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1972 共働き夫婦の一人息子-
親との関係は希薄なものだったという-
堀江母親「何でも金で買える」←口癖(卑しく貧しい家庭に育つ)
幼稚園のころから柔道をならった
小学校担任星野美千代「頭いいなあということはわかっていた」
趣味は、お金集め
堀江「お金持ちは飛行機をもつ」
小四 担任教師の勧めで塾に通い教材のパソコンと出会う
父「一番欲しかったのはこづかいとお年玉やったですね」
「全然あげないから」(おこづかいはなし)
「金は汗水たらさんとできんのよ-ということを教えたかった」
「(子どものころ)野菜は食べてたけど肉は食えなかった-大人になってから肉食えるようになった」
父親からおこづかいがもらえなかった堀江少年は-
中学一年~三年の間 新聞配達のアルバイトをしてお金を稼ぐ
そのアルバイト料で買ったのが-
原点といえるパソコン
「親の機嫌がよければ何もないのに-野球で巨人が負けて機嫌が悪い時だとボコボコにされたり庭に縛りつけられたりする-こういう経験をすると、おとなって何て理不尽なものか-結局、気分屋じゃないかって、わかるわけですよ」(月刊「BOSS}05/03号インタビューより)
中学生時代の文集-
15歳が抱いた死生観-
「いくら貯金をしても死ねば何にもならないので-私は貯金は勧めない」
うつうつとした日々-
「この生活を打破するには外に出て行くしかない」
中学生時代の英語塾 日立のパソコンからNECへ買い替え
二万円のプログラミング請負
●「これがすべてのはじまり」
05/04 堀江さんは大学時代どのように過ごしましたか?
「ひきこもりです」
「バイトを週3~4回ぐらいしていたのが、2回になり1回になり-隔週になり-月一回になり-金がどんどん無くなっていったんですよ」
「その過程でどんどんひきこもっていったんです」
元々は内向性のところがあって-コミュニケーションがあまり得意ではなくて、リーダーになってみんなを盛り上げて、みんなが大好きという感じの存在ではなかった-
うまく外界との接点を持てない悶々とした日々-
人生を変える出会いが-
「まじめ人間になろうと思ってバイトを始めたらインターネットに出会った」
「人生には素晴らしい出会いが、3回ぐらいはある」
「その一つのチャンスをものにしないとダメだよね」
●お金に困り再び始めたバイトで、インターネットとの出会い、またたくまに技術を習得-
05/02 「当時はやりたいことが見つからなくて-大学の途中までわからなくて-いまのインターネットに出会って-大きく変わった」
バイトではあきたらなくなった彼は-
経営者としての第一歩を踏み出した
1996/ 4/ (23歳)東大文学部在学中 二年中退
四人の仲間と起業
友人から借りた資本金600万円でホームページ製作会社 有限会社オン・ザ・エッヂ設立
※『社名は前から決めていた』
※(刑務所の)塀の上ギリギリという意味の「エッヂ」をゆく堀江
渋谷の雑居ビル
着実な仕事をする-
大下英治「経済学部-堀江は、東大の哲学科に入っている
経営者になろうと考えたことも無い
彼が卒論に書こうとしていたのは、新興宗教とインターネットの関係-
それで彼はオウム真理教などのホームページなどを見て-
大衆をどうやって引き付けていくのかを学んだ
サイバーエージェント・藤田晋「長髪で今よりだいぶ太っていた堀江さんは、私が想像していたとおりの“オタク”的雰囲気を持っていました」「動きも若干、挙動不審に見えました」
1999 何のためにやってるんですか?
「宇宙旅行の会社をつくりたい」
05/04/ 「起業って簡単なんですよ」「実際に会社を作ってみたら、やっぱり簡単だった」
「でかいことやってやろうというような気持ちをもっている人がまだまだ少ない」
2000/ 2/ 27歳〈ITバブル〉
00/04/06 東証マザーズに株式上場
〈時価総額〉50億円
宮内亮治「中央に弊社代表取締役堀江貴文でございます」
堀江「(小声で)よろしくお願いします」
「いままで創立から約4年間支えていただきました皆様のお陰であると考えています」
「今後ですねえ」「上場することによって今まで以上に社会的な責任が、かかってくるということを肝に銘じて・・・」
宮内のほうが上場をすすめた-
堀江は懐疑的だった
堀江は仕事振りが精力的で押しが強い
この人は脇で支える人が居ればブレイクすると宮内は判断した
税理士として、いろいろなハウツーを教えた
宮内が策を考えて、
堀江が広告塔となる
2002/11/ 無料プロバイダー ライブドア 買収