“魂”がこめられた“作品”づくり―伝える側、見ている側のはざまで― | よねちゃんのつれづれ便り

“魂”がこめられた“作品”づくり―伝える側、見ている側のはざまで―

『真相報道バンキシャ』の誤報の問題で、日テレの社長が辞任した。

今日、企画を提案している局の担当者と話をする。

年度末に、新年度に向けた企画の話し合い、それに加えて、今自分が抱えている仕事…からだひとつでは足りない様子だ。

こちら側もデータはそろった、タイミング的にも、今がチャンスなのでは?と伝えてみる。

すると、相手も、段取ってやってみようとか、担当者を変わろうとか、いろいろ考えている様子。こちら側の意図も十分伝わっているだけに、時間をかけて作りたいとも言われる。結果、もうしばらく待ってもらえませんかという事になり、改めて局からの連絡を待つという結論に達する。

ニュースに優先順位をつけるというのも変な言い方になるが、現実問題としてそうなる。

今、伝えておかなければならないこと―たとえば、拡張型心筋症の移植問題など、ふだんなかなか伝えられない事を伝える事が、多くの人達に現状や問題点を知ってもらうきっかけになる。今日起きた事を伝える一方で、そういった事を伝える事が報道の役割だと考える。

もちろん、私が、今、伝えようとしている車いす用の駐車場の問題ももちろん大事な事だ。

しかし、日夜、何が起きてもおかしくない報道の現場。私が提案している題材など、どうしても後回しにされがち。何かおおごとが起きないと伝えたがらない。

そこには、伝える側の当たり前という意識と、“数字”(視聴率)というものがちらつく。

私自身、今日のように、現場の声を聞く事もあるだけに、間(はざま)で揺れ動く事も多い。

もちろん、提案する私も多くの人に見てもらいたいという意味で、実際には分からないにせよ、多少数字を意識する。

企画から実際の放送まで何ヵ月もかかる事もある。私の場合、ただ取材を受けるだけでなく、内容まで提案するから、話し合いを何度も重ね、取材に入る。だから、より思い入れも強くなる。

ローカルだろうと、キー局だろうと、時間の重さは変わらない。より多角的に、分かりやすく伝えるか、そしてより良いものを作ろう、作り手側がそう思わないと、見ている側も何かを感じ取る事はない。

ただ、数字だけを追い求めめてもダメだ。「伝えよう」「伝えたい」―そういう魂みたいなものが感じられなければ、体質は変わらないし、視聴者は離れていく。


そう感じている作り手がひとりでも増えてほしいと思う。