「……はあっ」
残念なことに、今日もコーヒーを運んで来たのは双葉梓だった。
 

「こらっ!」
これ見よがしに俊介のついたため息を梓は見逃さない。
「俊介先輩はなーにがご不満なのかな? こーんな可愛いウェイトレスさんがコーヒー持ってきてあげてるってのに」
少々、いやかなりあつかましいことを平然と言う。
 

「はあっ……」
俊介は再びため息をついた。

 

梓は俊介たちの通う大学のテニスサークルの後輩で、物怖じしない性格とリスを思わせるよく動く大きな目がチャームポイントで、サークルでもそれなりに人気のある娘だ。

この前の合宿で、即席ペアを組んだことがあって、それ以来妙になつかれている。
 

「んーっ、重症ですねー」
梓が断りもなしに向かいの席に腰掛けた。
 

 ※

 

 

「こらっ、仕事はどうした。それに……なんだ、それは?」
俊介の前に置かれたコーヒーカップの数倍はありそうな馬鹿でかいカップに並々と注がれたチョコケーキとクリームと色とりどりの果実の集合体が梓の前に何気に置かれている。
 

「やだ、仕事サボって、先輩の傷ついた心を癒してあげようって可愛い後輩にハートフルパフェ奢るってのは礼儀じゃないですかー」
ハートフルパフェっていうのか。

そんなにあっちゃ、ハートフルどころか胃腸が一杯になるだろうが。
 

「サボっていいのか?」
ハートフルパフェっていったい幾らなんだろうかという疑惑を抱きつつ、俊介はゆったりとした店内を見回した。

確かに、そんなに忙しそうには見えない。常連さんがゆっくりとコーヒーを飲んでいる程度だから、梓一人が抜けても大丈夫なのだろう。
それに、ここの店長は趣味でウェイトレスの制服姿を楽しむ為に店開いてるんだと揶揄されるぐらい、過剰にウェイトレスを雇っている。

しかも、彼女たちに滅法甘かった。
 

「大丈夫でふよう」
はやくもハートフルパフェに果敢なる挑戦を始めたらしい。まったく、モノを食べながら喋るんじゃない。

どうやら報酬は先払いということらしい。

それから、物言わずパフェと格闘する梓を俊介は待った。それにしても、見ているほうが胸焼けするぞ、こら。
 

「ふうっ」
梓が幸せ一杯って顔で俊介の手のつけてないおひやを飲んだ。

チェイサーみたいなものか。いやっ、おみごと。ハートフルパフェは跡形もなく消滅していた。
 

「えーと、美咲なんですけど」
渡海美咲は梓と同じくここのウェイトレスの一人だ。

俊介や梓と同じ大学で、学年は梓と同じ俊介のひとつ後輩になる。俊介とは学部が違うため、梓をひやかしにここを訪れるまでまったく知らなかった。
 

そして、一目で恋に落ちた。

自分にそんな激しい感情があったのかというぐらい、今や俊介は美咲に見事に恋焦がれている。

 

「……聞いてますかあ」
梓がひらひらと目の前で手を振る。
 

「理由わかったのか?」
美咲は5日前から、店に姿を見せていない。

それまではほぼ毎日バイトに入っていたのに、連絡もよこさず店を休んでいる。梓の話では、大学のほうにも顔を出していないらしい。

 

「えーと」
珍しく物憂げな表情を梓が作る。
「友達の友達の情報なんで、ほんとかどうかはわからないんですけど」
友達の友達ってことは、いわゆる<噂>って奴か。了解した、と俊介は首を縦に振って、無言で先を促す。
 

「なんか警察沙汰を起こしちゃったらしいんですよね」
(はっ?)予想外の言葉に俊介の思考がとまる。

(ケイサツザタって、やっぱり警察沙汰のことなんだよな)
おおよそ、いつもの美咲とは無縁な言葉だった。脳裏に、気弱そうな微笑が浮かぶ。
 

「大丈夫ですかあ」
気づくと梓の手がまたもや振られていた。
 

「何をやったのか知ってるのか?」
梓は起こしちゃったといった。当然加害者ということになる。いったい、何をしたというのだろう?
 

「んーっ」
梓が言いよどんだ。言うべきかどうか迷っているらしい。
「えーと、先輩今から時間あります」
この場では言わないことに決めたのか、梓は答えずそう言った。彼女なりに、噂の確度に疑問でもあるのだろう。
 

「んっ? 大丈夫だが……」
やや、はぐらかされた思いで俊介が答える。今日は、バイトも飲み会も入っていない。
「じゃあ、美咲んちにいってみません?」

 

俊介に異論のあるはずはなかった。

この3日というもの、美咲のことが片時も頭から離れない状態が続いている。実際、自分で彼女の家を探し出そうかと何度も思ったぐらいだ。

今のところ喫茶店の客に過ぎない自分が、いきなり家に押しかけるのはさすがにどうかと自重したが、梓が一緒にいってくれるなら話は別だ。持つべきものは可愛い後輩である。

 

