こんばんは。児島です。
先週、数日降った雪はやみ、久しぶりの日差しのある日だった。しかし寒い。
乾季のあの暑さが嘘のようである。
さて、
前々回に引き続き、アフガニスタンの飢饉について考えてみたい。
視点としては、アフガニスタン全体をみるようなスケールの、少し雑い話になる。
たとえば、日本のメディアを通して”アフガニスタンは今旱魃だ”と伝えられた場合、
その報道は、アフガニスタン全土における乾燥状態をイメージさせる。
しかし、アフガニスタンは、日本の国土面積の約1.7倍あるわけで、
アフガニスタンと一口に言っても、
農業生産量に関係する気象条件、水文条件(降水や河川流量など水に関する条件)は
場所によって異なってくる。
それは日本の気象条件が、北海道と九州では異なることと同じである。
たとえば、この9月における降水量の分布を見てみよう。下の図1は、衛星画像によるアフガニスタン全域の降水量の推定値を示したものである(図1はUSGSの作成による)。
図1. 2008年9月のアフガニスタンにおける降水量分布図(USGSによる)
北部の乾燥した地域にずっと駐在している私にはにわかに実感がわかないが、
図1により明らかなように、同じアフガニスタンでも、
北東部、東部・南東部(パキスタン国境に近く、タリバンの活発な活動域というのあこのあたりである)には
9月の時点ですでに降水があるわけである(その絶対量は日本とは比べものにならないくらい少ないが)。
これは今年が特に異常気象であったということではなく、
パキスタン国境に近いあたりは、インドモンスーンの影響を受けているためである。
一方、北部(アフガニスタンでは、行政上の区分で、図のFaryab, Jawzjan, Balkh, Samanganといったところを、”北部”と呼んでいる)では、降水量はゼロである。
これも例年通りのことで、このあたりは明瞭な乾季がだいたい5月~11月まで訪れるからである。
私も、この図が示す今年の9月には北部に居たが、
北部は、例年通り、カラカラに乾いた熱砂の中にあった。
気温は連日40℃を超え、相対湿度は10%台である。
乾季の真っ只中で、事業遂行のために現場に出るときには、
広漠とした荒地のなかを走ってゆく。
そんなおり、眺める視界の中で、同時に数個の砂嵐が、直立した蛇のように一斉にうねりながら移動している風景を見ることがある。
遠くで音もなくのたうつ砂竜巻は、奇景である。
日差しがきつくて、喉がカラカラに渇いて、身体全体が砂っぽくなっていて、紫外線のせいで目が痛い状態のときにこれを目撃すると、
美しくもあるが、すこし疲労感を覚える。
写真1.非常に見えにくいが、砂竜巻が5本、うねりながら、天水域を動いていた。
アフガニスタン北部の首邑は、
この広漠たる土漠の中を流れる、か細い糸の様な河川沿いに存在する。
また、天水域の村々は、そういう河川からさらに離れた砂の中にある。
大きな町と町の間、村落と村落の間には、乾いた土地が広がっている。
環海、ならぬ、環漠の砂塵に耐えることが生活の中心のような世界に思える。
私は、そのような北部での生活に埋没しながら、事業を行っているわけであるので、
実感として、アフガニスタンの他地域での気象状況を想像することは難しい。
しかし、上に示した図のような客観的データを見れば、
旱魃の現況は、アフガニスタン内で一様なのではなく、
偏りをもったものであることがわかる。
それはすなわち、農業生産量もおのずと地域によって異なってくることである。
本年に関して言えば、
Agromet Network という、
アフガニスタンの農業気象に関するデータを収集している機関が行った
衛星画像の解析によると、
旱魃に起因する収穫高の激減は、
南部の一部、西部の一部、そして北部一帯に分布している。
(北東部では、黒穂病などの病虫害に原因する収穫減が見られる。)
勿論、今年の収穫量に関する統計はまだないので、今年の旱魃被害を定量的にみることはできない。
そこで、
実際に旱魃よって引き起こされる飢饉とはどの程度のものなのか、
ということについて過去の資料から想像してみる(FAO発表のデータによる)。
比較的豊作年であった1997,98,99年における、
アフガニスタンの主食であるコムギの生産高は、
271万トン、283万トン、250万トンであった。
それに対し、ひどい旱魃が襲った2000年、2001年(これは丁度タリバンが政権をとった時期)では、
150万トン、160万トンであった。
約50~60%にまで落ち込んだわけである。
この数字と、
上に述べた旱魃被害の地域的偏在を重ねて想像すれば、
また、人々が暮らす村々それぞれの水事情の優劣を思えば、
さらにまた、地域の中での人々の所得格差などを考え合わせれば、
旱魃の影響とは、決して、均されて発生するものではないことが想像できる。
あらためて、旱魃がもたらす飢饉の凄まじさが伺える。