十年一区切り | よねちゃんのつれづれ便り

十年一区切り

西尾由佳理アナが以前から噂になっていた通り、8月末で日テレを退社するそうだ。

10年目での退社だそうだ。そういえば高島彩アナウンサーも10年で退社だったような。

「一区切りの10年」ということになるのだろうか。

かくゆう私も、前の職場での10年と今の活動を始めてまもなく10年目に入ろうとしている。

正直に言えば、今の活動を始めてからの10年のほうが濃密だったと思う。

前の仕事は与えられた仕事をこなしていく感じだった。もちろん給料を頂くのだから、まじめには取り組んではいたものの、たとえ自分がいなくても誰かがカバーをしてくれていたため、自分がいなくても会社はちゃんと回っていた。今思えば、必死さが足りず、後半になるにつれ、仕事に対する熱意さえ失っていたとすら思う。

今の活動も、最初はここまで続くとは思っていなかった。ラジオ出演もいつも「今度が最後かもしれない」という思いがあった。出発点がラジオドラマだったため、仲間の協力も必要だったし、自分が小さい頃から放送というものに興味があったし、アナウンサーになりたかったので、「好きなものこそ上手なれ」ではないが、せっかく与えられたチャンスなのだから、多くの人に聴いてもらいたいという思いが常にあり、あまり妥協をしなかった。それだけ必死だった。

ラジオでレギュラーコーナーを任されるようになってから、自分の代わりはいくらでもいる。だから、チャンスは与えれるばかりでなく、自分で広げるものだと思い、テレビや新聞にも問題提起するようになった。

 
また、この10年の間に、自分にとっての大きな転機として、途中から手動車いすから電動車いすへと変わった。電動車いすになる前も、乗り始めた直後も周囲や世間の目がものすごく怖かった。

「よねちゃんはとうとう電動車いすに乗り始めたとばい」「あぁ、あの人は障害が重いから、電動車いすに乗っているんだ」と思われるのがいやだった。

ところが、いざ乗り始めると逆に「良かったね」と言われ、街に出ても、あまりジロジロ見る人も少なかったので、気が楽になったり、多少なりとも行動範囲が広がった事もあり、途中から電動車いすに乗っている事を少しプラスの要素として考えるようになった。

これまでの経験や電動車いすに乗ってから気づいた事、今の自分だから伝えられること、伝えなければならない事があると。

報道機関にきれいごとではない今の現状や気持ちを情熱を持って伝えること。

もちろん、提案したものがすべて通るわけもなく、こちらがタイムリーに提案したとしても双方の考え方のギャップがありすぎたり、時間の経過とともにおざなりにされる事も少なくない。

しかし、粘り強く交渉する。押したり引いたり加減しながら。私の信念として時間がかかっても、かたちにならなければ意味がないし、提案したという責任もある。

だから、大げさに言えば、「自分がやらなきゃ、誰がやる」というくらいの気持ちがなければ、何も変わらない。

時には、すべて投げ出したくなる時もある。しかし、今の自分があるのは障害を持った諸先輩方のこれまでの努力と、陰となり、日向となって下さったたくさんの方々の応援があったからだと思う。

今やっている活動も、私の病気や体力の問題もあり、ひとりでは手に負えなくなってきて、場合によっては、友人や知人の知恵や協力を仰ぐ事も増えてきた。

40歳は「不惑」といわれ、『論語』によれば、“惑うことがない”とされているが、実際は、体力、自分の将来を考えれば不安が大きく、惑う事が増えてくるような気さえしてくる。

1年1年、半歩でもいいから、前へと進み、これまでの10年と同じように、実りある10年になればと思う。