名著という評判の本だ(笑)。

風土-人間学的考察-
和辻哲郎 著
目次
序言
第一章 風土の基礎理論
一 風土の現象
二 人間存在の風土的規定
第二章 三つの類型
一 モンスーン
二 沙漠
三 牧揚
第三章 モンスーン的風土の特殊形態
一 シナ
二 日本
イ 台風的性格
ロ 日本の珍しさ
第四章 芸術の風土的性格
第五章 風土学の歴史的考察
一 ヘルデルに至るまでの風土学
二 ヘルデルの精神風土学
三 へーゲルの風土哲学
四 へーゲル以後の風土学

風土性の三類型については・・・
○占いの本
あるいは-
●ただの類型学
-として扱うがよいと思う。
ただし、この優れた類型学では厳しい眼によって分類されるだろう。


△牧揚的性格(南欧)地中海(死の海「交通路」)、「乾いた海」夏の乾燥と冬の湿潤
△牧揚的性格(西欧)一層従順な自然・自然の単調、陰欝
△沙漠的性格(エジプト)乾燥と湿潤との奇妙な二重性格
△沙漠的性格(アラブ)熱寒と不毛と乾燥と厳しい(戦う)人格神・戦闘的性格<*1>
△モンスーン的性格(印度)物も錆びる湿気「湿潤」受容的・忍従的なる人間
△モンスーン的性格(南洋)力の横溢の単調さ
△モンスーン的性格(支那)茫洋たる陸、無感動的、無政府性<*2>
△モンスーン的性格(日本)台風的性格(<*3>日本の特殊性)


〈ヨーロッパと日本〉
●ヨーロッパには雑草がない
 一年中雑草と闘う日本とヨーロッパの農業は違う
■内(うち)と外(そと)の違い
 日本は、出門にて外(そと)に出る
  内(うち)の中には、くつを脱いであがる
 ヨーロッパではドアを開けて既に外(そと)である
  ヨーロッパではベッドの上でのみ、くつを脱ぐ
-内側と外側のこれほどの違いを観よ!


【注記】<*1>グローバルになりかねない戦闘的人格神

 我々はこれをイスラエルの族の歴史において見ることができるであろう。沙漠に遊牧せるこの族にとっては水に豊かなカナーンの地は楽園のごとくに見えた。だから永い激しい戦いによってこの土地を獲得し、そこに土着して農業を覚える。沙漠的生活の制限は破られ、人口は盛んに増加し始めた。部族は殖え、連盟は固まり、ついに王国が成立する。それはもはや沙漠的なる部族社会のごとき緊密なる統一を持った社会ではない。しかしながらイスラエルの族がその宗教を確定し、種々の宗教文芸を作り始めたのは、このカナーン土着以後である。そうしてこれらの文化産物に現われているものは、顕著なる沙漠的人間の性格にほかならぬ。人々は本来の部族社会を一つの民族として実現しようとした。部族の全体性を表現する神は民族の全体性を表現する神となった。が、この神への絶対服従と他民族(従って他の神)に対する戦闘とは、依然としてイスラエルの族の特性である。カナーンの風土は社会的・文化的に種々の発展を引き起こしたが、しかし発展したのはあくまでも沙漠的人間であって農業的人間ではなかった。
 人はさらに離散せるユダヤ人がいかにその沙漠的性格を持ち続けたかを忘れてはならない。離散はすでに紀元前数世紀から始まっている。緊密なる教団組織をヨーロッバ人に教えたものは離散せるユダヤ人である。人間の全体性の最も強く現わるる沙漠的なる団体様式は、今や宗教の名において超民族的なる実現を要求する。しかしかかる教団組織を教えたユダヤ人自身はこの教団から閉め出され、あくまでもその民族的特性を維持している。これを維持せしめたものはヨーロッバ人の迫害である。しかしこの迫害を呼び起こしたものはユダヤ人自身である。しからぱ社会的・歴史的現実としての沙漠は、ヨーロッパの美しい牧揚のただ中においても、またその封建的、ブルジョア的というごとき歴史的発展を通じても、なおそれ自身を保持する必然性を持っていたと言わねばならぬ。のみならずその服従的・戦闘的なる人間生活の様式は、かつてヨーロッパ人を魅了し去ったように、今やまた新しく現代人を魅了しようとしているのである。

大手マスコミは、かれらを「武装集団」と追従するが、これで彼らが単にアサルトライフルとロケット砲で武装した単なる徒党ではないということが分かるだろう-。
かれらの神(一部族の卑劣な人格神)は、ユダヤ民族の神に出世し・・・イスラムの神さらにはヨーロッパの神となった。そして世界の神ともなりつつある。絶対神を信仰する世界人口は、ヒンドゥー教・仏教・儒教ほかに匹敵凌駕するに違いない。肝心なのは、現代の覇権国家超大国アメリカの神でもあるということだ(苦笑)。
われわれは、この厄介なアラブ、イスラムのテロリストたちの心性に対する和辻の洞察(沙漠的性格)について、よくよく考える必要があると想う。

イスラムのテロリストは、こころの武装を為している。そして最先端国アメリカの為政者もまた、こころの武装を為している(苦笑)。

近親憎悪もはなはだしい限りだ(爆笑)。


【注記】<*2>支那(現代)統一大帝国

 かかる性格をさらに端的に現わしているのは、シナにおいてしばしば現われた統一的な大帝国である。ヨーロッパでこれに拮抗し得るものはただ最盛期のローマ帝国のみであるが、シナでは秦漢以来あとからあとから現われ、最後の大清帝国は近いころまで続いていた。この点のみを見ればシナ人はすぐれた政治家のように見える。しかしこの大帝国なるものは、国土のすみずみまで統治の行きわたったきめの細かな国家ではなかったのである。外観は整然たる大帝国でありながら、民衆は本来無政府的であり、国内の匪賊は常に百万乃至二百万を数える、それがシナの本来の姿なのであった。

