彼女がそのことについて口にしたのは、僕のプロポーズを彼女が受け容れてくれて、ひどく感動的なキスをしたすぐ後のことだった。
 

「お願いがあるの」
うるうると輝く瞳が僕を射抜くと、先ほどまで僕のそれに重なっていた唇がゆっくりと動いて甘い声をたてた。
 

「ああ」
夢み心地のままで、僕はしっかりと彼女を抱きしめる。
その願い、叶えずにおくものか――冗談抜きで、彼女の為なら何でも出来る気がした。

 

「お願い、お婿さんになって」
彼女の声は先ほどと変らず甘く僕の耳元を漂ったが、その言葉が頭に入り込んできて意味を為すと、たちまち警報が最大音量で鳴り響いて、僕を、どっぷりと浸かっていた居心地の良い陶酔からたちどころに引き剥がした。

 

 ※

 

「何を言っているんだ」
両手を突っぱねるように彼女の肩を押し、距離をとる。

先ほどのキスの余韻を残して上気した白い肌、夜よりも艶やかな長く黒い髪、あまり強くはないのにしっかりと彼女を感じさせる香水のいい香り、抱き心地の良いコンパクトなボディ――それは、いまや僕にとっては敵の仕掛ける強大な罠だった。
 

「さっき、「ああ」って言った」
どうやら、彼女も先ほどの陶酔からは完全に覚めたようだった。

綺麗な眉がきゅっと釣りあがり、先ほどまでの蠱惑の眼差しはどこへやら、好戦的な眼差しが僕を睨みつけてくる。

 

「うっ、それは、言葉の綾ってもんだ」
「何よ、プロポーズが終わったらもう嘘をつく気?」
いけない、形勢不利だ。
 

「そっちこそ、さっきあんなに喜んでくれたのは演技かよ。あんなに嬉しそうにしていた癖に、俺が幸せな気分でいる内に、そんなこと言い出すなんて卑怯だろ」
プロポーズにあんなに感激してみせたのは演技だったのだろうか? だとしたら、がっかりだ。
 

「それは……」
彼女が僅かながら怯んだ。プロポーズ自体は純粋に嬉しかったのだと、少しほっとした。ほっとはしたが、そのすぐ後にこんな話を持ち出すなんて、まったくどうにかしてる。

 

「だけど、いつかは決めなきゃいけない話でしょ」
彼女が少し語気を落したものの、口を尖らせたまま言った。
 

「今じゃなくていいじゃないか」
彼女の持ち出してきた問題は確かに結婚までに解決しなければならない問題ではあったが、先ほどまでの幸せな気分に戻りたかった。
 

「なによ、そうやって先延ばしにして、ずるずるとなしくずしに結婚してしまうつもりでしょ」
彼女が待ってましたとばかりに非難の声をあげた。
 

「それは……」
痛いところをつかれた。確かに、世間一般の通例に従って、彼女が我慢するべきことだという考えが僕にはあった。

 

「だけどな、考えてみてくれよ。仕事にも差し支えるって、名刺交換ひとつするのに、いちいち悪ふざけが過ぎてるって思われるの間違いなしなんだぜ」
彼女に言われるまでもなく、僕もこのことについては結構考えていた。だが、どう考えても彼女の主張するようにはしてやれない。
 

「いいじゃない、オリジナリティーがあって」
他人事なら何とでも言える。
「じゃ、君の方こそいいじゃないか。オリジナリティーがある上に可愛いぜ」
それなら、こっちも言わせて貰おう。
「なっ……」
「考えてみろよ、パンダの名前みたいで絶対可愛いって」
「なんですって!」
彼女の目がいっそう釣りあがった。

 

 ※

 

「あのな、俺の名前は、苗字ときっても切れないの。お袋が難産で、母子どちらかは諦めてくださいって先生に言われてたのに、必死でご先祖様に無事をお願いしたら、母子とも無事に俺のところに帰ってきてくれたって、親父が必死で考えた名前なんだからな。いつまでも幸せであるようお護りくださいって願がかけられた名前、捨てたりはできないでしょ」
餓鬼の頃、親から散々聞かされた話だった。信じているわけではなかったが、無視してよいものでもなかった。
 

「そんなこといったって……」
散々罵りあいに近いような口論を交わした最後に、切り札を出されて、彼女は言葉を詰まらせた。俺だけの話じゃなく、俺の両親の想いをなかったものにしろなどとはさすがに言えなかったのだろう。
 

勝ったな、と僕は思った。だが――
 

「おいっ?」
彼女の鼻が鳴って、どうすればよいのか分からなくなった彼女は突っ立ったまま細い肩をふるわせ始めた。

 

 ※

 

「始めまして、アリス電子の加藤と申します」
飛び込みの営業で訪れた営業マンは、だいたいが総務の担当、つまりは僕のところへ廻されてくる。

応接室に入ってきた僕に気づいて、まだ経験の浅そうな青年が、そう言って名刺を差し出してきた。
 

「総務の幽(おぼろ)と申します」
仕方なく僕も名刺を差し出す。
「おぼろさんとおっしゃるんですか」
と、加藤と名乗った青年は立ったまましげしげと名刺を見た。

変った苗字を聞いて内心ほくそ笑んでいるに違いない。変った苗字というのは、全く面識のない相手との話題の糸口にはもってこいなのだ。
 

「えっ?」
加藤の動きが止まる。

名刺から顔を上げて僕のほうを見て、名刺にまた視線を落した。もう、随分慣れてしまったが、僕にとってはうんざりする時間だ。
「随分と珍しいお名前ですね……」
笑ってよいものかどうか判断をつけかねたのだろう、加藤がおそるおそるといった感じで切り出してきた。

これが変に押しの強い相手だと大爆笑から入ってくるから、随分とマシな相手だった。
 

「変でしょう、<幽 霊>なんて」
にこやかに僕は返事する。誰にどう思われようが、会話の潤滑油にするしかなかった。

 

 ※

 

<幸 霊(ミユキ レイ)>と<幽 幸(オボロ ミユキ)>、出会わなければただの珍しい名前で終わっていたはずの僕達は、愛し合い結婚した。
 

だが、<幸 幸>という、実にキュートな名前になることを彼女はどうしても嫌がった。
僕も親からもらった自分の名前に愛着を持っていたし、<幽 霊>なんていうふざけた名前になるのは絶対に嫌ではあったが、受け容れざるを得なかった。
 

情けないことではあるが、惚れた女の涙に逆らえるほど傲慢な男にはなれなかったのだから、どうにも致し方のないことなのである。

 

 

 

 ※ ずいぶん前に書いたものなので夫婦別姓に関しては埒外の世界です