出すでねぇ」
なまはげだった。
真っ赤な鬼の面を被って、ぼろぼろのケラミノを身に纏い、はばきを着けたなまはげが、明菜を後ろから抱いている。

明菜の顔の前に突き出されたその手に鈍く光るのは、鉈のような巨大な出刃包丁だった。
 

「いやぁ……助けて」
呆然と動けぬままの真彦に、明菜が震える声で小さく助けを求めた。

なにせ先ほどまで夫婦水入らずで風呂に浸かっていたのだから、全裸である。なまはげに後ろから抱き抱えられて、腿から上――秘所も胸も無防備にさらけ出された妻を、首まで湯に使ったままぽかんと真彦は見あげた。
 

(いったい何が……)
「悪い子はいねぇかぁ」
再びなまはげが声をあげた。手にした出刃包丁が明菜の白い胸の辺りで不気味に揺れる。

 

「おめぇは悪い子かぁ」
そう言うなまはげの顔は、とても作り物の面の様には思われなかった。
がっと見開かれた巨大な双の眼も、巨大な犬歯がむき出しになった口も、ぼさぼさの汚れた髪も、その髪の毛から突き出た二本の角も、ざらざらした鮫肌の恐ろしい赤ら顔にも、これ以上ないほどリアリティが備わっている。
 

「いやぁ……私は何も悪いことなんて……」
明菜が掠れた声で答える。
「ほんとーかぁ」
出刃包丁が若干持ち上がると、ぴたぴたと明菜の頬を叩いた。
 

「ほんとうよぉ」
明菜は泣き声になっていた。きつく目を閉じて恐怖に耐えているようだった。その、明菜の髪をなまはげが鼻を近づけてくんくんと嗅いだ。
 

「まんず、ほんとのようだぁ」
なまはげはそう言うと、明菜を払いのけ湯の中を前進した。

明菜が悲鳴をあげて湯に身体を沈めるのと同時に、未だ動けずにいる真彦の眼前に鈍らそうな刃の出刃包丁がぴたりと向けられた。

 

「おめぇは悪い子かぁ」
真彦は無言でぶるぶると首を横に降った。

およそ現実のこととは思えないが、出刃包丁の向こうにちらつくなまはげの顔はどう見ても作りものの面のようには見えない。
 

「嘘をつくと、とって喰らうぞぉー」
なまはげが更に一歩前進し、出刃包丁の角が軽く真彦の眉間の辺りを小突いた。
(……悪いこと? ……悪いこと? 俺は何か悪いことをしたか?)
殺される、と真彦は思った。

先ほどから蛇に睨まれた蛙のようにぴくりとも動けずにいる。
 

白状すべきことが何かあったかなと思い、空回りしている脳を懸命に働かせた。

自ら悪いことを白状してしまっては更に拙いことになるような気もしたが、嘘をついたりするとこつこつと眉間を打っている巨大な出刃包丁が振り上げられそうで怖かった。
 

「俺は悪いことなんか……」
だが幾ら懸命に考えても、なまはげに懺悔するようなことは何も思いつかない。おそるおそるそう言おうとした。

 

「あなた、浮気よ、きっと浮気のことよ」
突然、なまはげの後ろから明菜が真彦を遮るように声をあげた。
「馬鹿、何を……」
そう言いかけて、なまはげの持つ出刃包丁が振り上げられたのに真彦は気づいた。
 

「おめぇは悪い子かぁ」
なまはげがかがんで顔を真彦のそれに近づけるとそう吠えた。
 

「してます。してます。今日子と浮気しちゃいました」
さーっと全身の血が引いていく感覚があった。

大上段に振り上げられた出刃包丁に怖気づいて、真彦は何も考えられなくなってそう口にした。

 

 ※

 

「よぉ、遅かったな」
待ち合わせのホテルの一室に入ると、既に田上俊彦は来ていて、バスローブ姿でビールを飲んでいた。
「いろいろやることがあったのよ」
コートを脱いでから明菜はそう言うと、ソファーに座る俊彦の傍らに腰掛けた。
 