支那の分裂・・・支那政府要人の恫喝-
■数千万人の難民(ボートピープル)攻撃の恐怖

半島のふたつの国家のわが国への侵攻よりも・・・
支那人の膨大な数の難民が恐怖だ!
殺して東支那海や日本海に沈めてしまえるのなら、ともかく・・・
○厖大な支那人難民収容施設の建設
○厖大な支那人難民の日々の糧秣の手配
-日本政府は滅びるね(爆笑)。


【注記】<*3>日本の特殊性
よ~く読んでもらいたい。天皇制擁護論でも何でも無いことがわかろう(苦笑)。

 まずモンスーン的な受容性は日本の人間においてきわめて特殊な形態を取る。第一にそれは熱帯的・寒帯的である。すなわち単に熱帯的な、単調な感情の横溢でもなけれぱ、また単に寒帯的な、単調な感情の持久性でもなくして、豊富に流れ出でつつ変化において静かに持久する感情である。四季おりおりの季節の変化が著しいように、日本の人間の受容性は調子の早い移り変わりを要求する。だからそれは大陸的な落ちつきを持たないとともに、はなはだしく活発であり敏感である。活発敏感であるがゆえに疲れやすく持久性を持たない。しかもその疲労は無刺激的な休養によって癒されるのではなくして、新しい刺激・気分の転換等の感情の変化によって癒される。癒された時、感情は変化によって全然他の感情となっているのではなく、依然としてもとの感情なのである。
〈省略〉
第二にそれは季節的・突発的である。変化においてひそかに持久する感情は、絶えず他の感情に変転しつつしかも同じ感情として持久するのであるがゆえに、単に季節的・規則的にのみ変化するのでもなければ、また単に突発的・偶然的に変化するのでもなく、変化の各瞬間に突発性を含みつつ前の感情に規定せられた他の感情に転化するのである。あたかも季節的に吹く台風が突発的な猛烈さを持っているように、感情も一から他へ移るとき、予期せざる突発的な強度を示すことがある。日本の人間の感情の昂揚は、しばしばこのような突発的な猛烈さにおいて現われた。それは執拗に持続する感情の強さではなくして、野分のように吹き去る猛烈さである。だからそれはしばしば執拗な争闘を伴わずして社会を全面的に変革するというごとき特殊な歴史的現象をざえ作り出している。さらにそれは感情の昂揚を非常に尚ぴながらも執拗を忌むという日本的な気質を作り出した。
〈省略〉
 次にモンスーン的な忍従性もまた日本の人間において特殊な形態を取っている。ここでもそれは第一に熱帯的・寒帯的である。すなわち単に熱帯的な、従って非戦闘的なあきらめでもなけれぱ、また単に寒帯的な、気の永い辛抱強さでもなくして、あきらめでありつつも反抗において変化を通じて気短に辛抱する忍従である。暴風や豪雨の威力は結局人間をして忍従せしめるのではあるが、しかしその台風的な性格は人間の内に戦争的な気分を湧き立たせずにはいない。だから日本の人間は、自然を征服しようともせずまた自然に敵対しようともしなかったにかかわらず、なお戦闘的・反抗的な気分において、持久的ならぬあきらめに達したのである。日本の特殊な現象としてのヤケ(自暴自棄)は、右のごとき忍従性を明白に示している。第二にこの忍従性もまた季節的・突発的である。反抗を含む忍従は、それが反抗を含むというその理由によって、単に季節的・規則的に忍従を繰り返すのでもなければ、また単に突発的・偶然的に忍従するのでもなく、繰り返し行く忍従の各瞬間に突発的な忍従を蔵しているのである。忍従に含まれた反抗はしばしば台風的なる猛烈さをもって突発的に燃え上がるが、しかしこの感情の嵐のあとには突如として静寂なあきらめが現われる。受容性における季節的・突発的な性格は、直ちに忍従性におけるそれと相侯つのである。反抗や戦闘は猛烈なほど嘆美せられるが、しかしそれは同時に執拗であってはならない。きれいにあきらめるということは、猛烈な反抗・戦闘を一層嘆美すべきものたらしめるのである。すなわち俄然として忍従に転ずること、言いかえれば思い切りのよいこと、淡白に忘れることは、日本人が美徳としたところであり、今なおするところである。

和辻は決して日本人を褒めているのではないな(苦笑)。

日本の大王(すめらみこと、いわゆる天皇)は、戦闘的遊牧民・鮮卑の出であり・・・往時は半島との兼王で、支那の大帝国とは朝貢関係であった。百済(ペクチェ)人は大挙して列島に渡り、大王の股肱として列島原住民を圧迫した。蘇我氏は大王家の家臣とか豪族とか言われているが、いわゆる大王(天皇)家が、クーデターによって殪すまでは日本の大王位にあった。そもそも・・・切れ目無く継承していく「大王位」が、当時の日本にしてから「あった」とするのは明治維新の詐った現代の神話に過ぎない。天皇家となってからも、怪しい血縁はあるし・・・崩御から次帝践祚まで様々な間隔もある。連綿たる皇統の系譜なんてのは迷信に過ぎない。昭和帝が、精神に問題のあった故皇太后と一夫一婦の関係に固執したときは、たまたま幸運だったに過ぎない。それまでは・・・一夫多妻の原始制の婚姻が天皇家にはあった。その万世一系の男系の神話と、一夫一婦制下の男系とは全然違う。
そういう「実務」がわからぬ右派気取りの学者が多いのは困ったことだ(苦笑)。