「……!」
先ほどまでその中にいたのに、何も思い出せない。
だが、とてつもなく不快な夢を見ていたことだけは間違いない。そんな目覚めをして、まだ完全には覚醒していないまどろみの中に石原翔太はいた。
 

「あら、目が覚めた」
目を閉じたまま荒い息を吐いているとそんな声がかかった。

視線を向けると、目の前に若い女が座っていて、ひどく冷淡な眼差しをこちらに向けている。
だが、自分がどこにいるのか上手く思い出せなかった。

 

「……えっ?」
ガタン、と音がして身体が僅かに揺れて、どうやら電車に乗っているのだと分かった。

ただ窓の外は暗い闇が流れるばかりで、自分がどこへ向かっているのかまるでわからない。
 

「あら、もう忘れたの?」
背もたれが向かいあっている4人掛けの座席の対面に女は座っている。

翔太を見据える目が少しきついのを除けば、擦り寄っていきたくなるような上玉だった。どこかの会社の偉いさんの秘書かそれとも流行の起業家といったところだろうか? ぱりっとした黒のビジネススーツに膝上までのスカート、スカートから伸びたきちんと揃えられた長い脚が魅力的だった。

ただ、目の前の女が誰であるのかが、そして何故自分はこんなところにいるのかが翔太には思い出せない。

 

「おま……あなたは?」
ようやく、息がおさまってきてそう聞いてみた。

まだ、頭が上手くまわっていないのかお前よばわりしてしまいそうになる。気をつけなければ。
 

「覚えていないの?」
寂しそうな声を女はあげた。

ただ、翔太を見るその目の冷たさは変わらない。
 

「何で……」
俺はこんなところに? と聞きかけて、ようやく記憶の欠片が浮かび上がってきた。
「あら、私の家まで付き合ってくれるのでしょう」

 

 ※

 

なんだか上手くいかない夜だった。
いつもならすでにカモのひとりやふたり捉まえているはずなのに、肝心なところで逃げられてしまう。
カウンターに戻って、酒を頼んだ。
ふと、横に視線をやると、綺麗な脚を揃えてスツールに座っているいい女を見つけた。
 

「彼女ひとり?」
酒を持ってきてくれた馴染みのバーテンに聞くと、かれこれ30分も一人で座っているという。

「こんな綺麗な人を待たせるなんて、とんでもないなあ」
隣のスツールに移って、なれなれしく声をかけた。
 

「一杯奢らせてくださいよ」
バーテンに指先で合図を送る。

女の綺麗なカーブを描いた眉がしかめられるがもちろんそんなことは気にしない。
「待ち人が来たら退散しますよ、それまで付き合って下さい」
女がこちらを向いた。

バーテンがタイミングよくスィートマティーニを女の前に差し出す。
 

「美人にしかめ面は似合いませんよ、さあ」
そう言って翔太が自分のグラスを持ち上げると、女は渋々といった感じながらも差し出されたグラスを手にとった。

 

女はかなりの上玉だった。
見つめられると吸い寄せられそうな冷たい光をたたえた瞳もやや薄い妖しい魅力をたたえた口元も面長のおとがいも申し分なかった。

こんないい女が30分も待たせられることに我慢できるはずがない。

何の用事が出来たか知らないが、相手の男も馬鹿な奴だと翔太は内心で笑った。こんなところにこんないい女を置いておくなんて、盗ってくれといっているようなものではないか。

 

翔太が席を移してから更に15分ほどが経ったが、女の待ち人は姿を見せなかった。
「仕事は何をしているの?」
あたりさわりのない褒め言葉をきりあげて、そう聞いてみた。

女が、自分に関する情報をべらべら喋ってくれるようなら後は楽である。
 

「しがない雇われ人よ」
OLということだろうか?

身につけたスーツはシックだがブランド物で、それをさりげなく着こなしている。何か特別な日だから着飾っているという感じはそこにはなかった。
 

「うーん、ちょっと待って、当てるから」
そう言って、真っ直ぐに女の目を見る。

当たっても、当たらなくても別に構わなかった。本人が言われて喜びそうな適当な職種を言っておけばいい。
 

「あら、面白いわね」
女はそう言うと、翔太の視線に絡みつくような視線を送ってきた。その瞳に煌きに似た何かが映るのを翔太は見た。
「やっと、みつけた」
女の瞳から抜け出した煌き――青い炎だった。炎はゆらゆらと翔太の目の前で拡散し、渦巻いた。

 

「チェックを、彼の奢りでね」
そんなことを女が言い、こちらを見たバーテンに翔太は知らずのうちに頷いていた。
「あら、お酒弱いのね」
ふらふらと女の後に続こうとして、よろめく。女がすっと腕をとり支えるのを他人事のように感じながら、翔太は店を出たのだった。

 

 ※

 

「誰だ、お前!」
浮かび上がってきた記憶は夢そのものであるかのようにあやふやで、何故自分がこんなところにいるのかを全く説明してくれるものではない。

だが、明らかにおかしい。あれしきの酒で自分が酔うなどありえなかった。
 

「あら、まだ思い出せないの?」
立ち上がろうとして、奇妙なことに気づいた。
この至近だというのに、女の顔が奇妙にぼやけて見える。

見る間に、渦巻くような不思議青い靄の中に目が鼻が口が消えて、そして、ゆっくりとまた造作を取り戻した。
 

「お前は……」
翔太はその女の名を知らなかった。顔は印象に残っている。
 

「あら、覚えてくれていたの?」
いつの間にか、声までもがあの時の女のそれに変わっていることに翔太は気づいた。

そして、そこだけ綺麗な顔を除いていつの間にか女の全身が血まみれであることにも。
 

「お願いがあるのよ……」
どうすればそんなになるのか、肉とも骨ともつかぬぐしゃぐしゃの腕が翔太に伸ばされた。
 

「うおーっ」
耐え切れず、一体何が起きているのか分からぬまま、翔太はその腕を払って立ち上がった。

 