「上手くいきそうか?」
テーブルの上に出してあったビールを一缶とってやりながら、俊彦がそう尋ねた。
「ええ、後藤ったらすっかり怖気づいてしまって」
そこで、うふふと、明菜が思い出し笑いを浮かべた。

まったく、いつもは偉そうに大企業の社長面しているくせに、真彦の肝っ玉が小さいことといったら。

 

なまはげが姿を消した後も真彦の恐怖はおさまらなかった。
明菜の質問に、面白いように今日子との秘密をぺらぺらと喋ってくれた。もちろん全て録音してある。

裁判では証拠にはならないかもしれないが、出すところに出せば立派なスキャンダルにはなる。世間に名の知れた大企業のオーナー社長である真彦には決して看過できない疵になるような内容だった。

 

「じゃ、慰謝料取れそうなんだな」
俊彦が身を乗り出す。
「ええ、協議離婚に応じるそうよ」
弁護同士の話し合いは、概ね明菜の思惑通りに進んでいた。

こちらにも弱みがある以上、さすがに財産の半分までもという訳にはいかなかったが、真彦が慰謝料としてそれなりの金額を出すことを了解することはもう間違いなかった。
 

「幾ら? 10億は出すんだろ」
俊彦が明菜の顔を覗き込むように尋ねた。
「あんたのお金じゃないからね」
明菜は自分よりも一回りほども年下の恋人にそう釘をさした。
 

「えぇ、つれないなぁ。でももうじき俺の金にもなるんだろ」
俊彦の手が伸びてきて、明菜の胸を服の上からまさぐる。
 

「やぁ、シャワーを浴びてから……」
形ばかり抗ったが、ついぞ真彦からは感じたことのない悦びがすぐに明菜の身体を支配していく。

大企業の社長婦人という地位は魅力的だったが、この悦びにの前には全てがかすんで見えた。

 

俊彦はメイクアップアーティストだった。
海外帰りで、若くて才能があって、セックスが巧みで、お金は持っていなかったが、それは明菜のほうで充分用意できた。
 

だが、ある日、俊彦とホテルから出てきたところを写真に撮られた。

直感的に真彦の仕業だと分かった。真彦が秘書の今日子と出来ていて、自分と別れたがっていることを明菜はとっくに承知していて、それは明菜も望むところではあったのだが、別れ話を切り出すのは真彦と今日子との不倫の証拠を掴んでからでなくてはならなかった。

 

「だってさ、こないだの露天風呂で後ろから抱きしめたときヤバかったんだぜ。明菜があんまり色っぽいもんだから、あの場でやりたくってしょうがなかったんだから」
耳元に舌を這わせながら俊彦が吐息を吐きかけた。
 

そう、ハリウッド仕込のメーキャップアーティストである俊彦の手にかかれば、ホンモノのなまはげを出現させるなど朝飯前だ。

計画は予想以上に上手く運んで、真彦はあっけなく自分の不倫を白状した。
 

「わたしもよ、あの場で欲しくってしょうがなかった」
俊彦の顔を引き寄せてキスをする。

あのなまはげは本当に見事だった。知っていた自分でさえ、この世のものならぬ悪鬼が彷徨い現れたと感じたくらいだ。
あの場で、あの姿で嬲られたらきっと――

 

「……何?」
激しい行為の後のけだるさの中にいた明菜の耳が何か物音を捉えた。他に誰もいないはずの部屋であるのに、確かに音がした。
「どうした?」
突然上体を起こした明菜を俊彦が訝しげに見る。
 

「他に誰かいる……?」
音のした辺りを探して、明菜がきょろきょろと視線を彷徨わせる。
「誰もいるはず――」

 

 ※

 

「奥さんに間違いないですか?」
刑事の問いに、後藤真彦は真っ青になって頷いた。
やはり遺体を綺麗に死化粧してから見せるべきだったかと刑事は思ったが、それなりに権力の近くにいるらしいこの男の方から現場に押しかけて来たのだからしょうがない。
 

「その……、犯人は?」
真彦が震える声で尋ねた。ぶるぶるとその身体が痙攣しているかのように振るえを起こしていた。

 

小耳に挟んだ情報では夫婦の仲は既に冷え切っていたというが、案外愛していたのだろうか?

