知り合いが、『間違えてコンディショナーの容器にシャンプー入れてしまった!』とSNSでつぶやいていて、私は子どものころ意図的にそれやってたなと思い出しました。
正確には、詰め替えたのではなくて、容器の蓋を開けてリンスとシャンプーを混ぜて振りました(笑)
私としては『そうすれば一回で済むから絶対楽なはず』という確信があって、よかれと思ってやってるわけですね。
母に『べんり?べんり?』と聞いた記憶がある。
この当時からズボラだったわけですね。よく言えば戦略性がありますね←
母は、私が悪意でやってるわけじゃないので怒るに怒れず、困りながら私に説明してたように記憶しています。
あれは何歳だったんだろう。
強く言わなくても、子どもは大人の雰囲気や態度で理解することができる。
あまり子どもの頃のことを思い出すことができなくて、どんな子どもだったのか?と自問自答する日々です。
次回公演に向けて、年代別で役を使い分ける練習をしていることなども手伝ってはいますが、昔小学校にインプロ教えに行ってたときに『自分はこんなかんじだったかな?』と小学生を見ながら考えることも多かったです。
でも、結局客観視することは難しくて。
手のかかる部類ではあったと思います。
宿題の提出期限は絶対に守れないし、気分の乗らないことからは逃げてかたくなにやりたがらなかった(それでも説得されて渋々やりました)。
やらなかったことの代表としてはふたつ。
一つは小4の時の読書感想文。
読書感想文の価値が私はわからなくて。
元々『ネタバレ』が大嫌いな私。
小説などのうしろに書いてある『あらすじ』さえ読まずに本を読むのがすきでした(それは、今もちょっとそう。物語の展開が書いてありそうだったら読まない)。
他人がどう思ったとかは私にとって無意味なことで、実際に『この本面白いよ』と言われたから手に取る、ということは少なかったです。
重要なのはインスピレーションで、それはタイトルであるとか、表紙であるとか。ひねくれ者なので、積極的に薦められたら読まなかったものの、姉が黙々と読んでるシリーズとかは『面白いのか…?』と思って読んだりしてました。
姉がすごく好きだったから影響が大きかったのかもしれません。
先生に『誰かの感想なんて読んでもつまらないし、話の内容をバラしたくない』と抗議して、いかに書きたくないかを説明したのですが、結局書くに至った理由はこの発言。
【でもね、みんな書いてるから】
納得できなかったなあ。
でもそれを言われたら、やらないことが罪悪なような気がして書きました。適当だったけど。
二つ目はなんと卒業文集。
これまた、書く意味がわからなかった。
6年間を振り返ったって特に書くべきことがない、が最大の理由でした。
あとはそれ読んで誰が面白いのかわからなかった。実際私は同級生の6年間の振り返りに興味がなかったし。
提出期限を破って、また設けられて、また破って、また設けられて、の繰り返しでした。
最終的には私待ちで印刷する、みたいな締め切り破った小説家みたいになって、このときも
【あなただけやらないわけにいかない】
みたいなこと言われて渋々やったんだ。
読み返したら本当に頭の悪そうな文でしたよ(笑)
あたまわるいんだけどね。私劣等生なので。
集団行動のできねぇ子どもだったなあ。小学生のころから筋金入りの遅刻魔だったから、集団登校もできなかったし。
帰りに寄り道したり学校に遅くまでいて母が自転車に乗って探しにくることもありました。
放浪癖。
私が携帯電話を買ってもらえた理由はそこにあります(笑)
今よりももっと全身でものを捉え、感じ、考えて生きていたと思う。
知識もなく、絵を見て詩を読んで、『この構図が…』とかではない部分で感動してた。
伝記がすきで、特に女性のものを好んで読んだ。与謝野晶子とビアトリクス・ポター、見南方熊楠のような行動力のある偉人に憧れたものでした。
タイムスリップできるなら、私は小学生の私に会いにいきたい。
ねぇ、あなたはこんな大人になりましたよ。
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