その時、キーッ、と音を立ててブレーキがかかって、翔太は出口へ向かいかけて思わずよろけてシートに掴まった。どうやら駅に着いたらしく、電車の外をホームが流れてゆく。
車両には他に誰も乗っていないようだった。振り返ると、幸いにも女は追ってきていない。
(助かった!)
そう思い、バランスを崩してあちこちぶつかりながらも昇降口に急いだ。

 

カタン、と電車が停まり、翔太が着くのを待っていたようにプシューッ、と音を立ててドアが開いた。転がるように外へ走った。
 

(アイツは?)
ぜえぜえと息を切らしながら改札まで走った。無人駅らしく、誰もそこにはおらず、窓口はカーテンが引かれている。振り返ったが、他に降りてくるものはいない。
(ちきしょう、どういうことだ)
まるで訳がわからない、なぜあの女が……

 

そこで、あることに気づいて、翔太は背に冷たいものが這い上がってくるのを抑えることが出来なくなった。

ゆっくりと振り向く。
(まさか、な……)
ホームの向こうに駅名の書いてあるプレートがあった。薄暗がりの中、目を凝らす。
<泊野>と読めた。

 

 

 

 ※

 

トン――と肩が叩かれた。
「覚えていてくれたんだ」
女の声がした。

 

いつの間に降りたのか、翔太のすぐ後ろの声は続けた。
「覚えていてくれたんだ、私が死んだ駅」
 

ピクリとも動けないでいる翔太に女は続ける。
「そういえば、わたしあなたが誰かも知らないのよね」

 

 ※

 

あの時、いつものようにナンパした女を車に乗せた。

失恋でもしたのか酔いつぶれていた女は、いつも翔太が使っている山の中の寂れたホテルまでもう少しというこの駅の近くを走っている時に目を覚ました。
 

「えっ、誰?」
ほいほいついてきた癖に今更それはないだろう。

弱々しい抗議をしてきた女をそう言って横手で殴り飛ばした。泣き出した女を見ながら、偶にはこういう趣向も悪くないなどと思い始めていた。
 

大人しくなったと油断したのがいけなかった。

信号待ちで車が停まったと同時に、女はドアを開けると逃げ出した。ヘッドライトに浮かんだ白い顔は怒りにゆがんでおり、何かを確認するように翔太の視線の下を懸命に見ていた。
女が駅へ向けて走り出してから、彼女が何を見ていたかに思い当たった。ナンバープレートを見ていたのだ。
冗談ではない、闇に消えた彼女を追って、幸いなことに人気のない駅の駐車場へ車を突っ込む。

 

車を降りると、ちょうど女が改札のところでドアを叩いていたが、誰もいないようだった。
ゆっくりと、その背後に近づく。ひとまず、もう一度車に連れ込まなくてはいけない。
 

「何で誰もいないのよぉ」
無言で女の腕を掴んだ。
「いやっ、こないでよ」
女はもう一方の手を振り回して抵抗し、その振り回した手の爪が目の辺りを掠めて、翔太は思わず掴んでいた手を緩めた。

女はあらん限りの力で翔太の手を振り解くと、ホームのほうへ逃げようとして、躓いた。
二人とも、この駅には停まらない急行電車が今しも通過しようとしていることなど知るはずもなかった。

 

女は転びかけて、たたらを踏むようにホームを進み、停まれずに線路へと消えた。
あっけに取られていた翔太が動き出すより前に、闇をまばゆい光と長い警笛が裂いて、次の瞬間には、急制動の音も空しく、呆然と見つめる翔太の前で急行電車は女を轢いた。
 

翔太は逃げ出した。

以降、一切を忘れてしまったはずだった。今まで、あの事故を彼に結びつけるものなどいなかった。
 

そう、2年前の夏、その時にも翔太は女の消えた線路の向かいのホームに<泊野>というこの駅の名前を確かに見た。

 

 ※

 

「腕が少しだけ見つからないのよ」
女が言って、まるでひき肉のようなその腕が後ろから伸びてきて翔太の腕を掴んだ。
 

逃げようとしたがまるで身体に力が入らない。

喉が言葉を吐き出せない。
 

「耳も片方なくなっちゃったわ」
湿った腐臭の混じった息が耳元に吹きかけられる。
 

「足の指も何本もないの」
こんどはまたの間を割って腕と同じ様な有様の脚が翔太の脚に絡みつくようにのばされた。
「あなた、足りないものをくれるわよね。だって、そのために、償うために来たんでしょ」
 

そして――

 

 ※

 

翌朝、仁科陽子はなぜ自分がそんなところにいるのか分からないまま、見知らぬ駅で目を覚まして、始発が動き出すとそれに飛び乗った。

何とか間に合いそうね、と揺れる洗面台の前で器用に化粧をしながらも、なんであんな電車に乗っていたのかしらとしきりに頭を捻ってみたが、一向に思い出せなかった。

少し、お酒を控えなきゃと冷静な結論に辿りつく。

 

陽子を乗せた急行電車が速度を落とすことなく通り過ぎていく頃、泊野駅は大勢の警官によって占拠されていた。
 

泊野駅の駅長がその男を発見した時、男の身体はいたるところに引きちぎられたような深い傷をいくつも負っており、既に息がなかった。


警察は辺りを徹底的に捜索したが、引きちぎられた男の肉片は遂に見つからなかったという。