もっとも、今回のように惨い遺体を目の前にすれば当然なのかもしれなかった。
 

実際、死体を見慣れているはずの刑事の自分でさえ目を背けたくなった―― それ程ひどい殺され方だった。

 

「それが、これだけ大胆な犯行にも関わらず、まったく目撃情報がないんですよ」
「そう……ですか」
この旦那は犯人じゃないなと、刑事は短い時間の間に確信めいたものを感じていた。
情夫と密会中の妻が情夫もろとも殺されたのだから旦那を疑うのは常道だったし、まだアリバイを取ってもおらず、例えアリバイがあったとして誰かを雇ったことも考えられなくはなかったが、この脅えようは犯行を行った人間のそれではないように思われた。
もっと、何か別のものに脅えている。そう、例えば犯人に。

 

「その……凶器は?」
真彦がさかんに生唾を飲み込みながらまた口を開いた。聞きたくないのに、聞かざるをえないといった感じだった。
 

「犯人が持ち去ったらしく、まだ特定はされてないんですがね、何か鉈のような鈍器のようです」
犯人はその鈍器で力任せに二人の額を叩き割っていた。遺体の顔面は誰が誰だか分からないほどぐちゃぐちゃに潰されている。
 

この旦那は犯人ではないが、何かを知っているのだろうか? 真彦の口調に少し興味を持って、刑事は凶器のことを話してみる気になった。

 

「ナ……タ?」
―― 悪い子はいねぇかぁ
そう問い詰める悪鬼の姿が、鉈のような巨大な出刃包丁を振りかざすなまはげが二人の頭をよく熟れた石榴を引き裂くように叩き割る姿が真彦にははっきりと見えた。
 

「ええ、斬ったというよりは、むしろ叩きつけたといったような……あっ、ちょっと」
そこで、真彦は気を失って倒れこんだ。

 

 ※

 

「悪い子はいねぇかぁ!」
バタンとドアが開いて巨大な赤ら顔が突然現れると、部屋にいた連中に軽いパニックを引き起こした。
 

「驚いた?」
なまはげが顔に手をやると、特殊なフィルムで作られたフェイスマスクを剥ぐように外した。
 

「なんだ、ジローかよ。吃驚させるなよ」
出てきた顔を見て、居合わせた全員がほっと息をつく。
 

「悪い、悪い」
ジローと呼ばれた若い男はそう言って、フェイスマスクをひらひらと揺らせて見せた。
 

「それ見つかったんだ?」
中の一人が、ジローにそう尋ねた。彼らはこれから田上俊彦の葬儀に参列するために集まった仕事仲間だった。

 

「ローッカー整理してたら、バックの中に詰め込んであったぜ」
ジローがそう言って持っていたバックを叩いた。フェイスマスクの他に、小道具のミノや出刃包丁もそのバッグの中に納められていた。
 

「俊彦さん、ないないって随分探し回っていたんだけどなあ」
俊彦は作品の出来に偉く満足していて、仕事仲間である彼らにみせては喜んでいた。それが、何日か旅行に出かけた後で、急に無くなったと随分と騒いでいたのを皆知っていた。
 

「しかし、いい出来だよなぁ」
ジローの手からフェイスマスクを受け取ると、ひとりが言った。
「あぁ、さすがにハリウッドで修行してきただけはある」
俊彦を懐かしむように別のひとりが言って、しげしげとまわされたマスクに目をやった。
 

「でも、なんでなまはげなんか作ったんだろ?」
「さあ?」
皆、首を横にふった。何か、大事なことに使うのだとは言っていたが、それが何なのかを誰も知らなかった。

 

「俊彦さんえらく気に入っていたから、棺おけに入れてあげようかと思ってさ」
先ほど中を確認したら、出刃包丁には血糊がべったりとつけられていた――悪戯好きの俊彦は見当たらないなどと言っておきながら、それでまた皆を驚かすつもりだったに違いなかった。
きっと、本物にしかみえなかっただろうな――と、ジローはしんみりとそう思った。