「3,400円になります」
(はあ?)
私服に着替えた梓がレジの向こうで平然と言う。ちなみに、ここのレギュラーは1杯400円である。
 

「……ぼったくりかよ」
俊介が力なくだした万札を、梓がにこやかに奪い取った。
前言撤回。

 

美咲の家はキャンパスから歩いて10分ぐらいのところにあるということだった。

梓によれば、どこかのお嬢様らしく、セキュリーティー完備の立派なマンションらしい。
いつもの俊介であれば、そう聞かされただけで敬遠してしまうところだが、今は美咲に対する情熱がそれを上回っている。

 

 ※


マンションに辿りつく前に、小さな公園で美咲を見つけた。
 

俊介が何気なく向けた視線の先で、美咲はひとりではなかった。
美咲の肩までの黒髪が大きく揺れている。原因は、彼女の細い両肩をつかんでいる男。
 

「先輩……」
突然歩みを止めた俊介に、梓がなにか言おうとしたようだったが、俊介の視線は遠目にも泣いている美咲を捉え、次の瞬間、頭の中すべてがスパークしていた。

 

「おい」
駈け寄って、男の後ろから声をかけた。
 

「なんだ、お前は」
「和泉さん?」
男が振り向き、美咲が顔をあげる。

美咲の顔は別人かのようにやつれ、そして涙でぐしょぐしょになっている。
 

(ようし、充分だ)
とりあえず美咲が無事にいるということへの安心感と美咲をこんな状態にしたであろう目の前の男への怒りが自分の中でせめぎあって、怒りが勝っていることを俊介は確認した。

美咲のためでなく、自分のためにこの男をブン投げなきゃ気が済まない。
 

「和泉という」
美咲の肩にかけられた男の左手を俊介の右手が掴む。
 

「何しや……痛っ!」
握りつぶすつもりで掴んだからそりゃ痛いだろう。

これでも高校時代は全国までいった柔道少年だ。左手を開放しようと、男の右手が伸びてきたところで、その左手を離してやり、懐に潜り込んですばやく胸倉を掴み挙げた。
 

「せいっ!」
裂帛の気合とともに跳ね上げる。

会心の払い腰だった。まあ、砂場に落としたから受身が取れなくてもただの打撲で済むだろう。
 

「秋人っ!」
美咲は小さく声をあげ、何とも形容しかねる哀しげな表情で俊介を見て、目を伏せた。
そして、見えない呪縛に引きづられるかのように、砂場でのびている男に手を差伸べようと歩き始める。
 

俊介は止めようとして手を出しかけて、その呪縛を断ち切る術を自分が持っていないことに気づいた。

 

 ※

 

「だめよ」
美咲の前に梓が立塞がった。

今日は梓の表情も大忙しだ。こんな険しい顔が出来るのかというぐらい怖い顔をしている。
 

「あんな馬鹿なことやって、もう充分でしょ」
警察沙汰のことだろうか?

それにもこの男が絡んでいるのか? なら、優しく砂場になんか落としてやるんじゃなかった。
 

「でも……」
美咲が声をあげかける。

 

(ムネガイタイ)
俊介はその場に立ちつくしたまま動けなかった。心は絶望に彩られた認めたくない認識に辿りつく。
ああ、好きなんだなこいつのこと。

事情は全く分からないが警察沙汰を起こしてしまう程、こんなに泣きはらしても尚、好きなのだ。

 

「だめ、こんなのといても何にもならない」
呪縛を打ち破るかのように凛とした声が美咲を叩いた。
 

それは、思わず梓に惚れてしまいそうになるほど毅然とした、威力を秘めた言葉で、全世界の嘘が集まってきても打ち破ってしまいそうなほど真実に満ち満ちていた。
秋人と呼んだ男に伸ばしかけた手をとめ力なく立ち止まった美咲を、頭ひとつ分低い梓がゆっくりと抱き寄せる。

 

 ※

 

しばらくの間、美咲の泣声は止まらなかった。
 

その間に、美咲が秋人と呼んだ男はようやくよろよろと立ち上がったが、俊介の視線を受けるともの言わず歩み去った。

美咲は、気づいたのだろうが、梓にすがりつかせた両の掌をぎゅっと――白くなるまで握り締めて断ち切りがたい呪縛に耐えたようだった。

 

「それにね」
長い長い時間の後でようやく顔を上げた友人の、泣きはらした頬のあたりをそっとぬぐってやってから、梓はいたずらっぽいいつもの表情に戻って、美咲を俊介のほうへ向けた。
「こんな素敵なナイトなんてそうそういないんだから」


 ※

 

「美咲とのデート代よりも、しつこく続いた梓の恩着せぼったくりの方がずっと高くついた」

というのは、後年梓の旦那となった親友に俊介が漏らした愚痴である。

 

 

 

 ☆★ 「美人さん」事件 ↓